あれよあれよと言うてる間に師走になってしまいましたが、
後瀬山城(のちせやまじょう)のつづきです。
二の丸・山上御殿跡 主郭への石段
主郭 愛宕神社
赤点線より登城し、現在は主郭への石段手前です。これより主郭、二の丸へ向かいます。
石段を一段上がるともう一段石段がある。両側には石が見えてきて
石段の右側の石垣。
回り込んで西面は鋭い切岸。
更に回り込むと耐え残ってる石垣くん。
今度は石段左側の東面。苔ってる感じがよさそう
この絶景を撮るために切岸に足を踏ん張るつもりが・・・ 足を滑らせてずり落ちた 地面が湿ってたのでドロドロなってもた 脛が痛いとおもたら流血してた
恐るべし武田氏の切岸。流石は信玄の親戚だけはある。
高さは3mくらいか。しかし苔っぷりが良くてしかっかり残ってる長石垣に感動。血出して撮りにきた甲斐があった
切岸上の石垣を撮る際は用心致しましょう。
懲りずに切岸を横移動。
角は算木積み初期段階かな。ということは石垣は丹羽五郎左時代の物が残ってる感じですかね? それにしても木の寝っこがグロい
矢穴のように見える。
反対側から主郭へ上がれたのに、わざわざ切岸を石段まで戻り主郭へ。
建造物が見えてきた。石灯篭も見えます。
主郭(本丸跡)
後瀬山城撮ったど~~
石列内に建つは休憩所と愛宕神社の祠。愛宕神社は慶長6年(1601)の廃城後、京極高次の妻である常高院(浅井三姉妹の次女・初)により勧請されたもの。
丹羽五郎左が天守を建てたとうい話もあるらしいが、詳細は不明のようです。
主郭ににある案内。
主郭にある土塁に築かれた石垣。
主郭西面を防御している石垣に見て取れるが、他サイトを覗いて見ると城の遺構ではないかも知れないとのこと。
土塁の上から。
斜面は崩れた石やろか?石がゴロゴロ。
山上御殿(二の丸跡)へ向かいます。
主郭南側の虎口。石は崩れてしもてるが桝形虎口になってた感じです。
主郭と二の丸との間の堀切。けっこう幅広の堀切に崩落したであろう石がゴロゴロ。
堀切から見上げると主郭の崩壊を免れた石垣くん。
堀切を反対側から。
二の丸への虎口は土塁というか土橋状になった坂虎口です。
二の丸跡。かつてこの二の丸には山上御殿があり、発掘調査により礎石建物跡、庭園の築山、茶道具などが出土したようである。現在は御覧のように埋め戻されたのかクモの巣と石ころゴロゴロ状態。せめて整備してほしいな
土塁は明瞭
同じく土塁。縄張図を見るとこの二の丸北側から山麓にかけてぎょーさんの曲輪があるようなんですが、取り付けそうな場所がなく危険が危なそうやったので行ってません。
因みに、山麓(空印寺の辺り)に城主の守護居館があったようですが、現在は確認できないようになっていました。
二の丸を出て、曲輪はもうないが南方面をちょっと散策。
二の丸の切岸下を歩く。
畝状竪堀(略して畝掘)発見
竪堀もありました。
うねってる土橋 略してうねどば
すんません。帰ります。
若狭・武田氏は若狭守護に加え、一時は丹後守護も兼ねて、けっこうな勢力となっていたんですね。名門武田家も戦国の打ち寄せる波に翻弄され滅亡への道を辿ってしまったという訳です。
若狭・後瀬山城を終ります。
若狭には父親が持ち帰った肉を、15歳の娘が人魚の肉と知らずに食べてしまい、不老不死になってしまった娘が800歳まで生きたという伝説があるそうです。
はっぴゃくさいて
どんな容姿になったんやろ・・・・
ほなまた。
18/10/20