こんばんは。最高不倒のさんじゅうはちどにぶ、高熱による体の節々の痛み、頭痛、喉痛の地獄から脱したろくもんです。ブームに遅れてのコロナかと思ったが、曲直瀬道三先生の診たてによると風邪のようなので、間違いなかろうかとぐるじがっだ~
徳島市徳島町城内
阿波・徳島城(とくしまじょう)別名:渭山城、渭津城
徳島城を攻めるのは二度目です。なんでまた来たかというと、この日は快晴の予報やったので西国の城を攻めるつもりでいたのが、当日になり曇天に化けてしまいまして、士気が上がらぬまま西国に向かってたのを方向転換し四の国へと明石海峡を渡ってしもたということです。再訪するほどの価値がある城なのか?と、自分に問うてみるが、まぁあるということでよろしいかと
サラッと説明いたしますと、天正14年(1586)完成。城主は秀吉の四国征伐で勲功のあった小六の息子である蜂須賀家政(通称・彦右衛門)。以後14代徳島蜂須賀家の居城となり、明治維新を迎える。
二度目なんでサラッと萌え処だけでお送りします。
北東にある城攻め専用本陣からバラ園を抜けると堀川(内堀)に架かる数寄屋橋(復元)。数寄屋門(不明門)に架かるから数寄屋橋です。不明門というからには往時は開かずの門でした。現在はがら空きです。
石垣は徳島城名物の阿波の青石といわれる緑色片岩というのは周知の如く。
数寄屋橋のちょいと向こう側の横矢は屏風櫓跡。
がら空きの不明門跡から城内へ突入。
数寄屋門の旗櫓跡石垣とその雁木。
屏風櫓跡の城内側の土塁と雁木。
城内からまた城外へ出て徳島城入口になる鷲の門(復元)。チャリが・・・
鷲の門裏側。曇天やと画がさえない、そしてチャリが・・・
城内への正面突入口になる下乗橋。
下馬橋を渡ると枡形が待ち受ける大手門跡。右側の石垣が野面積み、左が打込みハギになってる。これは前には気付かなかった新たな発見。それに石垣上に立ってるのは駆逐艦のマストとは知らなかった。
大手門跡枡形内。
石を割るんだー 割れまへ~ん そのまま使え~
大手門石垣。
以前来たときに撮れなかった舌石 ベロベ~ロ
舌石とは屏風折塀の支柱石で、塀の一部を屏風のように折り曲げて堀川の方向に突き出させたもので、この折塀に鉄砲や矢を撃つための穴を設けることによって正面のみならず側面方向への攻撃が可能となり、城の防御性を高めていました。簡単にいえば三角に突き出た壁です。徳島城跡の旧寺島川沿いには約32メートル間隔で6個の舌石が残っており、全国的にも類例の少ない貴重なものです。
舌石のとこから撮り鉄。
藩祖である蜂須賀家政像。父・小六が偉大なため武将としては印象が薄い
因みに、「阿波踊り」は天正14年(1586)、徳島城が竣工した際、城主である家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥だという説。
東阪口より本丸を目指す。い 石段がぐるじい~
東二の丸跡。
天守は本丸でなく二の丸にあった。
天守は元和年間(1615-1624)に取り壊されたといわれ、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。なぜ、二の丸に天守が建てられたのかというと・・・わからない。
東二の丸の石垣を下から見上げたかったが、看板に従います。
代わりに上から隅石を見下げると反りがあるのがお分かりした。
本丸南端部の石垣が姿を現す。同じ野面積みでも大手門跡とは違いコケコケ具合と荒々しさで、石垣マニアを興奮のるつぼへ陥れる そして電線がジャマである。
ここは看板がないので少し侵入。おさわりも自由自在
わしが壊れそうになるこの日最狂の石垣! 本丸南端のしのぎ積み部分。
本丸手前で一気に冷める。ありえない石垣補修。補修というより補強やな
本丸東門跡。かなりお手入れされました。
本丸 ひろっ
ざんねんな本丸からの眺望。
本丸北側に本丸北門跡。
右に折れ右に折れのオレオレ連続枡形になってますが? 二段目の桝形は三方ががら空きなので枡形とは呼ばない。と思う。
北門跡石垣。
北門から出れば水の手へ至る。行ったことないけど助任川の方へ出る。
本丸西にある弓櫓跡。
本丸西門跡から西坂口へ。
弓櫓石垣。
回り込んで弓櫓石垣。
帳櫓跡(とばりやぐら)
帳櫓跡の向いが西二の丸跡。草刈してる足軽がいたので全体撮れず。
本丸へと続く石段を見返す。
西二の丸石垣。デカい石!と見せかけて意外と薄っぺらい。
帳櫓跡の櫓台石垣。
上に同じ。
西三の丸。
西三の丸の雁木
柵の向こうは配水池。
西三の丸門跡のオレオレ虎口。右に見えるは配水池の門。
虎口の入り組んだ石垣。
虎口の石垣。
西坂口を出ると無限列車がいる。乗り込むとええ夢見れまっせ~
わしとしては動輪が見たい。
城山南西麓の石垣。
石垣拡張部。
きゅーかんちゅ~ 御城印奪えなかった。
せっかくなのでうどん国へまいります。
23/04/24