天国の書
神によって創造された、秩序、場所、目的に対する
被造物への呼びかけ
第8巻(1)
神のはしためルイザ・ピッカレータ
神の意志の小さな娘
目 次
【 1 】
◆1907年6月23日
最も美しい行為は、神のご意志に身を委ねることである。
◆1907年6月25日
じっとしていても、歩いていても、魂は常に神の意志の中にとどまらなければならない。
◆1907年7月1日
神の意志の中で、人は罪を忘れる。
◆1907年7月4日
魂は学んだ真理を心の中で熟考しなければならない。
◆1907年7月10日
人は生贄になり始めたとき、本当に生き始める。
◆1907年7月14日
魂のすべては愛でなければならない。
◆1907年7月17日
人が神の意志の中に生きているかどうかを知るための真のしるし。
◆1907年7月19日
苛立ちも誘惑も欠点も神の意志には入らない
◆1907年8月6日
魂は懲罰しか目にしない。
◆1907年8月22日
魂は、神と自分以外には誰も存在しないかのように、この世に存在しなければならない。イエスの受難をより新しくする原因は、決意の欠如です。
J.M.J.
1907年6月23日
最も美しい行為は、神のご意志に身を委ねることである。
いつもの状態でいる私は、祝福されたイエスが来てくださらないので、自分の罪に対する嘆きと放棄と、どちらが最も美しく、主に喜んでいただける行為であろうかと考えていました。そうしているうちに、主が少しだけお出でになり私にこう言われました。
「娘よ、最も美しく、私に最も喜ばれるものは、私の意志に身を委ねることです。それは、あまりに素晴らしいことなので、魂は自分の存在をもはや思い出すことが出来なくなります。むしろ、魂にとってはすべてが神の意志なのです。自分の罪を嘆くことが善であり賞賛に値するとしても、それは自分自身の存在を滅ぼすものではありません。一方、私の意志に完全に身を委ねることは、自分自身の存在を根底から滅ぼし、神聖な存在を再び獲得させます。それゆえ、魂は私に意志に身を委ねることによって、私にさらなる栄誉を与えます。なぜなら、魂は私が被造物に要求しうるすべてを私に与え、私の中から出て来たものを私の中で再び獲得するからです。そして魂は、自分だけが再獲得すべきものを再獲得するようになります。つまり、神が所有するすべての宝と共に、神を再獲得するようになるのです。ただし、魂が完全に神の意志の中にとどまっている限り、魂は神を再獲得します。ところが魂が私の意志から離れるとき、魂は堕落した性質のあらゆる弊害と共に、自分自身を取り戻すのです。」
1907年6月25日
じっとしていても、歩いていても、魂は常に神の意志の中にとどまらなければならない。
今朝私は、前にも後ろにも進めず、立ち止まっているような気分でした。そして私は言いました。
「主よ、私は自分の感情を言葉では表すことができません。でもやっぱり自分を苦しめることはしません。遅れていようが、止まっていようが、進んでいようが、あなたの意志の中にいる限り、私はいつも大丈夫です。私がどのような状態であれ、どのような姿であろうとも、あなたの意志は常に聖なるものです。そして私がどんな状況であろうとも、私はいつでも大丈夫です。」
そうこうしているうちに、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私にこう言われました。
「娘よ、勇気を出しなさい。立ち止まっていると感じても恐れることはありません。しかし、私の意志から少しも外れることなく、私の意志の中で立ち止まるように注意してください。私も立ち止まりますが、瞬く間に、何年もやっていなかったことを以上のことを行ないます。世間に言わせれば、私が止まっているように見えます。なぜならそれは激しく懲らしめられるに値するのに、それをしていないので、私が働いていないように見えるからです。でも、もし私が棒を手に取れば、私がすべての停止をどのように埋め合わせるかが分かるでしょう。あなたも同じです。私の意志の中に常に留まりなさい。私の意志があなたを止めることを望んでいるのが分かるなら、立ち止まって私の意志を楽しみなさい。もしあなたが、私の意志があなたに歩んでほしいと願っているのを見るなら、そのときは歩きなさい。しかし、私の意志の中を歩みなさい。なぜなら、私の意志の中を歩むことによって、あなたは私と共に歩むことになり、私の歩む意志と同じ意志を持つことになるからです。だから、止まっているときも、動いているときも、常に私の意志のままに従いなさい。そうすれば、常に心配ありません。」
1907年7月1日
神の意志の中で、人は罪を忘れる。
私は自分の罪について常に考え、神に悲しみと赦しを求める女性の聖人の話を読んでいました。私は心の中でこう言いました。
「主よ、私のこの聖人との違いは何ですか?罪について考えない私と、いつも罪のことを考えている彼女。私がいかに間違っているかを示しています。」
一瞬にして、私の内部で主が動くのを感じました。私の心に閃光のようなものが走り、主が言われるのが聞こえました。
「馬鹿げている、馬鹿げています。あなたはこのことを理解していのですか?いったいいつ私の意志が罪や不完全さを生み出したことがあったでしょうか?私の意志は常に聖なるものであり、私の意志の中に生きる者はすでに聖化されており、私の意志の中に含まれるすべてのものを楽しみ、自分自身を養い、それについて思いめぐらします。そして、たとえ魂が過去に罪を犯したとしても、私の意志が含む美しさ、神聖さ、広大な恵みの中に自分自身を見出し、私の意志のから外れない限り、魂は過去の醜さを忘れ、現在だけを記憶します。そして自分の存在に戻るとき、魂が罪と悲惨さを思い出すのも不思議ではありません。これらの罪や自分自身の考えは、私の意志に入ることが出来ないことをよく心に留めておきなさい。そして、もし魂がそれらを感じるなら、それは魂が私の中で安定して固定されているのではなく、いくつかの出口を作ることを意味するのです。」
それからいつもの状態に戻った私は、ほんの少しだけ主を見ました。主は私にこう言われました。
「娘よ、真理が迫害されても、人はそれを真理として認めなければなりません。そしてまさに迫害された心理が認められ、愛される時が来ます。この悲しい時代には、すべてが虚偽と二枚舌であり、真理が優位に立つためには、人間は打ち負かされ、破壊されるのが当然なのです。これらの打撃の一部は、彼ら自身が自分たちに与え、互いに破壊し合うことになります。他のものは私からもたらされるでしょう。特にフランスのために。人口が激減するほどの死者が出るでしょう。」
1907年7月4日
魂は学んだ真理を心の中で熟考しなければならない。
私は考えていました。
「私はどれほどひどくなってしまったのでしょう、しかし、主は私を正さず、叱られません。」
そう考えているとき、主が私の内面で動き、私に語っておられるのを感じました。
「娘よ、歩き続けなさい。歩き続けなさい。もし私が善であり、慈悲であり、甘美であるなら、私は正義でもあり、強さでもあり、力でもあります。もし私があなたに与えた多くの恵みの後で、あなたが後戻りしたり、自発的な過失を犯したりするのを見たなら、あなたは雷で打たれるに値します。もし私がそれをやらないなら、その理由をあなた自身が理解できるはずです。そして、もし私がいつもあなたに話しかけないとしても、私があなたに教えたすべての真理を心の中で絶えず熟考しなさい。それからあなたの内面に入り、私とひとつになりなさい。そうすれば私はいつもあなたと共に居て、内部で働くことができます。」
1907年7月10日
人は生贄になり始めたとき、本当に生き始める。
いつもの状態でいると、私は愛するイエスと一緒に自分の外にいることに気づきました。主が茨の冠をかぶっているのを見て、私は主の頭から冠を取り除き、両手でそれを私の頭に置き、しっかりと押し付けました。ああ、チクチクとした茨が突き刺さる痛みを感じました!しかし私はイエスの痛みを和らげるために、苦しむことに喜びを感じました。それから私は言いました。
「私の善きイエスよ、教えてください。あなたが私を天国へ連れて行ってくださるまでに、まだ多くの時間が残っていますか?」
そして主は「ほとんど残っていません。」
そして私は「小さいうちは10年でも20年でもいい、でも私はもう42歳です。」
そして主は「それは正しくはありません。あなたの歳は、あなたが生贄になり始めたときから始まるのです。私の善良さがあなたを呼びました。そしてあなたはその時から本当に生き始めたと言えます。そして、私が地上で私の人生を生きるためにあなたに呼びかけたように、もう少ししたら、天国で生きるようにあなたを呼ぶでしょう。」
そうこうしているうちに、祝福されたイエスの手から2本の柱が出て、それが一つになり、イエスが私の肩に重くもたれかかったため、私はその下から動けなくなりました。主が私を呼んでおられる間、その柱の下に肩を置こうとする人は誰もいませんでした。そのためそれらは主の手の中にとどまり、それらが留まっている間、あらゆる種類の殺戮が起こりました。私はそれらの柱が教会と世界であり、主の最も聖なる御手から出てきたもので、主の聖なる傷の中に支えられているものだと理解しました。それらはいつもそこにありますが、もし善良なイエスがそれらをもたれかからせる場所がないのであれば、主はすぐにそれらを御手の中に留めておくことに飽きてしまうでしょう。なんという災いでしょう!それは恐ろしい災いです。そのような人は沢山いるので、黙っていた方が良いと思われます。
1907年7月14日
魂のすべては愛でなければならない。
いつもの状態でいると、祝福されたイエスが少しの間来てくださり、私は何も考えずに尋ねました。
「主よ、昨日私は告解に行きました。もし私が死んでいたら、告解は罪を免除するのですから、あなたは私をまっすぐ天国へ連れて行って下さったのではありませんか?」
そして主は言われました。
「娘よ、告白すれば罪が軽くなるのは本当ですが、煉獄から免除される最も確実で確かなものは愛です。愛は魂の最優先される情熱でなければなりません。愛―魂の思考、言葉、動き…すべて、すべてがこの愛に包まれていなければなりません。このようにして、魂のすべての愛を見出すことで、創造されざる愛は創造された愛を自らの内に吸収します。実際、煉獄は魂に存在する愛の空洞を埋めること以外は行いません。そしてひとたびその空洞を埋めたあと、魂を天国に送ります。しかし、これらの空洞がそこになければ、それは煉獄に属するものではありません。」
1907年7月17日
人が神の意志の中に生きているかどうかを知るための真のしるし。
いるもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私にこう言われました。
「娘よ、魂が私の意志の中に生きているかどうかを知るための真のしるしは、魂に起こるすべてのこと、あらゆる状況が平和の内に起こるということです。なぜなら、私の意志は完全で聖なるものなので、それは動揺の影さえも生み出すことが出来ないからです。だからもし対照的に、悔しさや苦々しさを感じるなら、魂は私の意志の中にいるとは言えません。もし魂が落胆し、また不安を感じるなら、魂はさしずめ私の意志の影にいると言うしかありません。実際、その外側にいる間、魂は自由に自分自身を感じることが出来ますが、内側では違います。」
1907年7月19日
苛立ちも誘惑も欠点も神の意志には入らない
ある人に神の意志について話したとき、私の口から、神の意志の中にいて、苛立ちを感じても、それでも人は平安でいられるという言葉が漏れました。
私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスが私を訂正してこう言われました。
「娘よ、私の意志について話すときは、細心の注意を払いなさい。なぜなら私の意志は、私の栄光そのものを形成するほど幸せだからです。一方、人間の意志が非常に不幸であり、もしそれが私たちの意志に入り込めば、私たちの幸福を破壊し、私たちに対して戦争を仕掛けるでしょう。それゆえ、苛立ちも、誘惑も、欠点も、落ち着きのなさも、冷たさも、私の意志には入りません。なぜなら、私の意志は軽く、ありとあらゆる味を含んでいるからです。人間の意志は嫌悪感に満ちた暗闇の一滴にすぎません。だからもし魂が私の意志の中に入る前に、すでに私の意志の中にいるのなら、魂が私の意志の中に入る前に、私の意志の中に入ることができるように、私の意志との接触で、その魂の持つ暗闇の小さな一滴を溶かしたのです。
その熱は冷たさと苛立ちを溶かしました。その神聖な味は嫌悪感を取り除き、私の幸福は魂をすべての不幸から解放したのです。」
1907年8月6日
魂は懲罰しか目にしない。
いつもの状態を続けていると、私は自分の外に出て、教会の中にいることに気づきました。そこには皮膚が裂けそうなほど乳房を膨らませたとても美しい貴婦人がいました。彼女は私を呼んでこう言いました。
「娘よ、これが教会の現状です。教会は内面的な苦味に満ちており、内面の苦味に加え、外面的な苦味も受けようとしています。娘よ、それらが軽減されるように少し苦しんでください。」
そう言いながら、彼女は乳房を開き、手でカップを作り、母乳を入れて私に飲ませました。それはとても苦く、私自身説明できないほど多くの苦しみをもたらしました。その間、私は人々が革命を起こし、教会に入り込み、祭壇を剥ぎ取り、燃やし、司祭の命を狙い、彫像を壊し…その他たくさんの侮辱や悪事を働いているのを見ました。彼らがそうしている間にも、主は天からさらに多くの災いを送られ、多くの人が亡くなりました。教会に対しても、政府に対しても、そしてお互いに対しても、大騒動になっているようでした。私は怯え、自分の中に閉じこもっていることに気づき、聖母マリアが他の聖人たちと共に、イエス・キリストに私を苦しめてくださるよう祈る姿を見続けました。イエスは彼らに注意を払わないようで、彼らは主張し続けました。
祝福されたイエスはこう答えられました。
「私を煩わせるな、静かにしなさい。さもなければ私は彼女を連れて行きます。」
しかし、それにもかかわらず、私は少し苦しんでいたようでした。
さて、私が言いたいのは、この数日の間、ほとんどすべてにおいて、私がいつもの状態にあるとき、革命と懲罰しか見ていないということです。祝福されたイエスはほとんどいつも口を開かず、たまに私にこう言われます。
「娘よ、無理強いしないでください。さもなければあなたをこの状態から離脱させます。」
そして私は言いました。
「私のいのちと私のすべて、もしあなたがお望みのことを自由になさりたいのなら、私を連れて行ってください。そうすればあなたは望むことを何でも出来るでしょう。」
このような時代では、祝福されたイエスを相手にするのは大きな忍耐が必要なようです。
1907年8月22日
魂は、神と自分以外には誰も存在しないかのように、この世に存在しなければならない。イエスの受難をより新しくする原因は、決意の欠如です。
いつもの状態でいると、愛すべきイエスがほんの少しお出でになり、私に言いました。
「娘よ、恩寵が魂に自由に出入りするためには、神と自分以外には誰もいないかのようにこの世にいなければなりません。なぜなら、それ以外の考えや物事が魂と恩寵の間に入り込み、恩寵が魂に入るのを妨げ、魂が恩寵を受け取るのを妨げるからです。」
別の日、主は私にこう言われました。
「娘よ、私の受難をより新しくさせる原因は、決意の欠如です。ああ!彼らは自分たちの間でさえ、互いに約束したことを守らないほど卑怯ではない。彼らはある時は約束し、またある時は約束したことを覆します。彼らは私がそのためにひどく傷ついていることを知っているにも関わらず、私に対してだけ、このような卑怯と忘恩に達するのです。」
(2)に続く…
だんごむし通信
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