尼子氏最期の城上月城
大河「軍師官兵衛」に合わせて落城せしめて参りましたが、あたしゃ毛利軍ではありませぬ。
兵庫県佐用郡佐用町にある比高100M程の山城なのぢゃ。
赤松政範が領しておったが、天正5年羽柴秀吉の攻撃により落城。
城は尼子勝久が守備を任されたのである。
登城する前に登城口にある「上月歴史資料館」に立ち寄る。
土日月および祝祭日のみ開館してるらしく、以前来た日は平日やったので閉まってたのである。
上月合戦のパネルや佐用町の城に関する展示物などがあり、この辺りに城砦が沢山あったことを知る。
歴史資料館のすぐ前が登山道になっておる。
いつものように当時の人はタフであったのじゃのうと関心しながら 登るのであった。
途中で視界が開ける。
眼下に流れるは作用川。
案内板がある。
真新しくなてる。
浅い!
案内板がなければ見落としそうな感じである。
本曲輪へたどり着くまで幾つか小さめの曲輪があるけど草が生い茂っておる。
本曲輪に到達したのである。
上月城撮ったど~
勾配が少々キツイがそう高い山ではないので心臓が破裂間際までには至らなかたのでよかった。
しかし初老の夫婦が犬(DAX)連れて登って来てはるし
犬の散歩コースかぁ
中央が赤松政範の碑である。
妻は官兵衛の妻の光の姉であり、ドラマでは政範は家臣に裏切られ殺され、妻は救出され仏門に入りましたが、自害して果てたとも脱出したとも伝わる。
本曲輪にある縄張り図
山の尾根に沿った細長い城である事が伺える。
本曲輪から先へ行く。
またも展望が開ける場所に出る。
先ほどよりも高所でありだいぶ遠望が効き、憧れの『利神城』が見える(@_@;)んですが靄ってい見づらい
画像を拡大すると辛うじて山頂が茶色いのが見えるのである。
これも浅いがなんとか堀切と分かる。
草を刈ったらハッキリと分かるであろうと思う。
本曲輪の先の西側にある曲輪の帯曲輪のようである。
その曲輪の切り岸のようである。
切り岸の下あたりには小粒の石が散らばってい城のものかどうか分からんけど、
こういう石を見つけては(;一_一)・・・・少々喜ぶが、多分山の岩やと思う。
看板が無いが堀切やと思うんじゃが・・・、そして土橋ではなかろうかと思うが・・・如何?
こっから先は杉林の中を下って行くのであった。
しかしこの先「利他村」って、どんだけ山深いとこにあるのかと思ってしまうが如何?
下山道を降りきると尼子氏と城兵の供養碑が建ってます。
信長の「上月城は見捨てろ」の一言で援軍に来てた秀吉軍数万は三木城攻めへと泣く泣く引き上げ、
孤立無援と相成った上月城は毛利の大群に成すすべもなく城兵の助命を条件に降伏。
尼子勝久以下尼子一族は自害。
此処に一時は山陰、山陽八カ国を領有した尼子氏は滅亡したのである。
山中鹿之助の供養碑。
尼子家再興に全てを賭けた執念の武将山中鹿之助幸盛は毛利方に生け捕りにされ、毛利輝元の下へ護送される途中謀殺されるのであった。
毛利としてはこの執念深い武将をこれ以上生かしておいては、また何時ぞや隙を狙って尼子の縁者を担ぎ出して毛利家に立ちはばかるとであろうと、騙し討ち的な殺され方をしたと伝わるのであった。
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」 (山中幸盛の名言)
14/04/26