天国の書 第8巻(6) | それゆけだんごむし!ーカトリック「神のご意志の王国」の霊性のブログ

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第8巻(6

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 6 】

 

1908年10月3日

 魂が善を絶え間なく行おうとする限り、恩寵は魂と共にある。

 

1908年10月23日

 神の知識はどれほど誠実か。

 

1908年11月20日

  魂が愛を糧とするとき、その愛は揺るぎない本物になる。

 

1908年12月16日

  イエスの窮乏はあらゆる苦痛の中で最大のものである。

 

◆1908年12月25日

  イエスを心の中に探勝させ、成長させる方法。

 

19081227

 赤ん坊のイエスと、その優しい母が赤ん坊に母乳を与えるときに交わされたこと。被造物の「愛している」は創造主の「愛している」によって満たされる。

 

◆1908年12月28日

 シチリア島とカラブリア州で地震。

 

◆1908年12月30日

 イエスの幼年期は、すべての人の幼年期を神格化する。

 

◆1909年1月2日

  地震についての詳細。瓦礫の下でのイエスのミサは、多くのミサより難しくない。

 

◆1909年1月8日

 聖体拝領の実りと目的。

 

 

 

J.M.J.

 

 

1908年10月3日

魂が善を絶え間なく行おうとする限り、恩寵は魂と共にある。

 

今朝、祝福されたイエスがお姿を現され(影にすぎませんが)私にこう言われました。

 

「娘よ、魂が絶え間なく善を行なおうとする限り、恩寵は魂と共にいて、魂のすべての行動に生命を与えます。もし魂が善を行なうことに無関心であったり、悪を行なおうとしているのであれば、恩寵は立ち去ります。なぜなら、恩寵は魂に属するものではなく、魂に参加することも、魂の生活を管理することも出来ないので、悲しみに暮れ、大きな不快感を抱いて去っていくからです。ではあなたは、恩寵が常にあなたと共にあり、私の人生そのものがあなたの人生になることを望みますか?ならば善を絶え間なく行い続けてください。このようにして、私の全存在があなたの中で育まれ、私の存在が時々いなくてもそれほど悲しむ必要はなくなります。実際、あなたは私を見るのではなく、すべての行為の中で私に触れるでしょう。そうすれば、私の窮乏の痛みも和らぐでしょう。」

 

 

 

1908年10月23日

神の知識はどれほど誠実か。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私に言われました。

 

「娘よ、神の知識はすべて誠実な行いの中に含まれています。実際、正しいものには、美しく良いものがすべて含まれています。秩序、有用性、美しさ、卓越性。仕事はそれがよく整えられている限りにおいては良いものですが、糸が曲がっていて、曲がって配置されているなら、人は何も理で傷、無秩序なものしか見ることが出来ず、それは役にも立たず、良くもありません。ですから、私が作ったものは大きいものから小さいものまで、すべて整然として見えるし、すべて有用な目的を果たしています。なぜなら、その源泉は私の誠実な働きから来ているからです。さて、被造物が善良であればあるほど、その中には神聖な知識が含まれています。魂が誠実であればあるほど、多くの善いことが生まれるでしょう。魂の働きに一本の曲がった糸があるだけで、魂自身はもちろん、魂から生れる行いも混乱に陥り、魂が含んでいる神聖な知識が不明瞭になります。誠実なものからはみ出し、正しいもの、美しいもの、有用なものからはみ出し、神が魂を置かれた境界からはみ出る者は、外に出れば、土の少ない植物のようになります。灼熱の太陽の光や霜や風が、神聖な知識の恩恵を枯らしてしまいます。このような曲がった働きは、霜や風や灼熱の太陽の光のようです。だから、神聖な知識の土壌があまりない魂は、自分の無秩序の中で枯れるしかないのです。」

 

 

 

1908年11月20日

魂が愛を糧とするとき、その愛は揺るぎない本物になる。

 

苦痛と欠乏に満ちたいつもの状態を続けていると、今朝、祝福されたイエスが少しの間お出でくださいました。私は自分の状態について嘆きましたが、主は答えてくださる代わりに私に近づいてこられ、私に言いました。

 

「娘よ、真の愛に満ちた魂は、不安や欲望、感情によって私を愛することに満足するのではなく、愛を自分の糧とし、日々の養分とするようになったとき、初めて満足するのです。そのとき愛は揺るぎない本物となり、被造物が抱いている愛の軽さをすべて無くしてしまいます。そして魂はそれを自分の糧としているため、それは魂の体全体に行き渡り、あらゆる場所に広がるため、魂を焼き尽し、魂に生命を与える愛の炎に絶える力が生まれるのです。愛を自分の中に封じ込めることによって、愛を所有することによって、魂はもはや激しい欲望や不安を感じず、自分が持っている愛をもっと愛していると感じるだけです。これが天国の祝福された人々の愛であり、私自身の愛なのです。祝福された人々は燃えていますが不安もなく、騒々しくもなく、むしろ堅実で賞賛に値する真剣さを持っています。これは、魂が愛を糧とするようになったという証です。魂はますます人間的な愛の特徴を失っていきます。実際、もし欲望や不安、感情ばかりが目に付くとしたら、それは愛が魂の糧ではなく、魂が愛に捧げているのは自分自身のほんのわずかなカケラにすぎないという証拠です。ですから魂は愛がすべてではないので、愛を封じ込める力がなく、人間的な愛のうねりが押し寄せてきます。これらの魂は非常に気まぐれで、物事に安定性がありません。一方、前者のものは安定していて、動かない山のようです。」

 

 

 

1908年12月16日

イエスの窮乏はあらゆる苦痛の中で最大のものである。

 

最も苦い日々の中、私は主に向かってこう嘆きました。

「あなたは何と残酷に私を捨て去ったのでしょう!あなたは私を小さな娘として選び、いつも腕の中に抱きしめてくださるとおっしゃいました。そして今は?あなたは私を地面に投げ捨て、小さな娘の代わりに、私を小さな殉教者に変えました。しかし、たとえわずかでも私の殉教は同じように残酷で、厳しく、苦く、激しいものです。」

私がそう言っていると、主は私の内部に入りこう言われました。

 

「娘よ、あなたは間違っています。私の意志はあなたを小さな殉教者にするのではなく、偉大な殉教者にすることです。もし私が忍耐と諦めをもって私の窮乏に絶える力をあなたに与えるなら、それは最も辛く、最も苦しいことであり、天においても地においてもこれに匹敵する、あるいはこれに似た痛みは他にはありません。これは忍耐の英雄主義と究極の愛で、これに比べれば他のすべての愛は後に残っており、ほとんど無意味となり、これに匹敵するものや、その前に立ちはだかるものは何もありません。これは偉大な殉教ではないでしょうか?あなたは自分がそれほど苦しんでいないと思っているから、自分が小さな殉教者だと言います。あなたが苦しまないのではなく、私の窮乏という殉教があなたの他の痛みを吸収して消滅させるのです。それどころか、私がいないと考えることで、他の苦しみを気にせず注意を払わなくなります。そしてそれらに注意を払わないことによって、あなたはその重さを感じなくなります。だから、あなたは苦しんでいないと言うのです。

 そして私はあなたを地に投げ捨てたのではありません。それどころかこれまで以上にあなたを腕に抱きしめています。さらに言えば、私がパウロの回心の初めに、私の効果的な恵みを与えましたが、あなたにはほとんど継続的に与えています。これがその印なのです。私があなたと一緒にいたときに行っていたこと、つまり今は自分一人で行っているように見えることを、あなたは自分の内面で続けています。あなたの感じているすべての感情が私に溶け込み、私に結ばれ、私の姿が見えなくても、いつも私のことを考えています。これはあなた自身のものではなく、普通の恵みでもなく、特別で効力のある恵みなのです。そして、もし私があなたに多くを与えるなら、それは私があなたをとても愛しているしるしであり、あなたから沢山愛されたいと言うしるしなのです。」

 

 

 

1908年12月25日

イエスを心の中に探勝させ、成長させる方法。

 

いつもの状態に気づき、私は小さな赤ん坊のイエスを待ち望んでいました。そして多くの苦しみの後、主は私の内面に小さな赤ん坊としてお姿を現され、こう言いました。

 

「娘よ、私を自分の心の中に誕生させる最善の方法は、自分自身からすべてを空っぽにすることです。もし私に属するもの、私自身のものをすべて運ぶことができる場所があるなら、私はそのとき初めてその中に永遠に留まることができます。他人の家に住む人は、自分の持ち物をすべて置くことの出来る空きスペースがあって初めて幸せと言えます。そうでなければその人は不幸になるでしょう。私.もそうです。

 

私を誕生させ、私の幸福を増すための第二のことは、魂が含むすべてのもの、内面的にも外面的にも、すべて私のために行わなければならないと言うことです。すべては私を称え、私の命令を実行するために役立たなければなりません。もしたった一つのこと、たった一つの考え、たった一つの言葉が私のためでないなら、私は不快に感じます。私が主人であるべきなのに、それらは私を奴隷にするからです。私はこれらすべてを許すことができるでしょうか?

 

三つ目は英雄的な愛、大いなる愛、犠牲の愛です。この三つの愛が私の幸福を驚くべき方法で成長させます。なぜなら、この三つの愛が私の力だけで行うような、魂の力に勝る仕事を可能にするからです。それらは魂だけでなく、他の人々も私を愛させるようにすることで、魂をさらに成長させるでしょう。そして魂はあらゆることに勝利し、死さえも耐え忍ぶところまで到達し、私にこう言うことができるようになるでしょう。『私には何もありません。すべてはあなたへの愛だけです。』このようにして魂は私を誕生させるだけでなく、私を成長させ、魂の心の中に美しい楽園を形成するのです。」

 

主がそう言っているとき、私が主を見ると、小さな存在だった彼が一瞬で大きくなり、私は完全に彼に満たされました。そしてすべてが消えてしまいました。

 

19081227

赤ん坊のイエスと、その優しい母が赤ん坊に母乳を与えるときに交わされたこと。被造物の「愛している」は創造主の「愛している」によって満たされる。

 

私は母なる女王がいつ赤ん坊のイエスに母乳を与えるのか考え、ひとり言を言いました。「この行為の中で、最も聖なるお母様と小さなイエスの間に何があったのでしょう?」その瞬間、私は主が私の内部で動くのを感じ、彼が私に言うのを聞きました。

 

「娘よ、私が最も優しい母の乳房から母乳を吸ったとき、母乳と一緒に母の心の愛も吸いました。そして、私が吸ったのは、母乳よりも愛でした。母乳を吸っているとき、母が私にこう言うのが聞こえました。『私はあなたを愛しています。私はあなたを愛している、おお、息子よ』 そして私は母にこう繰り返しました。『愛している、愛している、お母さん』 そしてそれは私だけではありませんでした。私が『愛している』と言うと、父なる神、聖霊、そして天使たち、聖人たち、星々、太陽、水滴、草花、砂粒、あらゆる被造物、あらゆる天地万物の要素が、私の『愛しています』の後ろを走り、『おお、私たち神の母よ、私たちの創造主の愛のうちに、私たちはあなたを愛しています。私たちはあなたを愛しています。』 と繰り返しました。

 

私の母はこれらすべてを見ることが出来、それらに飲み込まれるままでした。母は私が母を愛していると言うのを聞かないほんのわずかな空間さえ見つけることが出来ませんでした。母の愛は後ろに残り、たった一人で、それを繰り返しました。『愛している、愛している』 でも彼女は決して私にかなうことは出来ませんでした。なぜなら、被造物の愛には限界があり、時間がある一方で、私の愛は創造されず、終わりがなく、永遠だからです。どのような魂にも、母が私に『愛している』と言うときと同じことが起こります。もし被造物がただ私に向かって『あなたを愛しています。』と言うだけで、自分たちのためにどのような善と名誉を得るかを理解したならば!それだけで十分でしょう。彼らの傍らに神おられ、その神が被造物に敬意を表し、繰り返しこう答えてくださるのです。『私もあなたを愛しています。』

 

 

 

1908年12月28日

シチリア島とカラブリア州で地震。

 

いつもの状態に戻っている自分に気づいたとき、大地が揺れ、足元から滑り落ちそうになりました。心配になり、ひとり言を言いました。「主よ、主よ、これは何ですか?」すると主は私の心の中で「地震です。」そして主は黙っておられました。

 

私はほとんど主に注意を払わずに、心の中でいつもの内的なことを続けていましたが、その言葉を私に話されてから約5時間後、突然地震を感覚的に感じました。それが止まった途端、私は自分が自分の外にいることに気が付きました。うろたえながら、恐ろしい様を見ましたが、その光景はすぐに私から取り除かれ、気が付くと教会の中にいました。祭壇から白い服を着た青年が現れ、彼は私たちの主であったと思いますが確信はありません。そして私に近づき、堂々とした表情でこう言いました。「来なさい。」

 

私は立ち上がらずに肩をすくめ、その時、主は鞭打ち、破壊しておられるのだと心の中で推理しながらこう言いました。

 

「主よ、今私を連れて行きたいのですか?」主の招きを拒否しました。そしてその青年は私の腕の中に身を投げ出し、私の心の中で主がこう言われるのを聞きました。

 

「来なさい、娘よ、世界を終わらせるために。私は地震と水と戦争でその大部分を破壊するでしょう。」

 

この後、私は自分の中にいることに気が付きました。

 

 

 

1908年12月30日

イエスの幼年期は、すべての人の幼年期を神格化する。

 

私は主の幼少期の神秘について黙想していて、ひとり言をいいました。

「愛する赤ちゃん、あなたはどれほど多くの苦しみを望まれたのでしょう!大人として来るだけでは足りず、赤ん坊としてお出でになり、おくるみの中で、無言の中で、その小さな人間性、手足の不自由さに苦しまれることを望まれました…。なぜこんなことを?」

 

私がそう言っていると、主は私の内面に入りこう言われました。

 

「娘よ、私の業は完璧です。私は幼児期のすべての犠牲とすべての小さな行動を神格化するために、小さな幼児として来たかったのです。だから、子供たちが罪を犯し始めるまで、すべては私の子供時代に取り込まれ、私によって神格化されたままなのです。罪が始まると、私と被造物との間に分離が始まります。私にとって辛い別れであり、彼らにとっては悲惨な別れなのです。

 

そして私は「赤ちゃんに理性がなく、それを欲する能力がないのなら、どうしてそんなことがあり得るのですか?」と言いました。

 

そして主は言いました。

「第一に、私は自分の恵みによって功徳を与えるからです。第二に、彼らがそれを望まないのは彼らの意志によるものではなく、それが私によって定められた幼児期の状態だからです。その上、植物を植えた庭師は栄誉を受けるだけでなく、たとえ植物に理性がなくてもその実を摘み取ります。彫像を作る職人も、他の多くのものについても同じです。罪だけがすべてを破壊し、被造物を私から引き離します。しかし、他のすべては、たとえ最も些細な行為であっても、私から被造物にもたらされ、私の創造の栄誉の印とともに、私に戻るのです。」

 

 

 

1909年1月2日

地震についての詳細。瓦礫の下でのイエスのミサは、多くのミサより難しくない。

 

非常に嫌悪を感じながらも、ただ従うために、地震に関して12月28日に起こったことを語り続けます。私は瓦礫の下で生きている多くの貧しい人々のことを考えていました。そしてミサに臨んでおられた主も生きて瓦礫の下に埋もれていました。私はひとり言を言いました。「まるで主があの人たちに言っているようです。『あなたの罪のせいで私はあなたと同じ運命をたどりました。私はあなたと共に居て、あなたを助け、あなたに力を与えます。私はあなたたちをとても愛しているので、あなたたちが過去に行ったすべての悪を考慮に入れず、あなたたち全員を救うための最後の愛の行為を望んでいます。』ああ、私の善、私のいのち、私のすべて、私は瓦礫の下で、あなたがどこにいようと、あなたに私の崇拝を送ります。そして私の抱擁、キス、そして私のすべての力があなたとずっと一緒にいられますように。ああ、あなたを掘り出すために、あなたをもっと快適な場所に、あなたをふさわしい場所に置くために行けたらどんなにいいでしょう!」

 

その瞬間、私の愛するイエスは私の内面でこう言われました。

 

「娘よ、あなたは私が鞭打ちながらでも人々に送る過剰な愛をおぼろげながら読み取っています。しかしこれだけではありません。もっとあります。私のミサでの出来事は、おそらく教会の中よりも、瓦礫の下の方が不幸ではなく、吐き気を少ないことを知ってください。司祭たちによって、また人々によって行われたか冒涜の数々は、彼の手と心に降りることにうんざりするほどで、ほとんどすべてを破壊せざるを得なかったのです。では、司祭たちの野心やスキャンダルはどうでしょうか?彼らの中にすべては暗闇で、もはや本来あるべき光ではありませんでした。そして司祭たちがもはや光を放つことができなくなったとき、人々は行き過ぎに達し、私の正義が彼らを滅ぼすことを余儀なくされるのです。」

 

私は主の窮乏についても考えていました。そしてここでも何か強い地震が起こるのではないかと言う恐怖を感じました。イエスのいない孤独な自分を目の当たりにして、私は自分が死ぬのではないかと思うほど抑圧された気持ちになりました。すると、私を憐れんで善良なイエスがお出でになり、ただの影ですが、私にこう言われました。

 

「娘よ、そんなに自分を苦しめてはいけません。あなたのことを考えて、私はこの都市に最も深刻な損害を与えないようにします。このまま懲らしめるべきかどうか見てみましょう。彼らは回心することも降伏することもせず、他の州の破壊を聞けば、その場所や土地のせいでこうなったと言います。そして彼らは自分自身の楽しい時間を過ごしながら、私を怒らせ続けます。彼らはなんて盲目で愚かなのでしょう。地球のすべては私の手のひらに上にあるのではないのでしょうか?大地に裂け目を作って、他の場所でもそれらを飲み込ませないでしょうか?そしてこのことを彼らに示すために、通常は地震が起きないような他の場所で地震を引き起こしましょう。」

 

そう言いながら、主は地球の中心に手を伸ばし、火を取って地表に近づけたように見えました。そして、大地が揺れ、地震が起こるでしょう。ある場所ではより激しく、ある所ではより弱く。そして主は「これは懲罰の始まりにすぎません。彼らの行く末はどうなるのでしょう?」と付け加えられました。

 

 

 

1909年1月8日

聖体拝領の実りと目的。

 

聖体拝領を受けた後、最高の瞬間に、どうすれば祝福されたイエスにこれまで以上すがりつくことができるかを考えていた私に、主はこう言われました。

 

「私により強くしがみつくためには、私が私の中にあなたの存在を溶け込ませるために、私があなたの中に私を注ぐのと同じように、あなたはすべてにおいて私のものを取り、自分のものすべてからはなれなければなりません。あなたが常に聖なることを考え、善いこと、神の栄誉と栄光だけを考えるなら、あなたは自分の心を離れて神聖なものを手にするでしょう。もしあなたが話すなら、もしあなたが善い行いをするなら、ただ神への愛ゆえにあなたは自分の口と手から離れ、私の口と手を取ります。もしあなたが聖なる正しい道を歩むなら、私の足で歩くでしょう。もしあなたの心が私だけを愛しているなら、あなたは自分の心を捨てて私の心を取り、私自身の愛で私を愛するでしょう。そして他のすべての同じです。だから、あなたは私のものすべてに包まれ、私はあなたのものすべてに包まれます。これ以上緊密な結びつきがあるでしょうか?もし魂がもはや自分自身を認識することなく、自分の中に神聖な存在を認識するところまでに至ったなら、これらは善い交わりの効果であり、これこそが魂に自分自身を伝えようとする神聖な目的なのです。しかし、私の愛はどれほど拒絶され、そして魂がこの秘跡から得る果実はいかに少ないことでしょう。大半の人は無関心で、この神聖な食べ物に吐き気さえおぼえるほどなのです。」

 

 

(7)に続く…



だんごむしのひとりごと

 

第9巻次回で終わりです。

いつものことですが、正しい翻訳ではないので、こんな感じで読んでくださいね。

意味不明な所は聖霊によって正しい理解が与えられるように祈ってください('◇')ゞ

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

Nos com prole pia, benedicat Virgo Maria.

 

 

 

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