激残暑の伊賀攻めのつづきです。

 

 

三重県名張市丸之内

伊賀・名張陣屋(名張藤堂家邸跡)

 

名張陣屋は丹羽長秀(通称・五郎佐、織田家の宿老)の三男で藤堂高虎の養子となった藤堂高吉によって築かれた陣屋です。もともとこの地には筒井定次(筒井順慶の養嗣子)の家臣である松倉勝重によって天正13年(1585)に築かれた名張城がありました。慶長13年(1608)の定次の改易にともない、藤堂高虎が伊勢伊賀を治めることとなり、家臣が城代をつとめていたが、寛永12年(1635)に高吉が領地替えで入り陣屋と城下町を築きました。現在城址には江戸時代の屋敷の一部が残り「名張藤堂家邸跡」として公開されています。

 

高吉(幼名・仙丸)は元々秀吉の弟・秀長(通称・小一郎)の養子に入るはずであったが、秀吉が甥の秀保を秀長の跡継ぎにしたために、居づらくなった高吉を実子のない高虎が養子としてもらい受けた。駄菓子菓子 高虎に実子ができた。実子を跡継ぎにしたいがために高吉は冷遇されけっきょく一家臣(一門衆)扱いになってしまった。高虎の死から間もなく名張に移され別家という形で名張藤堂家の祖となるが、本家からは冷遇されたという。

 

藤堂家邸跡へ乱入する前に隣接する寿栄神社(ひさかじんじゃ)に太鼓門が移築現存してあるので見に行きます。

 

太鼓門(旧正門)昭和10年(1935)移築。

 

 

太鼓門を斜めから撮る。キャタツがジャマである。

 

 

凝っている鬼瓦と瓦の桔梗紋を撮る。藤堂家本家は藤堂蔦紋であるが名張藤堂家は桔梗紋である。んだもん!

 

潜り戸を撮る。子供のころ近所に潜り戸がある家(やや地主)があり庭に忍び込むのに潜り戸から出入りしたが、開閉するたびに鎖仕掛けのためゴロゴロ音が鳴り、音でバレてよく怒られたのを思い出す。

 

太鼓門を裏から撮る。

 

 

寿栄神社社殿。寿栄神社の名は、祭神である藤堂高吉の法号『徳蓮院殿徳翁寿栄大居士』からきている。

 

お屋敷の方へお伺いします。

 

 

現在は大火後に再建されたほんの一部分を見学することができる。

 

 

正面から撮る。

 

 

入館料200円で おじゃまします。月曜、木曜は休館日なのでご注意を。

 

 

公式の場である「表」に対して、私的な日常の生活の場である「中奥」

当主はテレビを観ながらリラックスしてたようである。真顔

 

手前が中奥テレビの間、奥が中奥の奥 真顔 いちおう両方中奥です

 

 

 

 

江戸時代作庭の枯山水庭園。

 

 

茶室(清閑楼)ちっこい正方形の畳のとこが炉であり、廊下側の大きく開いた窓が丸みがあり趣がある。

 

 

湯殿 風呂は湯舟に浸かるのではなく、かけ湯のタイプである。受付にいたお兄さん(年齢はおじさん)の説明によると、大火を起こしてからは邸内で火を使用することを避けてたのでこの方式にしたという。

 

 

 

祝間は名張藤堂家に伝わる資料の展示室となっています。

 

 

手前の朱具足(正式名・碁石頭素懸縅二枚胴朱具足)は家老の藤堂采女が大坂夏の陣で着用した具足と伝わる。高虎と型違いのうさ耳ぴょーんである。

 

角三文字は藤堂采女家の家紋という。

 

 

名張藤堂家の桔梗紋が散りばめられた弁当箱。

 

 

手前に秀吉と長秀の書簡。奥のは秀吉朱印状。

 

 

退出します。

 

 

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お鉄馬車でお越しの際は隣接する福祉センター駐車場が使用可です。

 

 

軒瓦に咲く桔梗。

 

 

因みに、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍から官軍に寝返ったのは本家である。さすがやのう

 

 

 

以上、名張藤堂家邸跡でした。

 

 

 

 

 

22/08/26