天国の書 第6巻(13) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第6巻(13)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 13 】

 

1905年8月17日

  神のすべての栄光は、魂が持っているすべてのもののうち、何ひとつ魂のものではなく、すべては神から出たものであると告白されるときである。

 

1905年8月20日

 恩寵は、神の完全性と美徳の数だけ、魂の周りを多くの姿で取り囲む。

 

◆1905年8月22日

 イエスの苦しみの重さ、すなわちイエスの贖罪のわざをイエスと分かち合う者は、贖罪のわざの恩恵に加わるようになる。

 

◆1905年8月23日

 もし魂が神のためにすべてを尽くすなら、魂は神の愛の炎の中に消えたままである。自分のことを考えることは決して美徳ではなく、常に悪である。

 

◆1905年8月25日

 真の美徳はイエスの御心に根を下ろすとともに、被造物の心の中で育まれなければならない。

 

◆1905年8月28日

 イエスの御心は人間の心をご自分の御心に結びつける。そしてもし人間がイエスの御心に応えるならば、イエスの御心のすべてとイエスの命さえも手に入れることができる。

 

◆1905年9月4日

 いつの時代にも神は被造物にとって可能な限りの創造、贖い、聖化の使命、及び、神の賜物を与えられた魂を持っていました。

 

◆1905年9月6日

 注意不足の弊害。

 

◆1905年9月8日

 真の慈愛とは、隣人が神の似姿であるがゆえに、隣人に善を施すことである。

 

◆1905年9月17日

 聖母マリアの悲しみにどう寄り添うか。

 

 

 

 

J.M.J.

父と子と聖霊の御名によりて。

 

 

 

1905年8月17日

神のすべての栄光は、魂が持っているすべてのもののうち、何ひとつ魂のものではなく、すべては神から出たものであると告白されるときである。

 

いつもの状態でいると、聖母マリアが私たちの主にこう言っているのが見えました。

 

「お出でください、彼女の庭に来て喜びましょう。」

 

彼女は私を指さしているようでした。これを聞いて私は赤面し、自分に言いました。

 

「私には何の役にも立たないのに、どうして主は喜んでくださるでしょうか?」

 

そんなことを考えていると、祝福されたイエスが私に言われました。

 

「娘よ、どうして顔を赤らめるのですか? 魂のすべての栄光は、魂が持っているもののうち、何一つ自分のものではなく、すべては神から出たものだと告白されることです。そして私はそれと引き換えに、私のものはすべて魂のものだと魂に言うのです。」

 

主がそう言っておられる間に、主ご自身が造られた私の小さな庭が、主が心に秘めておられた最も広大な庭と一つになり、私たちは共に喜びあうのだと思いましたが、その時私は自分の中にいる自分に気が付きました。

 

 

 

 

1905年8月20日

恩寵は、神の完全性と美徳の数だけ、魂の周りを多くの姿で取り囲む。

 

今朝、祝福されたイエスが来られるなり私に言いました。

 

「娘よ、もし魂がすべての行動において、神のために、そして神だけを喜ばせるためにすべてを行なうなら、ちょうどバルコニーやドア、窓が開いているときに太陽の光が四方八方から家の中に差し込み、その光の豊かさを存分に楽しむことが出来るように、恩寵は四方八方から魂の中に入り込みます。同じように、魂は神の光の豊かさをすべて享受します。そしてこの光は、魂の対応を通して、魂がすべての光となるまで、常に拡大し続けます。しかし、もしそうしなければ、光りは隙間から差し込むだけで、魂の中ではすべてが暗闇になります。娘よ、私にすべてを与える者に、私はすべてを与えます。そして魂は私の存在を一度にすべて受け取ることが出来ないので、恩寵は、私の完全性と美徳の数だけ、魂の周りを多くの姿で取り囲みます。ですからそれは美の姿をまとい、美の光を魂に伝えます。知恵の姿をまとい魂に知恵の光を伝えます。善の姿では善の光を伝えます。神聖さ、正義、不屈の精神、力、純潔さの姿では、神聖さ、正義、不屈の精神、力、純粋さの光を伝えます。そして残りのすべても同様です。だから、魂の周りには一つの太陽ではなく、私の完全性の数だけ多くの太陽がちりばめられているのです。唯一心を開いて呼応する者の中ではそれらはすべて活動し、働いていますが、そうでない魂は、まるで眠っているようなもので、それらはほとんど何も活動せず、まったく使うことが出来ません。」

 

 

 

 

1905年8月22日

イエスの苦しみの重さ、すなわちイエスの贖罪のわざをイエスと分かち合う者は、贖罪のわざの恩恵に加わるようになる。

 

私がいつもの状態でいると、私の愛すべきイエスがほんの少し来てくださり、私を自分の外に連れ出してくださいました。イエスはご自分の苦しみを私と分かち合ったあとにこう言われました。

 

「娘よ、二人の人間が一つの仕事の重みを分かち合うとき、二人はその仕事から受ける報酬を一緒に分かち合います。そして二人とも、その報酬で自分の望む人に対しても良いことをすることができます。ですからあなたは私の苦しみの重さ、すなわち私の贖罪のわざを私と分かち合っているので、あなたは贖罪のわざの恩恵を分かち合うようになります。そして私たちの苦しみの代償は、あなたと私の間で分けられているので、私は誰に対しても、平凡な、または特別な方法で善を行なうことができます。そしてあなたもまた、自分にふさわしい報酬で、あなたが望む人に善を行なうことができます。これは、私と苦しみを分かち合う者にとっての恩恵であり、それは生贄の状態にのみあたえられるものです。そしてそれは生贄に最も近い人々にとっての利益となります。なぜなら、生贄の近くにいる者は、生贄が所有する財宝により簡単に接することができるからです。ですから娘よ、私があなたと苦しみを分かち合えば会うほどあなたの報酬の分け前が大きくなるのですから喜びなさい。」

 

 

 

 

1905年8月23日

もし魂が神のためにすべてを尽くすなら、魂は神の愛の炎の中に消えたままである。自分のことを考えることは決して美徳ではなく、常に悪である。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスが私にこう言われました。

 

「娘よ、もし魂が私のためにすべてを行なうなら、魂は炎にまとわりつき、炎の中で消えてしまう小さな蛾と同じようなことを行ないます。同じように、魂が自分の行動、その動き、望みの芳香を私に捧げるかどうかによって、—今は私の目の周り、今は私の顔、今は私の手、今は私の心、魂が捧げる様々な捧げものに応じて—魂は私の周りにまとわりつきます。そして魂が私にまとわり続けることで、魂は煉獄の炎に触れることなく、私の愛の炎の中で消え続けます。」

 

それから主は姿を消し、戻ってくると、こう付け加えられました。

 

「自分のことを考えると言うことは、神の中から外に出て、自分の中に戻って生きることと同じです。さらに、自分のことを考えることは決して美徳ではなく、たとえそれが善の側面を持っていたとしても、常に悪なのです。」

 

 

 

 

1905年8月25日

真の美徳はイエスの御心に根を下ろすとともに、被造物の心の中で育まれなければならない。

 

今朝、祝福されたイエスが来られると私に言われました。

 

「娘よ、魂は私の心に住まわなければなりません。

そして魂の美徳は…私の心に根を下ろし、魂の心の中で育まれるようにしなければなりません。他にも、生まれもった美徳や、同情の美徳がありますが、それらは時と場合によってとらえ方が変わります。

 

一方、私の心に根を張り、魂の中で育まれた美徳は安定していて、あらゆる時代とあらゆる状況に適応し、すべての人に平等です。

 

しかし、他の人はそうではなく、誰かに対して際限のない慈愛を感じます。

 

一時はそれらが炎上し、真の犠牲を捧げ、命を捨てたいと思うでしょう。

しかしその後、最初の人よりも困っている人が現れると一瞬にして状況が変わります。彼らは氷のように冷たくなり、耳を傾けたり、話しかけたりするという犠牲を払おうともしません。彼らは無関心で、彼を怒らせ、苛立たせて送り返します。

 

これが私の心に根を下ろした慈愛なのでしょうか?

もちろんそうではありません。

 

それどころか、それは人間的で同情的な悪質な慈愛であり、ある瞬間には大きくなり、別の瞬間には枯れて消えてしまいます。

 

誰かが誰かに従順で、服従し、謙遜で、自分をボロ雑巾のようにし、自分を好きなように扱えるようにします。しかし別の人には不従順で、反抗的で、高慢です。

私は誰にでも、処刑人にさえ従いました。

これが私の心からきた従順でしょうか?

もちろんそんなことはありません。

 

ある種の状況で我慢強い人がいます。

深刻な苦しみなのに、彼は嘆くために口を開くことさえしない子羊のように見えます。しかし、おそらくそれより小さい別の苦しみがあると、彼はカッときて苛立ち、悪態をつきます。

 

これが私の心に根を下ろした忍耐なのでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

 

ある日は、自分の義務に背くほど熱烈に祈り、別の日には少しがっかりする出会いがあり、気持ちが冷めてしまい、クリスチャンの義務である祈りを破るほど祈りを完全に放棄してしまいます。

血の汗を流し、死の苦しみを感じながらも片時も祈りを怠らなかった私の祈りの精神は、ひょっとしてこのようなものだったのでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

 

そして他のすべての美徳も同様です。

 

私の心に根を下ろし、魂に接ぎ木された美徳だけが安定し、永続し、光りに満ちて輝きます。他の者は美徳のように見えますが悪徳です。それらは光のように見えますが闇なのです。」

 

そう言うとイエスは姿を消し、私が彼を望み続けるとイエスは戻って来てこう付け加えました。

 

「私を欲する魂は、絶えず私を身に宿します。そして私は自分自身が魂に満たされているのを感じながら、どこを向いても魂の望みを見出し、魂に触れ続けることが出来るように、自分自身を魂に宿らせるのです。」

 

 

 

 

1905年8月28日

イエスの御心は人間の心をご自分の御心に結びつける。そしてもし人間がイエスの御心に応えるならば、イエスの御心のすべてとイエスの命さえも手に入れることができる。

 

今朝、私の愛すべきイエスが来られると、その最も愛すべき御心を見せてくださいました。その中から、金や銀、赤く輝く糸のようなものが何本も出て来て、それが編み目のようになり、糸に糸を重ねてすべての人の心を縛っているように見えました。私はこれに魅せられていましたが、主は私にこう言われました。

 

「娘よ、これらの糸によって私はすべての人間の愛情、望み、鼓動、愛、そして人生そのものさえも私の心に結び付けています。それらはすべてにおいて私の人間性の心に似ていますが、私の心は神聖さにおいて異なります。そして彼らを縛り、私の望みが天で動くと、望みの糸が彼らの望みを刺激します。愛情が動けば愛情の糸が彼らの愛情を動かします。私が愛すれば、愛の糸は彼らの愛を刺激し、私の命の糸は彼らにいのちを与えます。おお、天と地、私の心と人間の心の調和よ! しかし私に応える者だけがこれを感じ取ることができ、一方、自分の意志の力で私を拒む者たちは、何も感じず私の人間性の心の働きを無駄にします。」

 

 

 

 

1905年9月4日

いつの時代にも神は被造物にとって可能な限りの創造、贖い、聖化の使命、及び、神の賜物を与えられた魂を持っていました。

 

いつもの状態を続けていると、私の愛すべきイエスが、その最も神聖な人間性、彼のすべての傷、彼の痛みを見せてくださいました。そしてその傷の中から、その血の滴からさえも、実や花をつけた沢山の枝が出てきました。そして、花や実をつけた枝と同じように、彼の苦しみを私に伝えようとしているように見えました。私は主の所有物すべてから私を除外することなく、すべてを私と分かち合ってくださる主の慈しみを目の当たりにして、驚きを隠せませんでした。そして祝福されたイエスは私にこう言われました。

 

「愛する娘よ、あなたが見ているものを驚いてはいけません。あなたはひとりでもなければ、たった一人でもないのです。事実私はいつの時代にも被造物にとって可能な限りの何らかの方法で完全に私の創造、贖い、聖化の使命を受け取ることができる魂を持っていて、彼らは私が人間を創造し、贖い、聖化したすべての賜物を受け取ることが出来ます。そうでなければもしそのたび毎に被造物が一人もいなかったら、少なくともしばらくの期間は私の活動全体が滞ってしまうでしょう。

 

これは私の摂理、私の正義、私の愛の秩序であり、それぞれの時代において、私はすべての所有物を分かち合うことができる少なくとも一人を持たなければならず、被造物は被造物として私に負っているすべてのものを私に与えなければならないのです。そうでなければ、なぜ世界を維持する必要があるのですか?私は一瞬にして世界を粉々に打ち砕くでしょう。これこそが私が生贄の魂を選ぶ理由です。神の正義がすべての被造物の中に見出さなければならないものすべてを私の中に見出し、私の人間性がすべてを含むように、またすべての被造物と分かち合うように、私は生贄の中にすべてを見出すために私の所有物を彼らと分かち合うのです。私の受難の時、私には最愛の母がいて、私のすべての苦しみとすべての所有物を分かち合いました。母は被造物として最も注意深く被造物が私のためにするべきことをすべて自分の中に集めました。それゆえ私は母の中に私のすべての満足と、私がすべての人の中に見出すべきであったすべての感謝、礼拝、称賛、償いを見出しました。その後、教会のあらゆる時代に、マグダラ、ヨハネなどが現れました。そしてこれらの魂が私により喜ばれ、私が彼らにすべてを与えたいと感じるように、まず彼らを予見し、次に彼らの魂、肉体、特質、そして声さえも高潔にし、彼らの一言が大きな力を持つようにします。彼らの声はとても慈悲深く、甘美で、浸透力があり、私の全存在を慈しみと優しさに動かすのです。私は言います。『ああ!これは私の最愛の人の声です。私は魂の声に耳を傾けずにはいられず、魂が望んでいることをこばむことはできません。もし私が魂の話を聞きたくないのなら、魂から話そうという意志を奪わなければなりません。だからといって魂を空身で返すことは決してしません。』ですから、私と魂の間には融合の電流があり、魂自身はこの世ですべてを理解することはできませんが、来世ではすべてを明確に理解することができるでしょう。」

 

 

 

 

 

1905年9月6日

注意不足の弊害。

 

今朝私は非常に苦しんだ後、主が十字架につけられるのを見ました。私は主の手の傷にキスし、主がその最も聖なる御手の中で受けた苦しみのために、すべての人間の行いを聖別し、完全なものとし、清めてくださるように償い祈っていました。そして祝福されたイエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、私の手を最も痛めつけ、私の傷を最も苦しめ、広げるものは注意を払わずに行なう善行です。実際、注意を怠ると善い行いから命を奪われ、命のないものはいつも腐りかけています。人間の目から見れば、注意を払わずに行われた善行は、罪そのものより大きな災いです。それゆえそれらは私を嘔吐させます。実際罪は闇であり、闇がいのちを与えないのは当然のことです。しかし光でありながら闇を与える善行は、人の目をひどく傷つけ、もはや光を見出すことが出来ません。それゆえ善の道を阻む障害となるのです。」

 

 

 

 

1905年9月8日

真の慈愛とは、隣人が神の似姿であるがゆえに、隣人に善を施すことである。

 

私がいるもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけお出でになり私に言われました。

 

「娘よ、真の慈愛とは、隣人に対して善を行なうときに、その人が私の似姿であるがゆえにそれを行なうことです。この領域から出るすべての慈愛は慈愛とは呼べません。もし魂が慈愛の功徳を望むのであれば、すべてのものにおいて私の似姿を見ると言うこの領域から決して出てはなりません。真の慈愛とはまさにこれにあり、私の慈愛がこの領域から出ることは決してありません。私が被造物を愛しているのは、魂が私の似姿だからです。そしてもし魂が罪によって私のこの似姿をゆがめるなら、私はもはや魂を愛する気持ちにはならないでしょう。そして私が植物や動物を守っているのは、それが私の似姿に役立つからにほかなりません。そして被造物は創造主を手本として、自らのすべてを変えなければならなのです。」

 

 

 

 

1905年9月17日

聖母マリアの悲しみにどう寄り添うか。

 

私の最も甘美なイエスの窮乏のために多くの苦しみの中にありました。今朝、至聖なるマリアの悲しみの日に、私がとても苦しんだ後に主がお出でになり私にこう言われました。

 

「娘よ、私をそんなに待ち望んで、何をしたいのですか?」

そして私は

「主よ、あなたがご自身のために持っておられるもの、それこそ私が切望しているものです。」

 

そして彼は

「娘よ、私にはいばらと釘と十字架があります。」

 

そして私は

「だとしたらそれが私の望みです。」と言いました。

 

それで主は私にいばらの冠を与え、十字架の苦しみを分かち合ってくださいました。

 

そしてこう付け加えました。

 

「誰もが私の母の悲しみによって生み出された功徳と恵みを分かち合うことができます。前もって自分を摂理の御手に委ね、あらゆる種類の苦痛、災難、病気、中傷、そしてその他の主が魂に与えられるすべてのものを苦しむために身を捧げる者は、シメオンの予言の最初の悲しみにあずかるようになります。

 

実際に苦しみの中に身を置き、耐え忍び、私に強くしがみつき、私を傷つけない人は、あたかもヘロデの手から私を救い、私を心のエジプトの中で安全に守ってくれているかのように、第二の悲しみにあずかっているのです。

 

意気消沈し、無味乾燥で、私の存在を奪われたと感じながらも、いつもの習慣を堅く忠実に守り続ける者、さらに私を愛し、私をもっと探し求める機会を飽くことなく得る者は、私が失われたときに私の母が獲得した功徳と恵みにあずかるようになります。

 

そんな状況にあっても、特に私がひどく侮辱され、軽蔑され、踏みにじられるのを目の当たりにしても、私を癒そうとし、私を憐れみ、私を傷つける者たちのために祈ろうとする者は、あたかもその魂の中に、私を敵から解放してくれたであろう私の母に出会ったかのように感じます。そして魂は第四の悲しみにあずかります。

 

私の磔刑を愛するために自分の感覚を磔にし、私の磔刑の美徳を自分の中に模倣しようとする者は、第五の悲しみにあずかります。

 

私の傷に接吻し、償い、感謝するなどの絶え間ない崇拝の態度を取り続ける者は、まるで全人類の名において魂が行っているかのようです。私が十字架から降ろされたとき、私の母が私を抱きしめたように、全人類の名において魂が私を抱いているかのようで、魂は第六の悲しみにあずかっています。

 

私の恩寵の中にとどまり、その恩寵に応え、心の中で私以外の誰にも居場所を与えない者は、あたかも私を心の中心に埋葬したかのようであり、魂は第七の悲しみにあずかっているのです。」

 

 

 

 

第6巻(14)に続く

 

 

ヨハナ通信

 

更新にすこし時間があいてしまいましたが、まだ飽きていませんよ~

 

ここのところ天気が良かったので、野良仕事で疲れてパソコンに向かえませんでした('◇')ゞ

田舎のかあちゃん野良仕事がんばっています。

 

地味に続けて行きますので、気長にお付き合いくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

相変わら変な文章で申し訳ありません。

きちんとした翻訳は日本でこの本が出版されるのを待ちましょう!

どこかの出版社で出版してくれないかな~(ToT)/

 

 

「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

日本では4巻までしか発行されていないので、これはその続きになります。

外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

こちらになります↓

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ