天国の書 第6巻(10) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第6巻(10)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 10 】

 

1905年2月24日

  謙遜は棘のない花である。

 

1905年3月2日

 イエスはルイーザに彼の意志の鍵を与える。

 

◆1905年3月5日

 十字架の定義。

 

◆1905年3月20日

  真の愛と真の美徳は、その起源を神に見出さなければならない。

 

◆1905年3月23日

 イエスの栄光と満足。

 

◆1905年3月28日

 不安定の影響。イエスと魂との絶え間ない出会い。

 

◆1905年4月11日

 忍耐がいかに永遠の生命の証であり、神聖な生命の成長であるのか。

 

◆1905年4月16日

 苦しみの支配

 

◆1905年4月20日

 この時代において人間はまるで場違いな骨のようなものである。

 魂が情熱を支配しているかどうかを知る方法。

 

◆1905年5月1日

 苦しみに含まれる3種類の復活。

 

 

 

 

J.M.J.

父と子と聖霊の御名によりて。

 

 

 

1905年2月24日

謙遜は棘のない花である。

 

今朝、祝福されたイエスがほんの少しお出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、謙遜は棘のない花です。棘がないからこそ、煩わされたり、刺されたりすることを恐れずに、手に取ったり、握りしめたり、好きな場所に置いたりすることができます。謙遜な魂とはそういうものです。彼女には欠点と言う棘がありません。そして、彼女には棘がないので、人は彼女を好きなように扱うことができます。棘がないので、当然、彼女は刺したり、他人に迷惑をかけることもありません。なぜなら棘は棘を持っている人が与えるものだからです。だから、もし人がそれらを持っていないなら、どうやってそれを与えることが出来るでしょうか?
 それだけでなく、謙遜は自分の視力を強め、澄ませる花です。そしてその澄み切った目で、棘そのものから遠ざかる方法を知っているのです。」

 

 

 

 

 

1905年3月2日

イエスはルイーザに彼の意志の鍵を与える。

 

いつもの状態を続けていると、気が付くと自分の外に出ていて、鍵を手にしていました。長い道のりを歩いていても、時々気が散っても、鍵のことを考えるとすぐにいつも手の中に鍵がありました。この鍵は神殿を開くためのもので、その中には赤ん坊のイエスが眠っていました。私は遠くからすべてを見ることが出来たので、私は急いでそこに行って神殿を開けようとしました。主が目を覚まし、私がそばにいないのを恐れて泣き叫ぶのではないかと思ったからです。それで、さらに急いだのですが、いざそこまで来て、ちょうど上ろうとしたとき、私は自分の中にいる自分に気が付き、気がかりが残りました。

 

しかしその後、祝福されたイエスがお出でになられたとき、私にこう言われました。

 

「娘よ、あなたがいつも手にしていた鍵は、私があなたの手に置いた私の意志の鍵です。そして、鍵を手に持っている人は、それを使って何でもすることが出来ます。」

 

 

 

 

1905年3月5日

十字架の定義。

 

私がいつもより少し苦しんでいると、祝福されたイエスが少しの間お出でになり、私にこう言われました。

 

「娘よ、十字架は弱い者の支えであり、強者の力であり、純潔の種であり、よりどころです。」

 

そう言ってイエスは姿を消しました。

 

 

 

1905年3月20日

真の愛と真の美徳は、その起源を神に見出さなければならない。

 

いつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけお出でになり、私に言いました。

 

「娘よ、神に起源を持たない愛は真の愛とは呼べないし、神に起源を持たない美徳そのものは偽りの美徳です。実に、神に起源を持たないものはすべて、愛でも美徳でもなく、むしろ見かけ上の光が最後には闇に変わるのです。」

 

そして、こう付け加えられました。

 

「例えば、魂のために働き、自らを犠牲にする司祭は神聖なものです。しかし、もし彼が何かを手に入れたり、手に入れたいと望むためにそうするのであれば、その起源は神にあるのではなく自分自身にあり、自分自身のために望むのだから、それは美徳とは呼べません。」

 

 

 

 

1905年3月23日

イエスの栄光と満足。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスが少しだけ来られたので、私は彼に言いました。

 

「主よ、私の状態はあなたの栄光なのですか?」

 

彼は言いました。

 

「娘よ、私の栄光と満足のすべては、ただ、私があなたたちすべてを私の内にもっと望んでいるということだけです。」

 

そしてこう付け加えられました。

 

「すべては魂の自分自身に対する不信と恐れ、そして神への信頼と確信の中にあります。」

 

そう言い残してイエスは姿を消しました。

 

 

 

 

1905年3月28日

不安定の影響。イエスと魂との絶え間ない出会い。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけお出でになり、私は動揺している魂にこう言いました。

「心を乱されたくないと考えてください。それはあなた自身のためだけではなく、それ以上に主への愛からです。なぜなら動揺した魂は自分自身をかき乱すだけでなく、イエス・キリストの心を乱すからです。」

 

後になって私は自分自身に言いました。

「なんて馬鹿なことを言ったのでしょう。イエスは決して心を乱されることはないのに。」

 

そしてイエスはお出でになるなり私に言いました。

 

「娘よ、あなたはでたらめなことの代わりに真実を語ってくれました。実際私は、それぞれの魂の中で神聖ないのちを形成しており、もし魂が動揺すれば、私が形成し続けているこの神聖ないのちも乱されたままになります。これに限らず、完璧に完成することは決してありません。」

 

そしてあっという間に姿を消しました。

 

それから私は、いつものように受難の内的黙想の旅を続け、そして、十字架の道でイエスとマリアが出会った地点に辿り着いたとき、イエスは再びご自分の姿を現し、私にこう言いました。

 

「娘よ、魂もまた私と絶えず出会っています。もし魂が私との出会いの中で、私と結ばれ美徳を実践しているのを見出すなら、その魂は、私のためにとても悲しんでいる私の母に出会ったときに私が受けた悲しみに報いてくれるのです。」

 

 

 

1905年4月11日

忍耐がいかに永遠の生命の証であり、神聖な生命の成長であるのか。

 

愛すべきイエスの窮乏のために非常に苦しんでいた私は、自分に言い聞かせていました。

「主は私に対してなんて残酷なことをなさるのでしょう。私自身、主の善良な御心がどうしてこのようなことをするに至ったのか理解できません。そして忍耐することがこれほどまでに主をお喜ばせするのに、それでも私の忍耐は主の良き御心を動かすことが出来ません。」

 

私があれやこれやとくだらないことを言っていると、突然主がお出でになり、こう言われました。

 

「本当に、私を最も喜ばせるものは魂の忍耐です。なぜなら忍耐は永遠の生命と神聖な生命の成長の証だからです。実際、神が常に古く、常に新しく、不変であるのと同じように、忍耐によって常にそれを行使することによって、魂は古くなり、それを行使する姿勢によって、魂は常に新しくなります。そして魂がそれを行使するたびに、自分でも気づかないうちに、魂は神の中で新しくされ、不変のままになります。忍耐によって、魂は絶えず神聖な生命を自分の内に獲得し、神を得ることによって、永遠の生命で封印されます。 神ご自身よりも安全な封印などあるでしょうか?」


 

 

 

1905年4月16日

苦しみの支配

 

いつもの状態を続けていると、私の愛すべきイエスが、心の内側に釘を刺したご自分の姿を少しだけ見せてくださいました。そして私の心に近づき、その釘で私の心に触れたので、私は死ぬほどの痛みを感じました。それから主は私に言われました。

 

「娘よ、この釘を私の心の奥深くに打ち込み、私に絶え間ない死を与えているのはこの世界なのです。だから正義によって、彼らが私に絶え間ない死を与えるように、私は彼らが多くの犬のように互いに殺し合い、互いに死を与えるのを許すのです。」

 

そう言いながら、主は私に反逆者の叫びを聞かせ、私は4、5日耳が聞こえなくなりました。そして私がひどく苦しんでいると、主はしばらくしてから戻ってこられ、私にこう言いました。

 

「今日は私が王と宣言された椰子の日です。すべての人は王国を熱望しなければなりませんが、永遠の王国を手に入れるためには、被造物が自分の情熱の支配を通して自分自身の統治を手に入れることが必要です。唯一の手段は苦しみです。なぜなら苦しみが支配しているからです。つまり忍耐によって、人は自分の居場所に身を置き、自分自身と永遠の王国の王となるのです。」

 

 

 

 

1905年4月20日

この時代において人間はまるで場違いな骨のようなものである。

魂が情熱を支配しているかどうかを知る方法。

 

私がいつもの状態でいると、祝福されたイエスがほんの少しだけ、まるで人々を罰せられるような動作で来られ、私に言われました。

 

「娘よ、被造物は私の肉を裂き、私の血を絶えず踏みにじります。そして私は、彼らの肉を裂き、地をまき散らすことを許します。この時代、人間はまるで場違いの骨のように、あるべき場所から外れています。そしてそれを元の位置に戻し、再びその中心を戻すためには、それを元に戻す必要があります。

 

それから少し心を落ち着かせてこう付け加えられました。

 

「娘よ、魂は誘惑や人に触れても、それを気にしなければ、自分が自分の情熱を支配しているかどうかを知ることが出来ます。例えば、魂が不純に誘惑されたとします。もし魂がこの情熱を支配していたなら、魂はそれを気にせずに、魂の本質そのものがその場所に留まります。もしそうでなければ、魂は苛立ち、自らを苦しめ、腐った流れが体の中に流れているのを感じます。あるいは、ある人が誰かを嘲笑したり侮辱したとします。もしこれが自尊心という情熱を支配していたとしたら、魂は平穏でいられます。もしそうでなければ、魂は自分の中に炎、憤り、プライドを感じ、それが魂を完全にひっくり返します。実際、情熱がそこにあるとき、その場で、それが表に出てきます。そして他のすべても同様なのです。」

 

 

 

 

 

1905年5月1日

苦しみに含まれる3種類の復活。

 

私がいつもより少し苦しみ続けたとき、私の良きイエスが私にこう言われました。

 

「娘よ、苦しみには3種類の復活があります。第一に、苦しみは魂を再び恵へと上昇させます。第二に、苦しみが増すにつれて、美徳が集まり、魂は再び神聖さへと上昇します。第三に、苦しみが続くと、美徳が完成し、美徳が輝きで飾られ、美しい冠が形成されます。そして冠をかぶった魂は、地上の栄光と天の栄光を現すために再びよみがえるのです。」

 

そう言ってイエスは姿を消しました。

 

 

 

 

第6巻(11)に続く

 

 

ヨハナ通信

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相変わら変な文章で申し訳ありません。

きちんとした翻訳は日本でこの本が出版されるのを待ちましょう!

どこかの出版社で出版してくれないかな~(ToT)/

 

 

「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

日本では4巻までしか発行されていないので、これはその続きになります。

外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

こちらになります↓

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ