8月 攻城数 1
9月 攻城数 0
非常事態宣言も月末で解除されるが、
城攻めしなさすぎて意欲が湧かない。
知らんけど。
城攻め記事が底をついたので、鬼のように陽の目を見てない城を蔵出しします。
2019年8月3日
奈良県大和郡山市
大和郡山城 (やまとこおりやまじょう) 別名:雁陣之城を攻めてました。
平成25年~29年まで天守台の修復作業をしてまして、事前物見を怠ったがために工事期間中に攻めてしまい本丸が立入禁止で憂き目に遭う。修復作業が完了し一般公開されてると信じ(ググって調べただけ)どんな感じに修復できたのかと攻め直し。(実質3度目)
歴代城主は筒井順慶ー定次ー豊臣秀長ー秀保ー増田長盛ー水野勝成ー松平氏ー本多氏ー
柳沢吉里と目まぐるしく変わってます。
大和郡山城へ鉄馬車で訪城された方はこの追手向櫓(昭和59年復元)、正面の多門櫓(同)、追手門(右側)にお目にかかることができる。何故なら、この画像右側に駐車場があるから。
追手門(梅林門)(昭和28年復元)
現在見れる大和郡山城の原形をこさえたのは秀吉(通称・太閤さん)の弟である秀長(通称・大和大納言)です。こちら本丸北東隅の高石垣ですが、秀長の時代(織豊期)にこれだけの高石垣を築けたのかどうか?隅は算木積みやし。 水野勝成(通称・倫魁不羈)時代以降の改修によるものかと。 知らんけど。
極楽橋再建前の場所。現在は2021年3月に完成した極楽橋が架かってます。
竹林門跡。往時は櫓門があり、右の石垣には竹林門櫓が乗っかってた。ここから本丸へ突入します。
以前の内堀は見るも無惨(字がパワハラ無惨になってもた)な密林状態だったのが、除草作業もいたされたようであるが、恐るべし夏草。
柳沢神社を過ぎると天守台石垣がずずずーんと迫ってまいる。奥の大天守台手前に小天守台。前に来た時は工事のバリケードがしてあり、これより先へ進めず、天守台の一部しか見られられなかった。
整備するにも程がある と思うのはわしだけか それより石垣の孕みなどのキケンな箇所を修復するにあたって、石1つ1つに番号を振り、裏込め石も全部取り出して、石を元の位置に戻すという神業な修復作業をされたようです。どこの石垣修復もた大概そうするが作業をした業者 骨折り
月見櫓跡から見る天守台。こちらを向いてる本丸東面の石垣ですが、良く見ると転用石ごっつあります。なんでもこの近辺には石垣に使用する石が少なかったとか。近隣寺院からかなり搔き集めたのではなかろうか。
石垣下の緑の部分は犬走りか土が堆積してるのか、ずっと前から疑問。
天守台付櫓(小天守台)石垣。隅石の下から2段目の黄色っぽいのは転用石。
大天守台。
この石垣上には100万石の大名に相応しい5層6階の天守が建っていたと云われる。隅石の下3段も転用石で平城京の表門から運ばれた伝羅生門の礎石。右下の立札は大和郡山城名物の逆さ地蔵がある所。
頭が下向きなので逆さ地蔵。よくある地蔵菩薩立像のようですね。これも石不足なために地蔵狩りに遭ったものかと。小一郎バチあたったか息子も 右衛門もか
天守台の上とは思えない天守台の上。
天守台から見る法印曲輪。見えてる建物は旧奈良県立図書館で現大和郡山市市民会館。ずっと向こうは奈良市街地。
本丸から出て内堀の西から北にかけての遊歩道(緑曲輪、厩曲輪)から本丸石垣を見て行きます。
木の隙間から北西隅
ぷるっぷるー
北西から。こう見ると犬走りがあるようにも見える。
北北西から。夏草は取っ払ってくれないんやろか
算木積みも向こうとコチラは違いますね。下はやっぱ土。
北東から。素晴らしき直線美
こんな話がある。
増田長盛(豊臣政権五奉行)が郡山城主のとき、関ヶ原の戦い勃発。長盛は西軍でありながら家康に内通したりと自身の保身をも伺っていた。西軍敗北で家康もそんなダメダメな態度を取る将を許さず、所領没収とくん。
長盛が大坂城に詰めてる間、居城を任されてたのは渡辺了(通称・槍の勘兵衛)。
戦後、城を接収に来た藤堂高虎、本多正純に、「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はでき申さん!」と頑なに拒否。
長盛は所領を没収され既に高野山に蟄居していたが、家康は長盛に書状を書かせ勘兵衛の下へ。それを見た勘兵衛はようやく開城した。
勘兵衛 軍人であり漢やな。