天国の書 第6巻(12) | それゆけだんごむし!ーカトリック「神のご意志の王国」の霊性のブログ

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第6巻(12)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 12 】

 

1905年5月30日

 イエスの愛のいのち。

 

1905年6月2日

 忍耐は忍耐力の糧である。

 

◆1905年6月5日

  十字架は洗礼の泉である。

 

◆1905年6月23日

 イエスの人間性と結ばれた者は、イエスの神性の扉の前に立っている。

 

◆1905年7月3日

 ルイーザの状態に関するイエスの宣言。

 

◆1905年7月5日

 イエスの人間性は神性のためのメロディーである。

 

◆1905年7月18日

 魂は自分の内面を他の人に開いてはならず、聴罪司祭に対してのみ開きなさ い。

 

◆1905年7月20日

 魂が神の意志に忠実でないとき、神はその魂に対する計画を止められる。

 

◆1905年7月22日

 神は働きを見るのではなく、働きにおける愛の強さに目を向けられる。

 

◆1905年8月9日

 平和と動揺の影響。

 

 

 

 

J.M.J.

父と子と聖霊の御名によりて。

 

 

 

1905年5月30日

イエスの愛のいのち。

 

いつもの状態を続けている私はこう言いました。

 

「主よ、あなたは私に何を望んでおられるのですか?あなたの聖なる意志を私に示してください。」

 

そして彼は

「娘よ、私はあなたが私の中にすべてを見出すことができるように、私の中にいることを望んでいます。すべての被造物が私の人間性の中でいのちを持ち、私がすべての被造物に満たされたように、私の中ですべてであることによって、あなたは私にすべての被造物をあなたの中に見出させます。つまり、私と一つになることで、あなたは私にすべてのものに対する償い、満足、感謝、賛美、そして被造物が私に与えるべきものを、あなた自身の中に見出させるのです。神の命と人間の命に加えて、愛は私に第三の命を与え、それは私の人間性の中に被造物のすべての命を発芽させました。これは、私に命を与えながら、私に絶え間ない死を与えた愛のいのちです。それは私を打ちのめし、私を強め、私を辱め、私を高め、私を苛立たせ、私を慰め、私を苦しめ、私に喜びをもたらしました。たゆまぬ努力を惜しまず、何ごとに対しても常に準備が出来ているこの愛のいのちに含まれていないものは何でしょうか? あらゆるもの、すべてがこの中にあります。その命は常に新しく、永遠です。ああ、私はあなたをいつも私の中に置き、あなたの中にすべてを見出すために、この愛のいのちをあなたの中に見出すことをどれほど願っていることでしょう。」
 

 

 

 

 

1905年6月2日

忍耐は忍耐力の糧である。

 

今朝、祝福されたイエスが来られるなり、私にこう言われました。

 

「娘よ、忍耐は忍耐力を養うものです。実際、忍耐は情熱をその場にとどめ、すべての美徳を強化します。そして、忍耐から継続的な生活の態度を受け取ることによって、美徳は不安定さが生み出す疲れを感じません。それは被造物にとってとても簡単なことです。ですから、魂は傷ついたり、屈辱をうけたりしても心を失いません。なぜなら、忍耐はすぐに魂に必要な栄養を与え、より強く安定した忍耐の絆を魂の中に形成するからです。また、慰められ、高められても、無理をすることもありません。なぜなら、忍耐が忍耐力を養うように、魂はその境界を出ることなく、節度の中に身を置いているからです。これに加えて、忍耐は栄養であり、栄養を与えている限り、その人には命があり、死んでいないと言うことができます。同じように、魂に忍耐がある限り、魂は忍耐の人生を楽しむことができるでしょう。」

 

 

 

 

1905年6月5日

十字架は洗礼の泉である。

 

今朝、祝福されたイエスが来られるなり私にこう言われました。

 

「娘よ、十字架、悔い改めは多くの洗礼の泉のようなものです。そして私の受難の思いに浸されたあらゆる種類の十字架は、その苦味の半分を失い、その重さも半分に減ります。」

 

そして彼はあっという間に姿を消しました。私はその場にとどまり、自分の内面である種の崇拝と償いをしました。主は再び戻ってこられこう付け加えられました。

 

「私の人間性が何世紀も前に行ったことを、あなたの中でやり直すのを見ることが私の慰めではありませんか。実際、私がそれぞれの魂に行なうように定めたことはすべて、以前に私の人間性の中で行われたことです。もし魂が私に応えるなら、私が魂のためにしたことを、魂は自分自身の中で再び行なうのです。しかしもし魂がそうしなければ、それは私の中だけで行われたことになり、私は言い表せないほどの苦味を感じます。」

 

 

 

 

1905年6月23日

イエスの人間性と結ばれた者は、イエスの神性の扉の前に立っている。

 

いつもの状態でいたとき、私はイエス・キリストがどのように死なれたのか、そしてイエス・キリストは決して死を恐れることはなかったと考えていました。と言うのも、神と深く結びついている、いや、神に変容しているため、自分の宮殿にいる人のように、すでに安心だったからです。しかし、魂にとっては……ああ、何と違うことでしょう! そんなくだらないことを考えていると、祝福されたイエスがやって来て、私にこう言われました。

 

「娘よ、私の人間性と結ばれた者は、すでに私の神性の扉の前に立っています。なぜなら、私の人間性は魂の鏡であり、そこから神性が魂に映し出されるからです。もし魂がこの鏡の反射の中にいるなら、魂の存在のすべてが愛に変容されるのは当然のことです。なぜなら、娘よ、被造物から出てくるものはすべて、その目の動き、唇の動き、思考の動き、そしてその他すべてのものでさえも、すべては愛であり、愛から生れなければならないものだからです。そして、私の存在はすべて愛なので、私が愛を見出すところならどこでも、私はすべてを私自身の中に吸収し、魂は自分の宮殿にいる人のように、私の内に安全に留まります。それなのに、魂が死に向かう時、すでに私の中にいるのに、私のもとに来ることを恐れることがあるでしょうか?」

 

 

 

 

1905年7月3日

ルイーザの状態に関するイエスの宣言。

 

いつもの状態を続けていると、私は自分の外にいることに気が付きました。そして赤ん坊のイエスを抱いた聖母マリアが、彼にこの上なく甘い母乳を飲ませていました。赤ん坊が母の乳房から母乳を吸っているのを見て、私は赤ん坊を母の乳房からそっと離し、自分も母乳を吸い始めました。私がそうしているのを見て、二人とも私の狡猾さに笑みを浮かべ、私に母乳を飲ませてくれました。そしてこの後、元后は私にこう言いました。

 

「かわいい子を連れて行き、彼を楽しませてください。」

 

そして私は彼を腕の中に抱きました。

 

そうこうしているうちに、外から武器の音が聞こえてきて、主は私にこう言われました。

 

「この政権は倒れるだろう。」

 

そして私は

 

「いつですか?」

 

指先に触れながら、彼はこう付け加えました。

 

「もうひとつ指先。」

 

そして私は

 

「この指先があなたにとってどれほどの長さなのか、誰が知っているでしょう!」

 

しかし主は私のことなど気にも留めず、私もそれを知りたくなかったので、こう言いました。

 

「私に関する神の意志をどれほど知りたいと願っているでしょう。」

 

そして彼は私に言いました。

 

「紙切れはありますか? 私自身があなたについて私の意志を記し宣言しましょう。」

 

私はそれを持っていなかったので、捜しに行って彼に渡しました。そして赤ん坊は書きました。

 

「私は天と地の前で、彼女を生贄として選んだのは私の意志であること宣言する。 私は彼女が魂と肉体を私に捧げたことを宣言し、私は彼女の絶対的な主人であり、私が望むときはいつでも、私の受難の苦しみを彼女と分かち合う。そしてそれと引き換えに、私は彼女に私の神聖へのアクセスを与える。 この『アクセス』において、彼女は罪びとたちのために毎日絶え間なく私に祈り、罪びとたち自身の善のために絶え間ないいのちの流れを引き寄せていることを宣言する。」

 

そして彼は他にも多くのことを書いておられますが、あまりよく覚えていないのでそれらを省きます。

 

それを聞いて私はすっかり混乱し、こう言いました。

 

「主よ、私が不遜な態度を取ることをお許しください。私はあなたが書いてくださったことを知りたくなかったのです。私には、あなたがそれを知っているだけで十分です。私が知りたいのは、私の状態が続くことがあなたの意志なのかどうかということです。」

 

そして心の中で私はこう続けました。

 

「…聴罪司祭が私を従順に召しに来るのが神の意志なのか、それともむしろ、聴罪司祭と過ごす時間は私自身の空想なのか。」

 

しかし私はそれを言いたくありませんでした。あまりにも多くのことを知りたがっているのではないかと恐れ、もし一つのことが主の意志であるならば、他のことも主の意志に違いないと自分自身を納得させていました。そして赤ん坊のイエスはこう書き続けました。

 

「私はあなたがこの状態を続けること、そして聴罪司祭があなたを従順に呼ぶために来ること、そしてあなたが彼と過ごす時間が私の意志であることを宣言する。また、あなたの状態が私の意志でないかもしれないという恐れに捕らわれていることも私の意志である。この恐れと疑念は、あらゆるわずかな欠点からあなたを浄化する。」

 

元后とイエスが私を祝福してくださり、私は彼らの手にキスをしました。そして私は自分の中にいる自分に気が付きました。

 

 

 

 

1905年7月5日

イエスの人間性は神性のためのメロディーである。

 

いつもの状態でいつもの内的行いを続けていると、祝福されたイエスがお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、私の人間性は神性のためのメロディーです。なぜなら、私のすべての行いは多くの鍵盤を形成し、神の耳を楽しませるような、最も完璧で調和のとれた旋律を奏でたからです。そして、内的にも外的にも、私と同じ働きに従う魂は、神性のために私の人間性そのもののメロディーを続けます。」

 

 

 

1905年7月18日

魂は自分の内面を他の人に開いてはならず、聴罪司祭に対してのみ開きなさい。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、聴罪司祭が魂に自分の内面の働き方を明かすとき、彼は働き続ける意欲を失います。そして魂は、聴罪司祭が自分に抱いている目的を知ることで、自分の行動を怠り、神経質になります。同じように、もし魂が自分の内面を他人に明らかにし、自分の秘密を明かせば、魂の意欲は消え去り、魂はすっかり弱まってしまうでしょう。そして、もし魂が聴罪司祭に心を開くときにこのようなことが起こらないとすれば、それは秘跡の力が勇気を持ち、力を強め、その上に封印を置くからなのです。」

 

 

 

 

1905年7月20日

魂が神の意志に忠実でないとき、神はその魂に対する計画を止められる。

 

今朝、私の指導をしてくれた病弱な司祭のために祈りながら、こう考えていました。

 

「もし彼が私の指導を続けていたら、彼は弱っていたでしょうか、それともそうではなかったでしょうか?」

 

そして祝福されたイエスはお出でになるなり私にこう言われました。

 

「娘よ、家の中にある品々を楽しむのは誰ですか? 確かに、その中にいる人たちです。そして、誰かが以前そこに行ったことがあったとしても、現在そこにいる人だけがそれを楽しむことができます。例えば、ある使用人が主人のもとにいる限り、主人はその使用人に賃金を支払い、自分の家にある財産を使わせます。そしてその使用人がいなくなると、別の使用人を呼び、その使用人に賃金を支払い、自分の財産を分け与えます。だから私はそのように行ないます。私が欲しがっているものが誰かによって置き去りにされたとき、私はそれを誰かに譲り、他の人に譲るはずだったものをすべて彼に譲ります。だから、もし彼があなたの指導を続けていたら、あなたの生贄の状態を考えれば、あなたを導いている者の状態に応じた恩恵を享受したはずですから、彼は病弱ではなかったはずです。そしてもし現在の指導者が、健康であるにもかかわらず、彼が望む他のすべてを手に入れられないとしたら、それは彼が私の望むことを完全に行なっていないからであり、たとえ彼がいくつかの恩恵を享受しているとしても、それでも、私のある種のカリスマは彼に相応しくありません。」

 

 

 

 

1905年7月22日

神は働きを見るのではなく、働きにおける愛の強さに目を向けられる。

 

私は私のある種の苦行が出来ないことにいら立ちを感じ、主が私を忌み嫌っておられるので、それを行なうことをお許しにならないように思えました。すると、祝福されたイエスがお出でになり、私に言われました。

 

「娘よ、私を本当に愛する者は、どんなことにも腹を立てず、すべてのことを愛に変えようとします。どんな理由で自分を苦しめたかったのですか? もちろん、私を愛しているからです。そして私はあなたに言います。『私を愛するがゆえに、自分を戒め、私を愛するがゆえに、安らぎを得なさい。 そうすれば、私の前ではどちらも同じ重みを持つことになります。』 どんな行動も、たとえそれが無関心なものであっても、その中に含まれる愛の量に応じてその重みが増します。なぜなら私は作品をみるのではなく、作品にこめられた愛の強さを見ているからです。だから私はあなたを煩わせたいのではなく、いつも平和でいて欲しいのです。というのも、苛立ちや妨害の中で、いつも支配しようとするのは自己愛であり、害を及ぼそうとする敵だからです。」
 

 

 

 

1905年8月9日

平和と動揺の影響。

 

いつもの状態を続けていた私は少し心が乱れていました。そして、祝福されたイエスが来られ、私にこう言いました。

 

「娘よ、安らかで、その全存在が完全に私に傾いている魂は、光の雫を滴らせ、それが私の衣に降り注ぎ、私の装飾品となります。一方、心を乱された魂は、悪魔的な装飾を形成する闇を垂れ流します。そればかりではなく、動揺は恵みの流れを妨げ、善い働きを出来なくします。」

 

そしてこう付け加えました。

 

「もし魂があらゆることに心を乱されるとしたら、自分のことで一杯になっているしるしです。もし魂が自分の身の回りに起こったことに心をかき乱され、他のことには心をかき乱さないとしたら、それは魂が神の何かを持っているしるしですが、埋めなければならない空白がたくさんあります。もし魂の心をかき乱すものが何もないなら、それは魂がすべて神に満たされているしるしです。ああ、動揺は神を拒絶し魂を完全に自分自身で満たしてしまうほどで、魂にどれほどの害を及ぼすことでしょうか。」

 

 

 

 

第6巻(13)に続く

 

 

ヨハナ通信

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相変わら変な文章で申し訳ありません。

きちんとした翻訳は日本でこの本が出版されるのを待ちましょう!

どこかの出版社で出版してくれないかな~(ToT)/

 

 

「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

日本では4巻までしか発行されていないので、これはその続きになります。

外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

こちらになります↓

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ