長い梅雨が明けての週末(土曜日)、好機!とばかりに山城攻めに。
激烈にしんどかった
夏の山城はアカンと改めて実感。今さら何を言う~
美濃攻めの続きデス。
岐阜県可児市大森
美濃・大森城(おおもりじょう)
十兵衛光秀とは関連ない城です。
明智城には大勢の足軽が詰めかけていましたが、訪れる足軽も少なく整備もいうほどされないですね。その代わり遺構はいい状態で残っています。
大森城へ行くには大森神社の境内を通って行きます。鳥居横のBOXに城に関する資料(1枚もん)が入っています。
「何事もなくこの場所まで帰って来れますように~」とお参りをすませる。拝殿の後方が城跡であり、この拝殿の両側から登城道がありまして、坂道がゆるそうな左側の登城道を選択。
境内にある説明板と縄張図。ボケた。
大森城は久々利城主・土岐悪五郎の家臣・奥村又八郎によって築かれた城であると云われる。奥村氏は森長可の家臣団に組み込まれていたが、天正10年(1582)に「本能寺の変」で信長が討たれると、それまで森氏に従っていた東美濃の国衆は森氏に反旗を翻しました。又八郎も長可を謀殺しようと計画したが内通者が出て発覚したため、長可に攻められ、又八郎は城に火を放って越前へ逃亡。
その後城は森氏が改修して使用したと伝わる。なので現在残ってる遺構は森氏改修後の遺構のようです。
標高145m、比高35mの丘陵にあるので、ちょいちょいちょ~いと登れる城です。この絵図では下(東)の居館区画であろうか、その辺りが現在大森神社があるとこ。そこから左上へ進み、曲輪下の巨大な横堀を通り桝形虎口へ向かい、山上部に連続する三つの曲輪へ右から順に攻め入ります。
登城開始!と上り始めると、上からオッサン、いや、どちらかというとじいさんが下りて来た。
見た感じ地元の人のよう。
わしは 「こんにちは」と挨拶。
じいさん 「・・・・」無表情で無言。
愛想のないじいさんやな。いろんな人がおるでまあええわ。
すれ違いざまにじいさん見ると、手に鎌を持ってる
やり過ごしてから後方が気になり、ふと振り返ると
ジジイが手に持った鎌を振りかざしてわしの方に向かって・・・
こねえよジジイは行ってしまった。
要らぬ妄想をしてしまった。
じいさんを気にしつつ進むと、間もなく直進と右折と分かれ道。順路は右を指してるので右へ。
いきなりの横堀の道となる。左の切岸上は曲輪で曲輪下を横堀がず~と続いてる。先には折れも見られます。
左から切岸、横堀、土塁となかなかの絶景。
曲輪を分断する堀切。
横堀が続く。
まだまだ続く。
堀切。
枡形虎口の部分。たぶん 春日神社から右側ルートで来るとここへ出る。たぶん
削平された広い空間。北端の曲輪の下の部分ですが説明に三つの曲輪が並んでると書かれてるので馬出的な空間か?
枡形状な地形。
北端の1つ目の曲輪。土塁で囲われてますね。
土塁
土塁
次の曲輪へは普通な感じの虎口。普通な感じを虎口というかどうかわからんが
縄張図にはどこが主曲輪か記載されてないが、絵図と立地的にここが主曲輪であろうかと。特に城跡碑などはナシ。
美濃・大森城 撮ったどー
曲輪南側の土塁。
整備状態はこんな感じ。
主曲輪南の堀切。横堀を歩いてて見えたやつ。
堀切は西側へ落ちていってます。
落ちて行った先には腰曲輪。
主曲輪の南にある三つ目の曲輪。整備されてないけど歩きはデキる。
なかなかな土塁あり。
横堀から最初に見えた堀切がドーン
毎度毎度堀切に降りるのは苦労する。降りたらまた上がるなあかん訳で、上がるのにまた苦労する。
堀切から苦労して上がった一番南にある曲輪は出曲輪であろうか? 土塁を背に何か祀られてる。
石製の祠で中がカラで何も祀られてない。
祠の後ろに権現さんの石碑。
出曲輪を攻略して下って行きます。
下りると最初の登城道へ出れました。
森長可(乱丸の兄)に攻められ、城に火を放ち逃亡した城主・奥村又八郎元広は越前に逃れ前田利家に仕えたという。
以上、森長可が改修したであろう遺構が良く残る大森城でした。
もうちょっと整備して表示板、城跡碑をこさえていただければバツグンです。
20/03/21