三重県桑名市
「それは桑名の焼ハマグリ」
桑名と聞けばどうしてもそのセリフが出て来る。
いつから身に付いたかは記憶にない。
焼きハマグリも食うたことはない。
そんなことで、
伊勢・桑名城 (別名 扇城、旭城、九華城)を攻めました。
徳川四天王本多平八郎忠勝の像が出迎えてくれます。顔の部分が影になって表情が分かりませんが、意外とカッコいい。像の後に見えるは棒ではありません。平八郎愛槍の蜻蛉切(とんぼきり)ですが、長すぎて入りきりませんねん。
因みに、なんで「蜻蛉切」と言うのかというと、穂先に止まった蜻蛉(トンボ)が真っ二つに切れたという逸話からです。
詳しい歴史は説明書きをご覧あれ。藩祖は上総国・大多喜城からやって来た平八郎忠勝。
本多家は二代目藩主・忠政の代に姫路へ移封。その後は親藩である松平家いろいろ。いろいろというのは松平家はいろいろ家系がありややこしい。
桑名城古絵図。揖斐川の水を掘りに引き込んだ水城です。
現在は九華公園(きゅうかこうえん)として整備されまくってます。九華→くはな—くわなと読むことができるからですって。それよりも古絵図と照らし合わせると改変されて水堀がだいぶ埋められてますねえ。
堀はそこそこ広い。桑名城の石垣は四日市港築港の資材に使用されたから堀の石積も改変されて現代の物になって味気ない。
公園内はこれといって見所ないのでだいぶ省略します。
刻印部が何故に白い
西の方から見た右が二之丸跡。左が本丸跡。
石積 現存
二之丸から本丸へ渡るなんとか橋。木が茂ってる場所が辰巳櫓跡になる。
近世城郭なのに櫓台に石組がない。寂しい限りです。櫓台上にあるのは何故か大砲。
大砲の由来もわからないと
こちらは神戸櫓跡(かんべやぐらあと)
本丸跡にある鎮国守国神社。主祭神は松平定綱(5代藩主)、松平定信(定綱系久松松平家第9代当主)
神社の奥ほどに天守台。
伊勢・桑名城 撮ったど~
天守台の説明あり。いわゆる再建天守台です。
往時は四重六層の勇壮なものであったという。
徳川四天王の城なのに、何とも残念な城跡になってしまった感である。これも四日市港築港の資材に流用されたがために仕方のないことなのであろう。
ただ、桑名城の見所はまだこれからなのデス
ほ~れ、平八郎像後方の三之丸跡(三之丸堀)に石垣跡 看板があったのでその辺りをくまなく探したが、石垣見当たらへん
古絵図では三之丸も水堀に囲まれていたが、現在は御覧の如し。
三之丸の向うに流れる揖斐川と長良川の合流点。手前が揖斐川、中洲の向うに長良川。この角度では見えないが、その向こうに長島がある。
復元物ではありますが、桑名城のシンボルと言うてもいい幡龍櫓(ばんりゅうやぐら)を見逃してはならぬ。
近づいて撮る。
角度を変えて撮る。 窓がない。
通り過ぎて撮る。
説明板。
櫓内に入れるので入ってみる。
櫓内は超近代的。ダイキンの四方向天カセエアコンも完備。
屋根瓦に幡龍がおる。幡龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍の意味。
川側からも撮る。撮り所が少ないのでいっぱい撮る。
川側の正面から撮る。窓が多い。
去り際にもう1枚撮る。
これを見んことには帰られへん物がある。
三之丸の西側にある外堀。舟置き場になってるが、石垣が残ってます。
築城時の石垣が見られる。
北大手橋へきた。 すんません
橋の上から見る。おっ!なんか下へ下りれそうな感じ。
やっぱこうゆう角度で撮りたいですね。
本多平八郎は慶長14年(1609)6月、家督を嫡男・忠政に譲って隠居する。
慶長15年(1610)10月18日に桑名の地で死去。享年63。
近くに墓があるという。
お参りしていません。
この後は関ケ原経由で2か所攻めて帰りました。
お楽しみにしないでお待ちください。
19/02/23