四の国遠征のつづきでおま。

 

気になる城がありました。

 

神戸淡路鳴門自動車道淡路島方面から来て四の国に上陸する前の橋。

 

小鳴門橋て言うんですね。

 

リポビタンⅮの看板の向うの山頂に天守が建ってるのを前々から知っていた。

 

検索した。

 

徳島県鳴門市撫養町林崎にある、

撫養城(むやじょう) 別名 岡崎城、林崎城

 

検索した。

 

たいそうな城ではなかったあせる

 

城であることには違いない。

 

攻めました敬礼

 

 

 

橋を走行中に遠目にこのシルエットが見えるんですよね。(実際はもっとちっこい)

 

 

城跡のある妙見山妙見山公園として整備されており、曲輪や石垣の跡が残っている。頂上近くには三層の模擬天守が建てられている。

 

元々天守は建てられてなかったようです。

 

 

 

だだっ広い駐車場から少し登ると千畳敷に出る。

 

 

 

千畳敷から見た模擬天守。

千畳敷はビーナス像やらお花畑やらで、地形は改変されていて特に何もない。桜の名所ではあるようです。

 

 

 

 

 

 

千畳敷から少し上がると妙見神社が鎮座する。

 

 

 

 

 

ここで城の説明。

小六の息子時代からの説明だけなんで補足しますと、築城者は河内源氏の流れを汲む小笠原氏と云われているが、定かではないようです。

 

天正10年(1582)三好氏配下四宮氏が城主の時に長宗我部元親が阿波に侵入。撫養城もその支配下に入ります。しかし、天正13年(1585)羽柴秀吉の四国征伐によって元親の領土は土佐一国となり、説明板の如く阿波は秀吉家臣の蜂須賀家政に与えられた。ちゅうことです。

現在の縄張は益田内膳くんが改修したものという事です。(縄張り図ないからようわからんけど)

 

また、撫養城足利将軍と深い関りがありまして、足利10代将軍足利義植官僚・細川政元と対立し、都を追われ、再起を図ろうと期したが大永13年(1523)撫養で亡くなったと云われる。

永禄十一年(1568)には、阿波出身の足利義栄三好三人衆に擁立され第14代将軍になるも、三好三人衆と松永久秀が対立したため入京出来ず、さらに織田信長足利義昭第15代将軍に擁すると、撫養の地で没したと云われてるんですよ。

 

 

 

妙見神社社殿。

 

 

 

 

唯一の見所は社殿後方に残る石垣

 

社殿右側の石垣。

 

 

 

 

 

社殿の後にも石垣。

 

 

 

 

 

なんと! 社殿の下にも石垣。

 

 

 

 

 

社殿の下を潜り抜けて社殿の左側の石垣。

 

 

 

 

 

社殿左の石垣は薄っぺらいあせる 

 

 

 

 

 

模擬天守へ行ってみよう。

 

 

 

 

 

撫養城模擬天守。 「トリーデなると」とははてなマーク

 

とりあえず・・・

 

阿波・撫養城撮ったど~ビックリマーク

 

 

 

 

城門は開け放たれ、番兵もいないので天守に乱入。

 

 

 

 

 

何もにゃいにゃ

 

元は徳島県立鳥居龍蔵記念博物館なるものがあったが、別の場所に移転し、現在は市民ギャラリーや会議室として貸出ししてるようです。

 

 

 

天守からの眺望は良い。

薄っすらと見えるのは淡路島。手前の半島は土佐泊城という森氏という水軍の城跡。

 

 

 

 

 

鳴門市街地。

 

 

 

 

 

あの小鳴門橋からこの天守が見えてたんよね。

 

まあ、こんなとこです。

 

 

 

以上、小鳴門橋から見えてた撫養城でした。

 

 

 

 

 

 

 

淡路SAで一休みして帰るのであった。

このイルミは年がら年中あるようやな。

 

 

 

 

 

ほなまた。

 

 

 

 

17/12/23