明けましておめでとうございます。

皆様のブログにはオジャマして観覧させていただいておりますが、新年のご挨拶はこの場でと代えさせていただきます。悪しからずご了承ください。

 

新型コロナ野郎のおかげで、キビシイ世ではありますが、令和3年(2021年)も私流の城ブログを続けさせていただこうかと思います(辞める理由も特にないので) 

 

また、お立寄り頂ければ災い、ではなく、幸いです。

 

 

 

ほな、去年の飛騨遠征の続きになります。

 

実は、この城の存在を知った時から最も訪れてみたかった城のうちの1つなんデス。

 

岐阜県大野郡白川村三方崩山またスゴイ住所なことで

飛騨・帰雲城(かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)

 

戦国時代に白川郷を中心とする西飛騨を支配し、多くの支城を持つ内ケ島氏理(うちがしまうじとし/うじまさ)帰雲城を本城としていた。

佐々成正が越中に本拠を構えると、織田信長の配下である成正に従った。小牧・長久手の戦いでは成政に属して越中に出陣したが、留守中に豊臣秀吉の命で金森長近が白川郷に侵攻ビックリマーク内ケ島氏の支城を攻略されると領民は金森長近に寝返り帰雲城も占拠された 。

この報を聞いた氏理は「えらいこっちゃ~」と、急ぎ引き返すが既に遅く、氏理は仕方なく秀吉に降伏した。

駄菓子菓子ビックリマーク 

内ヶ島氏の鉱山経営の技術を重要と見なした秀吉は所領を少し削っただけで内ヶ島氏の領地経営を許した

 

所領安堵された氏理は「よっしゃぁお祝いや~!」と、祝宴を開くため、内ヶ島一族や能楽師を帰雲城に呼び寄せた。

 

宴を翌日に控えた天正13年(1586)11月29日(新暦1月18日)、白川郷一帯を大地震(天正地震)が襲ったビックリマーク (この天正地震の被害としては、大垣城は全壊焼失、伊勢・長島城は壊滅、清州城も大被害、長浜城も全壊し山内一豊と妻のまつとの1人娘・よねが乳母と共に圧死したとかあります)

 
帰雲山が崩壊し帰雲城は山崩れの土砂に巻き込まれ、城下町ごと完全に埋没。城主の内ケ島氏理はじめ一族、領民は一瞬にして消滅。この瞬間をもって戦国大名である内ケ島氏は滅亡してしもたという前代未聞の出来事。
 

被害は家300戸以上、圧死者500人以上とされ、たまたま城下を離れてた数人(4人)だけが生き残ったと云う。


城があった場所は現在も特定されてなく、城跡とされるのはその推定値です。

 

観光足軽でごった返す白川郷から脱出し、鉄馬車を奔らせること10分くらい。

「帰雲城埋没地」の看板が立つ所を入れば城跡推定値となります。

 

 

城跡推定値に城跡碑と埋没者供養の観音様が建つ。

 

 

 

内ケ島氏は領内に鉱山を持っていたために、膨大な財を蓄えていたと云われています。この辺のどっかの土中にはザックザックと埋蔵金がぁぁぁ!?

 

 

石碑後方の帰雲山には今も生々しく地滑りの跡が残る。

 

 

 

本格的な発掘調査とかしないんであろうかはてなマーク はっきりとした場所が特定されてないので、広範囲に及ぶ調査も難しいんでっしゃろかのうはてなマーク 

 

 

城跡碑の向いには霊を鎮めるために建てられた帰り雲神社

 

 

 

次に来る時はショベルカーで来ようウシシ 

 

 

以上、400年以上も城があった場所が特定されず、埋蔵金を貯蔵したまま一夜にして消滅した歴史浪漫溢れる帰雲城でした。

 

 

 

 

 

20/10/31

 

 


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