『姉川の戦い』が瞬殺 笑い泣きナレのみて・・・

 

そしてこちら

 

『長良川の戦い』

討ち取られてしまったマムシもっくん道三が葬られた

 

岐阜市長良福光

史跡 道三塚

 

住宅地の一角にポツンとある。

 

 

「長良川の戦い」にて敗死した道三の遺体は崇福寺の西南に埋葬されますが、たびたび長良川の洪水に見舞われたため、常在寺の住職によって現在の場所に移されたとある。

 

祠の中に道三の墓碑がある。なぜか道路の方を向いてなくて民家の方を向いている。岐阜城の方を向いてるのかと思ったが、そうでもなさそうで、向いてる方向に何かあるのかとマップで探してみると、岐阜メモリアルパークがあったにゃ

 

墓碑には弘治二辰(二年のこと?) 四月廿日 斎藤道三公塚と刻まれている。葬られたのは道三の胴であろうか、首であろうか、それとも鼻であろうかはてなマーク 横の小さき墓石(?)は従者のものであろうかはてなマーク

 

一休さん 南無

 

幟を写そうとすると必ず裏返しになってる。手前のは無理やりこっち向けた。

 

道三塚から去る。

 

 

永禄10年(1567)、織田信長岐阜に入ると、織田家菩提寺となった

 

臨済宗妙心寺派 新護山 崇福寺(そうふくじ)

 

 

お読みください。

 

 

アセアセ 説明版の後半の如し。

 

 

境内

 

 

稲葉一鉄(西美濃三人衆筆頭)寄贈の鐘楼がありました。見えるのはまだ青い柿の実であったあせる

 

 

鐘楼が見えた。

因みに、「頑固一徹」という言葉は稲葉一鉄が頑固者だったことから生まれたとされる。

因みに、一鉄の娘婿である家臣の斎藤利三(春日局の父)を光秀が引っこ抜いて一鉄が信長に訴えて拒否った光秀に信長は激怒して蹴り倒したという逸話は有名。

 

公卿である一条兼良寄贈の土塀。

 

 

撫子紋は斎藤氏の家紋。藤原氏の末裔が多く使用してる。

 

 

拝観料¥200で本堂内を拝観できます。

伝織田信長公愛用櫓時計 ※信長愛用と伝わっていましたが、江戸時代に作成された可能性がありますと。しょんぼりざんね~ん  左に見えるは清州城築城時の鯱瓦と伝わる。展示の仕方が雑な感じが・・・

 

本堂

 

 

織田信長公画像。

 

 

伝織田信長公筆「雪月花」 天下布武の朱印あるけど・・・伝と付くものは疑ってかかるわし。

 

 

信長さんと信忠くんの位牌もあり。

 

 

本堂にある血天井関ヶ原の戦いでの前哨戦があった岐阜城の織田秀信(信長の孫)は西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城は落城。その際に戦死した将兵の霊を弔うために、血痕が附着した床板を天井に張ったもの。

 

拝観料で本堂裏にある信長、信忠父子の廟所も見学できます。

本堂前庭の石庭

 

 

石庭から本堂の裏手へ。

 

 

信長父子廟

 

 

お読みください。

 

 

位牌堂

 

 

 

以上、道三が眠る道三塚。信長父子が眠る崇福寺でした。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

20/09/20

 

 


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