連休なくなると更新が鈍る。
一生連休にならんもんかあはは
ほな、前回からの丹後国遠征の続きで御座います。
京都府与謝野町岩滝(阪珍トラガース糸井の出身地やね)
弓木城(ゆみのきじょう)
別名・稲富城、忌木城、弓ノ木城、一色城
山の周囲に切岸を巡らせた比高55mの山城。何百m級の山城ではないのでひょいひょいひょ~い!と登って行ける。この時期(攻城したのは6月)はクソ暑い中400mも500mもある山城攻めてハーハーゼーゼー言うて、討ち死にしとうないので、こんくらいで勘弁願いたい。
何と言うても『弓木城』って名前の響きがいいね。
因みに、天橋立の近くですが山頂から天橋立は見えません。
城は現在城山公園となって整備・・・されてるとはいい難い。となっております。軽が停まってるとこがそこそこ広い駐車場です。駐車場にはトイレもあります。これは駐車場から城山へ歩いて来て振り返った図。
駐車場の横の小高い山が城山で案内板もあります。この右の道路を挟んだ向かい側も元は城域であったが、現在は小学校の敷地となってます。因みに、消化ホース格納箱にはパンフ入ってませんので、むやみに開けないように。
弓木城は鎌倉時代末期に伊賀国から流れて来た山田氏が丹後国で稲富(いなとみ、いなどめ)氏と名乗り、その稲富氏が築城し、代々居城としました。室町時代になると清和源氏義国流足利家一門の一色氏が丹後に守護として入ると、稲富氏はこれに従い家臣となった。
稲富氏というのは、知る人ぞ知るあの稲富流砲術の奥義を習得した人物で、その孫の稲富祐直は奥義を伝授し数々の大名や徳川家の殿さんに鉄砲の指南、奥義を伝えたのである。
天正6年(1578)から織田信長の命による明智光秀と細川藤孝による丹後侵攻では、翌年に一色義道の居城である建部山城が落城し、子の一色義定は弓木城に籠城して抵抗しました。織田軍は攻略できずに和睦となり、義定は藤孝の娘を娶り、以後は弓木城を居城としています。
歯科士天正10年(1582)、織田信長が「本能寺の変」で倒れると、義定の反乱を予見した細川忠興は宮津城に義定を招いて謀殺、弓木城にも兵を送ると、守備兵奮戦空しく遂に落城と相成りました。
流石はあほボン忠興。やることが汚い。
案内板の縄張図ですが、このブツブツなに カビ だいぶ見難いが、北曲輪群(跡)が現在小学校が建ち、遺構は小学校の地下に埋まってるんですね。右上の出丸の左上の白地部が駐車場です。縄張は主郭(Ⅰ)と二の丸(Ⅱ)からなる簡素な縄張りですが、城の周りは鋭い切岸によって堅固に築かれています。
登城道は幾つかあるようですが、城跡に水無月神社があり、その参道である石段から攻城開始。
石段の横を見れば、いきなし土塁の登場。表示柱折れてました
ちょっと土塁の向うへ。南曲輪群は草ボー状態で良く分かりませんが段曲輪になってる感じです。
主郭と南曲輪群を隔てる堀切のよう。
主郭方面へ上がる。
さっきの参道石段へ出た。折れ曲がってるが、元々城の道か神社建設時に造られた石段かは分からない。
神社現る。
お稲荷さんやね。おそらくここも郭やったのでしょう。物見櫓があったと推測します。
狛狐っていうのかな?片方いませんね。
奥の巨石はなんじゃろ 溝は人の手が加わっていそうな感じですが
因みに、お稲荷さんて狐さんが神さんではないのですよ。お稲荷さんの神様は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)という食物の神さんで、狐さんはその神さんの使いなんですわ。
向こうが主郭のようです。
お稲荷さん横の主郭の腰郭に建つグルグル巻きの表示板。恐らく別の登城道(草ボー状態で歩けない)か朽ち果て廃墟状なトイレを指しているかと。
主郭北側の腰郭。
お稲荷さんの向かいから主郭へ上がります。
この城最強の難関 わいはこんなとこ通りたないんじゃ~
案の定蜘蛛の巣の迎撃に遭い主郭到達
これが水無月神社なの 神社関係の倉庫とちゃう
なんかいい感じ
ただ、この場所は主郭では最高所となっており、この削平地が往時のままやとすると、櫓の1つ位というか天守の代わりになる建造物が建ってたでしょう。と推測。
上から見たさっきのお稲荷さん。朽ち果てたトイレも見えます。
主郭にビミョーな感じの土塁・・・きっと土塁。
主郭南側の虎口。下りて行きかけたけど、蜘蛛の巣がイヤなので止めました
樹木に覆われてちょっと目立たない城跡碑。夏は見過ごさないようにしましょう。
丹後・弓木城 撮ったど~
主郭に休憩所あり。休憩するよりなにより横の地形が気になる。
バーンと出た堀切。
ドーンと一直線に竪堀となって奈落の底まで落ちて行く。
ちょっとね、この竪堀に気になるとこが御座いまして、帰ってからストリートビューで下の道を確認したんですよ。そしたらこの竪堀の延長線の道路に出た所に「一色古城址」と「水無月神社」て刻まれた石碑建ってました。 えぇ~!竪堀とちゃうんちゃう いろいろググって見た結果、主郭にあった倉庫、あれはやっぱ神輿の倉庫で、祭りになると倉庫から神輿を出して、この竪堀を神輿担いで下りて行くことが判明しました。どうやらこの竪堀は水無月神社の参道であって、竪堀とちゃいますわ 現地ではめっさ明瞭な竪堀や~カッケー!と感動したけど、帰って調べてちょっとガッカリ
その竪堀ぢゃなくて参道の右側の郭。
左側はⅡ郭になります。奥には城塁であろうか?盛り上がりが見えます。こやって参道の左右に郭があるということは、元々は実際に堀切であったモノが改変されたと思います。縄張図にも描かれてるし。
Ⅱ郭の城塁?
上れるとこは必ず上る。いや、なるべく上る。
Ⅱ郭城塁の腰郭。
北側にも道がありました。夏以外は通れるかも知れません。
Ⅱ郭北側のエグられたような急峻な崖を見て散策は終わりデス。
弓木城主であった稲富祐直は忠興に攻められて落城した際には、砲術の腕を買われて細川家に仕えるようになります。
そんな稲富祐直。関ケ原の戦い時の西軍の大坂城下の大名屋敷女房衆人質大作戦で玉造細川屋敷での細川ガラシアが自害した時。(キリシタンなので実際は自害ではないが)共の者が殉死する中、1人屋敷からすたこらさっさと逃げ出しています。当然の如くあほボン忠興くんは激おこプンプンで「ひっ捕らえて火炙りにしてやらぁ!」と奉公構を発令辛うじて砲術指南役にと家康に救われたり、朝鮮の役では虎を目の前にビビって鉄砲を命中できなんだと後ろ指刺されたり、そんなダメダメな逸話も残ったりしてるんですよね。
遺構は少なく感動した竪堀が参道であったというのが分かってちょっと残念であったが、郭跡の削平地は分かりやすく残っていて以外と楽しめました。それに小ぢんまりとして夏場はこれくらいの比高と規模の山城がちょうどええ感じな丹後・弓木城で御座いました。
19/06/01