平馬~ 平馬はおるか~おーい

お~い佐吉じゃぞ~ 紀之介~ 刑部~ 吉継

まだ靴下が濡れてるけど、はるばる敦賀までやって来たど~





福井県敦賀市「来迎寺」

 


おっ!此処におるんか




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


城門じゃ 此処が紀之介がこさえた敦賀城じゃな!
 

門番も立てずに開け放たれてままで無用心でわないか!
そうか!このわしを迎え入れる為に準備しておったのか!
流石は紀之介じゃ



 違う 此れは移築された城門じゃったのか~やられた






 


ほんまじゃ 門を潜れば寺の境内やし―



因みにこの来迎寺は幕末に水戸藩の天狗党が処刑されたとこでもあります。

 


 


何故か瓦があったのであった。なんなんじゃ

 

 

 


しゃーない帰るとするか。






















いや まだ帰らんでよ

こんくらいで引き下がるわしではないでよー頑張る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-  真宗大谷派『真願寺』
ちゃんとあるではないか敦賀城跡
立派な薬医門に土塀に石垣は切込み接じゃん

なっ何ぃ~ すべて城の遺構やないてか侍



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


門横の塀に説明板があるので、皆の衆読まれよ!


因みにじゃな敦賀城美濃斎藤氏に仕えた後 織田信長に従い本能寺の変後は羽柴秀吉に属し柴田勝家滅亡後に越前敦賀4万石を与えられた蜂屋頼隆が最初に築いたんじゃ。
しかしまもなく頼隆は病死し、天正17年(1589年)わしの朋輩大谷吉継が5万石で敦賀城主になったんじゃ。
紀之介 いや吉継は敦賀城を水城として大改修したんじゃ! のう紀之介・・・(メ・ん・)?・おらんか。






 

 

 


ほれ見ぃ~ 城跡の横にぁ石垣が組まれた水堀があるわい


(メ・ん・)?何 これは現代の用水路となにゃ

あはは(;・∀・) んなこと存じ上げ申し候うじゃ! 
そやけど城の堀跡じゃろうて?そうに相違ないわ! のう紀之介! ・・・・(メ・ん・)? おらんか。。。





 

よし!城跡に濡れてる足を踏み入れるでや。
 

 

 

 

 

 

 


(メ・ん・)?なんじゃ その~城跡の面影もへったくりもありゃせんがな


しかし越前敦賀城跡撮ったど~





 

 

 


あるのはこれだけじゃ。 敦賀城礎石となっておるが、門の礎石じゃろうか?
なんぞ説明書きでも備えとけばええのに、気ぃのきかんやっちゃな紀之介わ
侍


紀之介・・・いや吉継は周知の如くわしと共に関ヶ原で戦い、裏切り者の猛攻を一手に受け自害して果てた・・・。
にゃんぶ・・・いや吉継に妻・子がいたことは分かっとるが記録に乏しく、どうゆう人物だったかも戦後どうなったのかも不明なんじゃよ。

その後城は結城秀康の統治下にあり代官が派遣されていたが、元和2年(1616年)廃城となる。

かの真田信繁吉継の娘(竹林院)(養女・妹の説あり)で信繁との間に長男大介幸昌・大八・於市・お梅・あくりと子を授かっておるのじゃ。
吉継の子の吉治(吉胤・吉勝)(弟説あり)は関が原の戦いでは落ち延び、大坂の陣で大坂城に入城し信繁と共に戦い、夏の陣の天王寺での最後の戦いで討ち死にする。





 

 

 

 

 

 

 

 

何故かもみじが色付いておった。




わしと紀之介は戦国武将の中では人気を二分し合った(?)ほどの武将なのに、城を偲ばせる物は移築城門と
礎石だけとは寂しい限りじゃ。
そやけど大谷刑部少輔吉継は現在も友情と義に殉じた武将と敦賀の民には愛され続けておるんじゃ・・・聞いてないけどきっとそうに違いない。

 

 



 

 

あとこの界隈に曲輪跡の石碑、敦賀西小学校の横にも石碑が建っているらしいが・・・・
紀之介よ此れにてお暇致す。





以上 治部少輔三成お届け致しまいた。









15/06/07