岡山県備前市閑谷。
江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、日本最古の庶民のための公立学校、旧閑谷学校(しずたにがっこう)を訪問しました。
平成27年(2015)4月には「近世日本の教育遺産群」として特別史跡旧弘道館、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定されました。
石塀が学校を取り囲むという独特の景観。
正門であった校門(鶴鳴門かくめいもん)(重文)は現在は通行できませぬ。
実はこの門の正面(撮ってる方向)に石橋(重文)があるのですが、撮ってません
屋根は備前焼の窯変瓦で本瓦葺き。校門の屋根には鯱も乗っかってます。
備前焼は茶褐色で1つとして同じ色、同じ模様にならないのが特徴。
切込み接ぎで上部に丸みがあって独特な石塀やね。この先に受付があって、そこから入校します。
受付側から石塀を撮る。岡城の登城道の石塀もこんな上が丸くなってる形状しとったよな。ここまで頑丈やなかったけど。
この切込み接ぎの石の内部には洗浄した割栗石が詰められ、雑草木が生えないように工夫されてる。
受付入って正面に閑谷神社(重文)。
閑谷神社は創始者・池田光政を祀っています。
因みに、池田光政とは姫路城の池田輝政の孫にあたり、母親は徳川秀忠の養女(榊原康政の娘)で、水戸光圀、保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されているエライ殿様です。
本殿内には御神体として光政の座像が安置されてる。
受付側から見た講堂。左は先ほどの校門。
もっと足軽が引くのを待って斜めから撮る。 かなり待った
入母屋造り、しころ葺きの大屋根に一階の壁には火灯窓が並びます。
創建当時は茅葺だったのを後に改築し現在の備前焼瓦に葺き替えられたとのこと。
講堂内にはこの習芸斎(重文)から入ります。右の白い壁の建物は小斎。
靴は脱いで上がりましょう。
暗っ
ISO感度上げましょう。
内部は十本の櫻の丸柱で支えられた内室と、その四方を広側が取り巻いています。拭き漆の床は研修生達によって磨き上げられてるそうです。
小斎(重文)。藩主が学校に訪れた際の休憩所。 立入は禁じられておる。
厠ではなくて飲室(重文)。教師と生徒が湯茶を喫した休憩室。
炉のふちに「斯爐中炭火之外不許薪火」と刻まれてます。
「ここでたき火はあかんで。炭火だけやで」という意味。
どこぞにあるやろなぁと探してたらやっぱありました。池田家の紋「揚羽蝶」。
揚羽蝶紋は恒興(恒ちゃん)時代に信長から拝領したと伝わる。なんせ池田家の分家の多いったらありゃしねぇもんで、宗家と分家の区別をつけるために、本家池田家(輝政)は備前蝶(丸い揚羽蝶)紋を使用しましたが、分家筋はこの揚羽蝶の紋を使用していますね。
因みに、「揚羽蝶」とはチョウチョの種類の「アゲハチョウ」ではなくて、チョウチョが羽を上にあげてる様を現した紋であるんだもん。(スンマセン&前にも言うたな)
講堂から西の方へ行くと資料館があるので、そちらへ。
火除山があります。この山の西側に学舎や学房などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。
右の学房跡石垣は打込み接ぎ。左は入口からずっ~と続いている切込み接ぎの石塀。
火除山より、ここを通り学舎へ行きます。
高厨門。学房へ通う生徒達の通用門やったんでしょうね。
閑谷学校資料館。私立閑谷黌(しずたにこう)の本館として明治38年(1905)に閑谷学校の学房跡地に建設されました。以後県立中学校・高等学校として利用され、平成7年(1995)に閑谷学校資料館として開館されました。
元々建ち並んでた茅葺の簡素な建物は火災により焼失したようです。
木造2階建ての明治洋風建築です。
出るかどうかは試してにゃい。せつやくせつやく。
東裏門跡。閑谷学校後方の裏山には石列がず~と組まれています。土砂停めであろうか?後方の石列がそれである。
館内へにゅ~館。
資料室は撮影禁止なため、館内の様子だけ。
2001年に国の登録有形文化財に登録されたようです。
ぼちぼちと紅葉も色づき始めることでしょう。
以上、旧閑谷学校で御座いました。
18/09/23