滋賀県大津市南志賀町
琵琶湖の西、宇佐山(比高250m)にあり山頂からは琵琶湖が一望できる・・・はず。
宇佐山城(うさやまじょう)(別名・志賀城、志賀の城、志賀要害)
宇佐山城は元亀元年(1570)に織田信長に敵対する朝倉義景、浅井長政の南進に備えるべく、信長が森可成(はい、出ました。お馴染みの森りんです)に命じて、近江では信長が安土城以前に石垣によるって築かれた貴重な城郭デス。
城主を任されるは森可成(通称 攻めの三左。泣き虫森りん)
以前にも1度攻め込んでますが、山城初心者(今でも初心者やけど)の頃なんで、もう1度攻め登り、森りん偲ぼうかと。
宇佐八幡宮を目指し参拝者用駐車場(2.3台が限度、無理して4台くらい)の横手の道を行くと宇佐山城登城道があります。ただ城址の看板が以前と同じでヨレヨレのまま。もうそろそろ新しいのにしたらどない
ただ宇佐八幡宮まで車で来るには、むっちゃ急坂、狭くてデコボコ道を上らねばならず、シャコタンや高級車では来ない方がよろしいかと。(今時シャコタン見かけんけど)
登城道が非常に分かりにくいので、この地元小学校の案内板がモノをいう。
ほれっ どこが道か分かりませんやろ。
急斜面はロープあり。
確かに歴史がたくさん。いいね・滋賀。
(ノ・ω・)ノオォ- 歴史がたくさんの案内板の後方に竪堀があった。前には気づかなかった。
直登しろというのか
(ノ・ω・)ノオオォォ- 石垣が見える。
ほぼ直登した。主郭下段の帯曲輪の石垣のよう。素晴らしき野面積み。
大部分は崩壊して石がゴロゴロ。
石仏は何を知る
もう少し上がる。
確かにすごいいい。
郭を分断する堀切に出くわす。右側は三の郭。左が主郭方面。
三の郭への土橋。
堀切は竪堀となって落ちて行く。
反対側はなだらかに落ちて行く。
三の郭の削平地
三の郭の北端は物見台か
三の郭からは琵琶湖が一望・・・
堀切を横切り主郭方面に行く。
石段上は主郭ですが現在は電波施設が建っちゃってます。この石段もその為に造られたコンクリ石段ですが、往時は主郭へのホンモノの石段があったのでしょうか
主郭下の帯曲輪の横堀と土塁。石垣の石やったんでしょ、そこら中に石がゴロゴロ。
主郭の斜面。
いいね・滋賀。
隅部のようですが隅石が無くなってる。
反対側から横堀と土塁。
先程の石段から主郭へ。
主郭に建つ電波施設
近江・宇佐山城撮ったど~
主郭には面影も、偲ぶことも出来ない
引き返してこの場所を通ったとき、おっさんが弁当食うててビックらこいだギクッ
眺望もまったく効かない
施設の床下を覗いてみると・・・水路 往時の遺構なのか
主郭の遺構の上に電波施設が乗っかってしもて、なんとも寂しい限り。この電波塔を建てるにあたって発掘調査が行われたらしいが、これが遺構かどうかも分からない。
先にも述べたが安土城より前の近江での貴重な石垣造りの城であるのに、説明板もなにもないというのも残念である。
主郭の向う(西側)の二の郭へ。この盛土は櫓跡かも
主郭と二の郭の間、堀切らしき凹を確認。
二の郭ですが、こちらも電波塔の関係らしき柵がしてあり立入る事は不可能。
柵の外を歩いて南端へ。尾根筋のような土塁のような・・・。先は行き止まりでした。
そんな宇佐山城。
元亀3年(1570)信長が摂津での野田・福島城の戦い(織田VS三好三人衆・石山本願寺)に没頭されてる最中に浅井・朝倉(六角義賢も)連合軍が信長の背後を突くべく出撃
申し上げます!浅井・朝倉軍、街道をこちらに向かって進軍しております!その数三万
何ぃ!奴らを京に入らす訳にはいかん。坂本に陣を張るでや
かくして森可成は織田信治(信長の弟)、青地茂綱(蒲生定秀の次男。兄が蒲生賢秀。蒲生氏康のおじさん)も加勢に加わり、宇佐山城下坂本で迎撃。その数二千
初戦では三万の敵を相手に勝利をおさめた。
駄菓子菓子
石山本願寺の顕如に要請を受けた比叡山の僧兵も加わり、翌日数の膨らんだ浅井・朝倉勢は猛攻してきた。
乱丸ぅ信長様のことは頼んだで~
兄上ぇ仇を・・・
氏郷ぉ天下を狙え~
奮戦空しく可成、信治、茂綱らは討ち死にした。
その後宇佐山城は連合軍の攻撃を受けたが、可成の家臣達が堅守し落城を免れた。
信長は摂津からすっ飛んできた。
可成、信治、この敵はきっと討ってやるでや
これが信長の比叡山焼き討ちの原因となるのであった
宇佐山城から下山し宇佐八幡宮にも参っておこう。
この階段上らずに左へ行くと宇佐山城登城口がある。
中門
由緒書き
古そうな狛犬「阿」
同じく古そうな狛犬「吽」
源頼義が創建した当時の柱石の一部
以上、宇佐山城と宇佐八幡宮で御座いました。
森りん(しつこいな)関連、まだ続いてしまいます。
18/04/21