美濃国へ行きました。
岐阜県中津川市苗木
苗木城(なえぎじょう) 別名 霞ヶ城、赤壁城
攻め申した
苗木城築城時期は大永6年(1526)に美濃国恵那郡の氏族・遠山氏が居館を高森山に移した頃とされています。天文年間(1532~1555)には遠山正廉が高森に苗木城を築いたようです。
戦国動乱期に織田、武田に翻弄され城を追われるも、関ヶ原の戦い後に城主に返り咲き、幕末まで遠山氏12代が城主を務めた城です。
本能寺の変後に徳川氏に仕えたのが功を成したようですね。
苗木城は巨大な自然石を城壁に取り込んだ独特の構造が特徴で、木曽川の右岸に一段と高くそびえる城山(標高432m、比高170m)に築かれていました。
現在は国指定史跡に指定されています。
まずは山麓にある苗木歴史資料館へ。到着時刻は9時前で、開館9:30からなんですが、入館できますと看板があり、「掃除ちうで申し訳ないですが、どうぞ」と、にゅ~館させてもらう。(320えん)
にゃえぎてええとこやにょ~
苗木城の模型
資料館にて展示物を見、苗木城についての歴史などを学ぶ。歯科士・・・気持ちは城攻めにむかっており、あまり脳ミソに入ってない
城の地図やパンフも抜かりなく。資料館(図左下)より更に上に駐車場があるので、そこから城に取り付くとする。
駐車場から間もなく現れる石垣。パンフによると竹門跡で往時は開けっ放しで門番を立てずに竹製の門であったと云う。
実は家に帰ってPCに画像を落とし見てみると、やたらとピンボケの画像が多い
(画像モニターで確認はしてるが小さいので現場では気付かず)
まさか
もしや
家でカメラを・・・いや、レンズを確認すると・・・
手ブレ補正OFFになっとるやんけ~
くそ高いレンズ付けて何さらしとんじゃ~
どたまピンボケもええとこじゃ~
※撮影前カメラのチェック怠らないようにしましょう。
※以下、ピンボケ画像が多々ありますことをご了承ください。
竹門跡過ぎて足軽長屋跡。奥に見える説明板には、この奥に龍王院跡という城主遠山家の祈祷所があったという。
足軽長屋跡から見える苗木城ではお馴染みの天守台。天守台に見えてるのは天守閣ではなく木組みの展望台です。
山麓の資料館に城に関するパンフはあるが、ここのBOX内にもパンフあります。
かつての苗木城CGですね。
ややもすると分かれ道。左の石畳へ行くと城跡へ。右へ行くと二の丸へ出れると思うが、これて土塁
土塁ならかっこええけど、説明がないので分からんね。
石畳を進むとキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ 大手門である風吹門跡。
実はこの風吹門の門扉が歴史資料館に展示保存されています。(以下、各要所には説明パネルがありますが省略させていただきます)
風吹門の横に昏倒しそうな素晴らしき櫓台が現れる。
このように巨石の上に石垣を積み上げるという光景をこの後いっぱい見ることになります。
トイレですが巨石による虎口のようになってたので載せときます。
風吹門を過ぎたこの場所は三の丸になります。巨石、打込み接ぎ、そして切込接ぎ布積みの石垣を三段に組上げた素晴らしき巨大櫓台大矢倉跡に圧巻
大矢倉の上に登ってみる。
てっぺんは立入禁止のよう。
大矢倉の上から本丸方向を見る。木々に囲まれてまだ全貌が分からんけど。
大矢倉の向うは北門跡がありました。
先へ進む。
東に向かって駈門(くもん)跡の桝形があります。
駈門跡の先は四十八曲りと呼ばれる登城道がある。ホンマに四十八曲りくねってるのかは分からない。現在は荒れていて通る人もいないようです。
少し下りて行くと竹門跡がありました。説明板によると竹門という名の門は城内に2か所あったようで、いずれも外郭部であり二脚門であるそうです。その名の通り門扉が竹で作られており門番もいなかったようです。
竹門跡を過ぎると左方向へと道がある。石垣もある。
巨石が登城しますが、どうやらこの先はさっきの北門跡へとつづいてるような感じですね。
駈門跡の桝形へ戻り、先へ進みましょ。
二階建てで三の丸と二の丸を仕切ってた苗木城内で一番デカい門があった大門跡。
大門跡の左奥にある牢屋跡。説明板のある右っ側にちょっと段差があって、その日の当たらん場所に牢屋あったようです(ボケボケ画像なので搭載しておらず)。明治初期に起きた苗木藩の政争の際には、多くの上層武士が収監され、処断された事件が起きたそうです。
牢屋手前にあった埋門 石が割れてても宙に浮いとるで。
牢屋の先へと数歩踏み入るも、蜘蛛の巣攻撃に会い・・・引けぃ、引け~い
桜はええ感じで咲き誇ってました。
そういうことで・・・
まだまだこれからですが・・・
ホゲ~っと続いてしまいます。
18/03/31