GW後半戦の始まりです。
鳥取県八頭郡(やずぐん)若桜町(わかさちょう)へ遠征。
若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう) 別名・若桜城、鬼ヶ城
以前ご紹介した岡山の鬼ノ城(きのじょう)は古代山城ですが、若桜鬼ヶ城は中世城郭と近世城郭の両方の遺構が残ってる山城です。
「若桜」という名称には諸説ありますが、平安時代(承平年間931~938年)に作成された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に「若桜郷」として記載されたのが最初と言われています。「和名類聚抄」は醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進した、我が国最初の分類体の和漢辞書です。「若桜」という名称の由来としては、「日本書紀」及び「古事記」の履中天皇(5世紀前半の天皇)の項に「伊波礼若桜宮」(いわれわかさくらのみや)に奉仕した「若桜部」(わかさくらべ)に因むというのがもっとも有力な説と言えます。「若桜部」は平安時代の天皇直属の天皇を支える集団でその「若桜部」がこの地に居住したことから、地名として定着したものと考えられます。(わかさ観光ガイドより)
鬼ヶ城という名称は鬼が住んでたとかの伝説・・・たぶんそんな感じ
〈鬼ヶ城の説明〉
山腹に中世山城の遺構。山頂部に近世城郭の遺構があるが、廃城の際に石垣が人為的に崩された状態で残ってるとのこと。尼子党の山中鹿之助らも入城してんやって。
因みに、木下重堅は荒木村重の小姓上りで荒木重堅(村重の一族か?)といい、後に秀吉に仕え、木下姓を授かったデス。自刃したのは天王寺の一心寺。
山崎家盛ちゅうのは、近江の出で、秀吉に仕え、関ケ原では止む追えず西軍に属したけど、嫁はんが池田恒興(通称・恒ちゃん)の娘、即ち池田輝政の義理の弟やったが為に加増されて転封になったというちょっとラッキーな将デス。
城攻めの前に若桜駅
国登録有形文化財の若桜駅は昭和62年に廃止となったが、住民の住民運動(名付けて住民一揆)が起こり、若桜町などからなる第3セクターによる運営となって、現在も地元住民の足として、重要な役割を担っています。
駅構内へ入ろうかと思ったが、入場券要るので後回し(結局後からも入ってない)
実はこの駅の横に無料駐車場があり一旦はここから徒歩にて城攻めに向かうことに。
一旦は・・・
隣にある道の駅「桜ん坊」から覗いて見たら・・・南斗!北斗!ピ、ピンクのC12 予習では普通の黒やったぞ 派手すぎるー どうやら町おこしの一環としてピンクに塗って地域活性化を図るとな その甲斐あってか観光客が集まるようになったそうですわ。わしは黒の方がええけどな。向こうの青いのは12系やな。
駅から真っすぐ行くと案内板。なんと楽ちんちんと山頂まで車で行ける。歩けば40分。迷わず山頂まで一気に突撃デス。
道の駅でゲットしたパンフの地図
そういうことで若桜駅から徒歩にて登城する羽目になったのである。
ただ、これだけで終わらない鬼ヶ城である。
八幡広場の向うの山裾に登城口かある。城山は左奥の山になるかな。
防獣柵。それも電気ビリビリくるやつ。1本1本がフックになっていて、フック外して内に入り、またフックを掛け直すというめんどくさいやつ。フックを外したはええけど、元に戻す時ひっ絡まって2段目が3段目に、3段目が1段目になったりして、直してるうちに電気ビリビリ・・・ならないように気を付けましょう。
車で上まで行けたらこんなとこ歩かんでもよかったのになぁ
登り初めて間もなく苔むした石仏群ありまして、この辺りでやたらと足元がスベルなぁと、ふと足元見ると、スニーカーやんけっ ベイビースニーカーブルース ベイビースニーカー・・・歌ってる場合かっ 靴履き替えるの忘れてた ・・・駅まで戻る
戻ったついでに八幡公園の横に駐車場があったので車も移動。
お忙しいことで。
気を取り直して再登城。
どうやら物見櫓(現代の)であろう建物。階段崩壊してるし物見できそうにない
反対側に崩壊してない階段があり、恐る恐る上がる。
絶景
三合目が現れたけど、この先には○合目の板は現れなかった。どうやら登山ルートが二手に分かれていて、もう一つのルート用だと思う。
再び物見櫓と言うより、物見所やね。
ちょっと絶景
この辺りから古城(中世)の遺構が見られるようになります。
物見所から上方を見ると右に土塁。
上の縄張図の赤字なとこ。堀切から落ちる竪堀かな。この上が古城の郭になるけど、上がらず先へ進みました。
ばんばん登ります。
突然開けたスキーのゲレンデのような場所に出る。パンフの地図をよく見ると旧若桜小学校スキー場て書かれてた。登城道は上へ続いてるので、ゲレンデを歩いて登るのはしんどかった。
進んでるとゲレンデより急な斜面に何やらうごめく物体が (真正面の黒い物体)
ヒエ~クマ 違う クマの様な足軽が斜面を直登してる
なんや調査してる人かな まだ遺構はないと思うけど・・・
そのまま登ってるとそのクマのような足軽(クマのような足軽青年、通称・クマくん)と合流する。
なんでも途中で道を見失い斜面を直登したらしい。(そんな道分かり難くなかったぞ)
話を聞けば彼も通行止めに遭い徒歩で登って来たとのこと。(わしと一緒やな)
なんと北九州から車で続100名城スタンプ集めでやって来たという。(骨折り!)
そのスタンプは頂上にあるとのこと。(わしはスタンプ集めてへんのでどこでもええけど)
暫し話ながら同行(お互い城好きなので話が弾む・・・)
圧巻の六角石垣現る 頂上の北西方面に六角な形状をした石垣(実際に六角なのかは確認してない)。立地などから山頂部を守る物見台(櫓台?)だったと考えられるという。積み方からして山頂部より古い時代に構築され、破却されず、ほぼ完存した姿で残されてます。
山頂部の石垣より古い時代とは木下氏や山崎氏より前の時代かな、尼子党か毛利配下の八木氏時代の石垣やろか
石垣に接近。荒々しくてよろしい。隅石は算木積みになってません。
石垣の周りは急斜面なのでご注意。
苔っぷりも宜しいようで。
六角石垣の上部に残る土塁。
六角石垣から上を目指します。
石垣がチラホラと。
いつもの如く大木が倒れてる。
写真撮ってる間にクマくんは先に行った。
その2へ続きます。
19/05/02