国吉城から北へ十数㌔金ヶ崎城へ進軍しました。
金ヶ崎城と天筒山城
見所が特にないので一気に行きます。
金ヶ崎城登り口の案内板。
御覧の如く南北朝時代と戦国時代に「金ヶ崎の戦い」がありました。元亀元年(1570)に信長勢が大挙(10万)押し寄せたときは朝倉景恒が守ってましたが、信長は天筒山城を猛攻し先に陥れ、金ヶ崎城に迫り援軍来ず孤立無援となった景恒は城を開城。信長は難なく金ヶ崎城を取ったどー。
我は信長さんとは逆攻め(北から南へ)金ヶ崎城から攻撃しとう御座ります。
登り初めて間もなく金ヶ崎宮です。
御祭神 尊良(たかなが)親王。恒良(つねなが)親王
香恋(カレン)ちゃんと並んで写真撮りたかったけど、1人では叶わず
帰りは途中からここへ下りて来る事ができます。
赤レンガの坂道を行く。
赤レンガの道から敦賀赤レンガ倉庫が見えた。
石段を行く。この後この石段が恐怖の石段と化するのである。
T字路を左へ。
遊歩道はすべて舗装され歩き・・・やすい。
もうすでに城域であった。古城跡の石碑がありますが、この辺り一帯が本丸なのです。遺構らしき遺構はなにもありません。
石碑の先の先端が最高所になり月見御殿跡デス。
月は見えなかった。青空も見えなかった。敦賀湾とセメント工場が見えた。
なにもないけど金ヶ崎城 撮ったど~
なんか味気ない金ヶ崎城でした。
往時からこんな味気ない城やったのでしょうか
盛り上がりも何もなく天筒山城へ向かいます。
先程のT字路の右側へ行くと。グーンと下り坂になってます。
要するに堀切で防衛線になっていました。南北朝の金ヶ崎の戦いでは各木戸で激戦が繰り広げられたようです。木戸というだけあって木の戸が設けられてたと推測します。
竪堀となり落ちています。
焼米出石土跡。兵糧倉庫があり織田VS朝倉の攻防で倉庫が焼け落ち、その焼け米が出土したと伝わる・・・伝わる
早々と修繕するが由
ドーンとまた堀切のよう。
二の木戸
イイ感じです。
堀切道になっちゃってます。
一の木戸
天筒山城と金ヶ崎城の境界線がよくわかりませんが、いくつもの堀切によって両城の防御に務めていたようです。
そして恐怖の石段が我を襲う
恐怖の舗装道も我を襲う 石段と舗装道が続くのなんの。けっこう足にきた。
またしても谷底へ。いや堀切底へ。
木戸ではないが堀切です。この堀切から天筒山城になる感じ。
天筒山城域に突入。石のスベリんこが二か所あるが、しばらく誰も使用した形跡なし。
見張台という場所らしい。
この部分が見張台 右が本丸で左は小高く藪状で、入ってみましたが鉄塔が立ってるだけで特に何もなかったが、櫓くらい建ってたかも知れないですね。
スベリんコの上の段にドーンと立ってる展望台。ここが本丸のようです。因みに上には上がってない。
城の遺構の表記は一切なし。天筒入口から登った方が早かったかも。
なんじゃこりゃ~ トイレでした。
手筒山城 撮ったど~
敦賀湾と眼下には赤レンガ倉庫。
結局、天筒山城もビビる程の遺構はありませんでした。
元亀元年(1570)金ヶ崎城を開城させた信長は、木の芽峠を越え、越前に乱入しようとした矢先、義弟である北近江・小谷城の浅井長政裏切りの一報がもたらされる。信長は俄かに信ずることができず。そこに長政の妻・お市(信長の妹)から小豆が入った両端が結ばれた袋が送り届けられる。
信長は 「ん両端が結ばれておる。袋の中は小豆じゃ」
「ボリボリ、あんま旨くないのう」
「ん」
「袋・・・小豆・・・ふくろ・・・あづき・・・ふくろ・・・あぢゅき・・・ふくろのあぢゅきぃ…ふくろのにゃぢゅきぃ・・・ふくろのねじゅき・・・ふくろのねずみ・・・はっ!ふくろのねずみ」ばんざーいばんざーい! すんません
ムリがあるけど信長はそれで長政の謀反を確信したらしい。
勿論後世の創作ですが、長政の謀反は紛れもなく本当で、前方に朝倉、後方に浅井と信長はまさに窮地に立たされた。
そうなると信長の決断は早い。「藤吉郎、殿」
信長は一目散に京へ逃げたー
藤吉郎命を賭けた大勝負。奇跡というか見事というか、秀吉も無事京に帰還する。
世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
そして藤吉郎は出世街道に乗る。
以上、信長、家康、秀吉の三英傑集結し、信長はとっとと逃げて、秀吉が残り踏ん張った金ヶ崎城と手筒山城でした。
家康も藤吉郎と共に殿として残ったという話もありますが、ないでしょう。見てないから知らんけど
さて、城が溜まってきました。
この後、摂津で1城。
丹後で2城。
播磨で1城。
北陸討伐作戦で7城。
大和で1城。
信濃攻略戦で6城。
おもしろおかしく公開日誌のつもりで記事にしていますが、記憶力がないので早く記事にしないと飛んでってしまいそう
わしのペースやと週2記事が限度か
記憶から消したら記事にせんでもええの~
城 だ も ん
すんません。
19/05/18