天国の書 第7巻(5) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第7巻(5)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 5 】

 

1906年9月11日

 神の栄光のために行われないことは、すべて不明瞭なままである。

 

1906年9月12日

 神がおられないところには、堅固さも真の善も存在しない。

 

1906年9月14日

 イエスは自分を完全にイエスに捧げる魂を守る。

 イエスの人間性における魂の居場所。

 

1906年9月16日

 ありのままの単純な真理は、心を惹きつける最も強力な磁石である。

 

◆1906年9月18日

 平和は魂の光であり、隣人の光であり、神の光である。

 

◆1906年9月23日

 キリストのために活動することが、どのように人間的な活動を破壊し、イエスがその働きを再び神の活動へと甦らせるのか。

 

◆1906年10月2日

 私たちの苦しみがイエスを和らげる方法。

 

◆1906年10月3日

 イエスは単純さについて語る。

 

◆1906年10月4日

 愛の炎を灯す息は、正しく働く。

 

◆1906年10月5日

 イエスは魂の主人である。

 

 

 

1906年9月11日

神の栄光のために行われないことは、すべて不明瞭なままである。

 

いつもの状態でいると、私は大勢の中で、赤ん坊のイエスを抱いている自分に気が付きました。

イエスは私に言われました。

「私の娘よ、生きとし生けるもののすべての作品、言葉、思考は『すべてをより大いなる神の栄光のために、すべてをより大いなる神の栄光のために(Gloriam Dei, Gloriam Dei)』という印で封印されなければなりません。そして、この印で封印されていないものはすべて、暗闇に埋もれたかのように不明瞭なまま、汚れたまま、あるいはほとんど価値のないものとして残ります。ですから、被造物は自分から闇や忌まわしいものを引き出す以外には何もできません。なぜなら、神の栄光のために行動しないことによって、被造物はまるで神から見放され、自分だけが取り残されたかのように、自分が創造された目的から離れてしまうからです。神だけが光であり、人間の行動が価値を持つのは神を通してです。さて、被造物が主の栄光のために活動しないことによって、その労苦から何も得られないとしても何が不思議でしょうか?それどころか、自らの暗闇に埋もれ、自らに重い負債を背負い込むのです。」

 

とても残念なことに、私たちはまるで暗闇に埋もれているかのように、それらすべての人々を見ていました。その苦い思いから祝福されたイエスの気をそらすために、私はイエスを抱きしめてキスをしました。そして彼と遊びたいと思い、私は彼にこう言いました。「私と一緒に言ってください。私はこの魂の祈りに力を与え、私に願うことを受け入れる」しかし、彼は私の言うことを聞こうとはしませんでした。そして私は、一緒にそれを言うように無理強いしたかったので、キスと抱擁を繰り返しました。「私はこの魂の祈りに力を与え、私に願うことを受け入れると言ってください、私と一緒に言ってください。」私は主がそう言ったと思えるほどたくさんのことをしました。そして私は自分の中にいる自分に気が付き、自分の愚かさと狂気に驚いて、恥ずかしくなりました。

 

 

 

 

1906年9月12日

神がおられないところには、堅固さも真の善も存在しない。

 

私は自分の状態について考えていましたが、それは今やすべての平和と愛に満ちているように思えます。私を妨げるものは何もなく、すべてが善であり、罪は一つもありません。そして私は自分に言いました。「もし私の死の瞬間に光景が変わり、この逆を見ることになったらどうなるでしょうか。つまり、あらゆることが私をかき乱し、私がしてことはすべて悪の連鎖にすぎなかったことになるでしょう。」

 

そんなことを考えていたら、主がこう言われました。

 

「娘よ、あなたは無理やり自分を乱し、私の安息を奪おうとしているようです。あなたの忍耐、不変性、そしてあなたのこの状態の平和は、あなた自身のものだと思いますか? それともあなたの内に住まわれている方の実りと恵みであると思いますか? これらの賜物を持っているのは私だけです。そして、その不変性、平安、忍耐から、あなたは自分の中で動いているのが誰なのかを認識することができます。 実際、それが魂の本性であれ、悪魔であれ、魂はある気分と同時に別の気分へと、絶え間ない変化に支配されているように感じます。 今は忍耐、今は煩悩。 要するに、哀れな人は強い風にあおられた葦のように翻弄されているのです。 ああ、娘よ、神がおられないところには堅固さも真の善も存在しません。 だからこれ以上、私やあなたの休息を邪魔しないでください。むしろもっと感謝しなさい。」

 

 

 

1906年9月14日

イエスは自分を完全にイエスに捧げる魂を守る。イエスの人間性における魂の居場所。

 

今朝、私は自分の外にいて、鏡の中に赤ん坊のイエスを見たのですが、それはとてもはっきりと大きく、自分がどの場所にいてもイエスをよく見ることが出来ました。私はイエスが私のところへお出でくださるように合図をし、イエスは私がご自分のもとに来るように合図をなされました。その間に、私は多くの敬虔な人々や司祭たちが、まるで私とイエスの間に立っているかのように、私のことを話しているのを見ましたが、私は甘美なイエスしか目に入らず、彼らには見向きもしませんでした。ところが、イエスがその鏡の中から慌てて出て来られ、話している人々を打ち負かすために、こう言われました。

 

「誰も彼女に触れてはいけません。私を愛している人に触れるとき、その人が直接私に触れるより、私は気分を害するからです。私は自分を完全に私に捧げる者と、その無垢さをどのように受け止めているか、あなた方に示そう。」

 

主は片腕で私を抱きしめ、もう片方の腕で彼らを威嚇しました。私は彼らが言う私の悪口のことなど、まったく気にしていませんでした。私はただ、主が彼らを打ち負かそうとしてことを残念に思い、主に言いました。

 

「私の愛しいいのちよ、私のせいで誰も苦しんでほしくありません。あなたが私を愛してくださっているかどうか、このことから分かります。そうでなければ私は不満を抱くでしょう。」

 

それで主はご自身を落ち着かせ、私をその人たちの中から引き離し、自分の中に取り込んでくださいました。

 

私はすでに子供ではなく、十字架につけられた主を見ながら主に言いました。

 

「愛すべき善よ、あなたが十字架につけられたとき、すべての魂にはあなたの人間性の中に居場所がありました。私の居場所はどこだったのでしょうか?」

 

そして主は言いました。

「娘よ、愛する魂たちの居場所は私の心の中にありました。ですから、あなたについては、生贄の状態で贖いに協力することになっていたので、私の心に留めておくだけでなく、助けと救済として、私の体全体に留めていたのです。」

 

 

 

1906年9月16日

ありのままの単純な真理は、心を惹きつける最も強力な磁石である。

 

聴罪司祭が、大司教が、私の気が散らないように、人々が訪ねて来るのを望んでいないと言ったので、私は彼に言いました。

 

「あなたは何度も従順を命令してこられましたが、決して解決されることはありませんでした。それはしばらくの間続きますが、それが終わるとまた以前の状態に戻ります。もう話さないと言う従順を私に与えて下されば、私の沈黙が皆を遠ざけるでしょう。」

 

そこで、聖体拝領を受けた後、私は主に言いました。

 

「もしお望みなら、あなたの目にどのように映っているのか知りたいのです。 あなたは私が被造物と一緒にいるときに私が感じる暴力の状態をご存じです。なぜなら私はあなたといるだけ安心するからです。なぜ彼らが来たがるのか理解できません。私は素朴な自分を見せているだけです。私は彼らを惹きつけるようなことは一切せず、むしろ不愉快なマナーを使っています。なぜ彼らが来たがるのか私には分かりません。ああ、天よ、私が一人でいられますように!」

 

その時、主が私にこう言われました。

 

「娘よ、ありのままの単純な真理は、心を惹き付ける最も強力な磁石であり、真理と真実を明らかにする人々を愛するために、どのような犠牲にも立ち向かうように駆り立てます。 殉教者たちに血を流させたのは誰ですか? 真理です。 多くの戦いの中で、聖く汚れの無い人生を送る力を多くの聖人たちに与えたのは誰ですか? 真理、しかもありのままで単純で利害関係のない真理です。だから被造物はあなたのところに来たがるのです。 ああ、娘よ、この悲しい時代に、聖職者、宗教家、敬虔な人々の間でさえ、このありのままの真理を明らかにしてくれる人を見つけるのはどれほど難しいことでしょうか! 彼らの話し方や動作は、常に人間的な何か、興味があるものや他のものを感じさせ、真理は覆い隠されるか、ベールに包まれているかのように現れます。ですから、受け取る人は、ありのままの真理に触れるのではなく、真理が包み込まれた利害関係や、その他の人間の目的に触れるので、真理に含まれている恩寵や影響を受けないのです。 だからこそ、私が光を与えることを止めないにも関わらず、これほど多くの秘跡、これほど多くの告白が無駄になり、冒涜され、身を結ばないのです。 しかし、彼らが私の言うことをきかないのは、そうすれば名声を失い、人望を失い、自分の本性に満足を得られなくなり、自分の利益に反することになると考えるからです。 しかし、ああ、なんと彼らは自分自身を欺いているのでしょう! 事実、真理を愛するためにすべてを捨て去る者は、他の者よりもすべてのことにおいて豊かになります。 それゆえ、出来る限り、このありのままの単純な真理を明らかにすることを怠ってはなりません。分かりましたか、常にあなたを導く者の従順に従うことです。しかし機会があれば、真理を明らかにしなさい。」

 

慈善に関することはすべて、ベールに包まれたような形で話しました。そして従順がすべてを詳細に書くように私に言ったので、まるで従わなかったかのような感じがしました。主に尋ねると、主は、そのような欠点に気づく人なら分かるから、そのままでよいと言われました。

 

 

 

1906年9月18日

平和は魂の光であり、隣人の光であり、神の光である。

 

ひどく苦しんだ後、私はすっかりふさぎ込み、心が少し乱れ、なぜ私の愛すべきイエスが来てくださらないのかと考えていました。すると、ちょうど主が来られ、私のこう言われました。

 

「娘よ、平和とは魂の光であり、隣人の光であり、神の光です。それゆえ、平和な魂は常に光であり、光りであるがゆえに、常に永遠と結ばれ、そこから常に新しい光を引き出し、他の人にも光を与えることができるのです。ですから、もし新しい光が欲しいなら、平和に過ごしなさい。」

 

1906年9月23日

キリストのために活動することが、どのように人間的な活動を破壊し、イエスがその働きを再び神の活動へと甦らせるのか。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスが少しだけお出でになり、私を全身で抱きしめてこう言われました。

 

「愛する娘よ、キリストのために、キリストにおいて活動することは、人間の活動を完全に消滅させます。なぜなら、キリストにおいて活動することによって、キリストは火であるから、人間の活動を焼き尽くし、人間の活動を焼き尽くした後、キリストの火はそれを再び神聖な活動へと甦らせるからです。それゆえ、まるで二人で一緒に同じことをしているかのように、常に私と行動しなさい。もしあなたが苦しむなら、私と一緒に苦しんでいるかのように苦しみなさい。もしあなたが祈るなら、もしあなたが働くなら、私にあって、私と共に、すべてを行いなさい。そうすればあなたの人間的な働きは完全に失われ、神聖な働きとして再び見出すことができるでしょう。 ああ、被造物は数えきれないほど多くの富を手に入れることができるのに、それを利用しようとはしません。」

 

そう言ってイエスは姿を消しましたが、私はもう一度イエスに会いたいという強い願望を抱いたままでした。 その時、私は自分の外にいて、至るところで主を探し続けました。そして主を見つけることが出来なかったので、私は言いました。

 

「ああ、主よ、あなたのためにすべてを捧げ、あなたを愛するために絶え間ない死に苦しみ続けるしかない魂に対して、あなたはなんて残酷なんてしょう! 私の意志はあなたを探しも求めますが、私の意志のいのちであるあなたを見つけられないので、絶えず死に続けます。私の望みは、あなたを望んでもあなたを見つけられず、自分のいのちを見出せずに、絶えず死んでいきます。ですから、私の呼吸、私の心臓の鼓動、私の記憶、私の知性、すべて、すべてが残酷な死を経験しています。それなのにあなたは私を憐れんでくださりません。」

 

その瞬間、私は自分の中に戻り、神が私の中にいるのを見つけました。そしてまるでしっぺ返しをするかのように、イエスはこう言い続けました。

 

「見なさい、私はあなたのすべてであり、すべてはあなたのためにあります。」

 

主は茨の冠をかぶっているようで、主がそれを頭に押し付けると血が流れだしました。そして主は繰り返しました。

 

「この血はあなたを愛するために流しました。」

 

主は私にご自分の傷をお見せになり、こう付け加えました。

 

「すべてはあなたのために」

 

おお、私はどれほど狼狽したでしょう。主の愛にくらべれば、私の愛など影にすぎません。

 

 

 

1906年10月2日

私たちの苦しみがイエスを和らげる方法。

 

聖体拝領を受けた後、私は自分の外にいると感じるとともに、様々な十字架によって非常に苦しめられている人を見ました。祝福されたイエスがこう言われました。

 

「迫害や刺し傷や苦しみにさいなまれていると感じるときは、私がそばにいると思いなさい。そして、どんな苦しみがあろうとも、それらを用いて私の傷を癒し、治療することができると考えるべきだと魂に伝えなさい。 私は被造物の与える重大な侮辱によって、あまりにも苦しみ、傷つけられています。だから、魂の苦しみは、私の脇腹、私の頭、私の手足を癒すのに役立ちます。 これは、私自身が魂に私の傷を癒す薬を与え、また魂が私を癒したことに対して私が魂に与える慈愛の功徳でもあり、私が魂に与える偉大な栄誉なのです。」

 

イエスがこう言われている間、私は多くの浄化された魂を見ましたが、彼らはそれを聞いて皆驚いてこう言いました。

 

「これほど多くの崇高な教えを受けられる皆さんは幸運です。神を癒す功徳を得ることは、他のあらゆる功徳を凌駕するものです。そしてあなたの栄光は、地上の天国のように、他のものからは区別されるでしょう。ああ、もし私たちが私たちの苦しみが神を治療するのに役立つというこの教えを受けていたら、私たちはそれほど多くの富を得ることができたでしょう!」

 

 

 

 

1906年10月3日

イエスは単純さについて語る。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスが少しだけお出でになり、こう言われました。

 

「娘よ、単純さは魂を外に溢れ広がるほどの恩寵で満たします。ですから、魂の中の恩寵を閉じ込めようと思ってもそれはできません。 実際、神の霊は最も単純であるがゆえに、努力や苦労もなく、それどころか自然にあらゆる所に広まるのと同じです。 同じように、単純さの美徳を持つ魂は、自分でも気づかないうちに恩寵を他の人にも広めているのです。」

 

そう言って主は姿を消しました。

 

 

 

1906年10月4日

愛の炎を灯す息は、正しく働く。

 

誰かが来ても、一言だけしか話してならないという従順を与えられたので、その従順を怠ったのではないかと心配になりました。さらに祝福されたイエスが来てくださらないことも心配を増し加えました。私が罪を犯したから主が来てくださらないのだと考える私の魂の苦しみを誰が語ることができるでしょうか。イエスの窮乏は常に残酷な苦痛ですが、何らかの過失のためにその機会を与えていしまったという考えは、人を狂わせ、一撃で殺す苦痛です。

 

それから、私がひどく苦しんだ後に主がお出でになり、私に三度お触れになり、こう言われました。

 

「娘よ、私は父の力と私の知恵と、聖霊の愛によって、あなたを新しくします。」

 

主がこのように言われたとき、私は何を感じたのか…それを言葉では言い表すことができません。それから、主は私の中に横たわり、茨の冠をかぶった頭を私の心臓においてこう付け加えました。

 

「正しい働きは、常に神聖な愛を魂の中に灯し続けますが、正しくない働きはそれを消し続け、もしそれを灯そうとすれば、今度は自己愛の息吹がやってきてそれを消し、次は人間的な尊重の息吹、次は自尊心の息吹、地後は他人を喜ばせたいと言う願望の息吹がやってきます…。要するに、多くの呼吸がいつもそれを消し続けているのです。 正しい働きでは、この神聖な火を魂に灯すのは多くの呼吸ではなく、常に魂を灯し続ける一つの絶え間ない呼吸であり、それは神の全能の息吹に他ならないのです。」

 

 

 

 

1906年10月5日

イエスは魂の主人である。

 

いつもの状態でいると、私は赤ん坊のイエスと一緒に自分の外にいることに気が付きました。この度は遊びたい気分だったようです。主は私の胸や腕に自分を押し付け、大きな愛で私を見つめながら、次は私を抱きしめ、次は私を押し、小さな頭で私にぶつかりそうになり、次は私を包み込み、強くキスをして、ご自分と同化させたいと思われました。主がそうしてくださる間、私はひどい痛みを感じ、気を失いそうになるほどでした。しかしそのように苦しむ私をご覧になっても、主は私に注意を向けようとはなさいませんでした。それどころか、もし主が私の顔をご覧になっても、私は主に何も言えなかったのだから、主はもっと激しく私を苦しめたでしょう。そして、主はご自分を十分に発散された後、私に言われました。

 

「娘よ、私はあなたの主人なのだから、私が望むことは何でもできます。あなたは私のものである以上、あなたはもはや自分自身の主人ではないのです。もしあなたが何かを決めるなら、たとえ一つの考え、一つの望み、に突の鼓動であっても、私から盗んでいるのだと知りなさい。」

 

そのとき私はあまり気分が良くなかった聴罪司祭が、あたかも自分の苦しみを私に押し付けようとしているのを見ました。慌ててイエスは彼を手で押しのけて言いました。

 

「まず私の苦しみを取り除かなければなりません。それは沢山あるから。そうすれば出来るようになります。」

 

そう言いながら、彼は私の口に近づき、最も苦いお酒を注ぎました。それから私は聴罪司祭を神に委ね、その小さな手で彼に触れ、彼が元気になるようにと祈りました。主は彼に触れて「はい、はい。」と言いました。そして姿を消されました。

 

 

(6)に続く…

 



ヨハナ通信

 

天国の書「第7巻」始めました。

時々飽きてしまって脱線したりしますが、

地味に更新していきますのでお待ちくださいね。

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

 

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