天国の書 第6巻(2) | それゆけだんごむし!ーカトリック

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第6巻(2)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 2 】

◆1904年1月6日

人類はみな一つの家族です。誰かが善い行いをしてそれを神に捧げるとき、人類の家族全体がその捧げものに参加し、あたかも全員がそれを捧げているかのように神の前に現れます。

 

◆1904年2月7日

神がご自分のすべてを魂に注ぐことが出来るように、自分のすべてを神に捧げる魂を見つけることはどれほどむずかしいことなのか。

 

◆1904年2月8日

イエスの特質の一つは苦しみです。イエスの最も聖なる意志に生きる者にとって煉獄は存在しません。

 

◆1904年2月12日

魂がイエスの人間性と同一視されるとき、魂の働きは何一つ分散されることはない。従順と聖人たちは、ルイザが生贄として地上に残ることを望んでいる。

 

◆1904年2月21日

ルイーザが死ぬことを許された場合の約束。

 

◆1904年2月22日

生贄を持つという偉大な贈り物

 

◆1904年2月12日

ルイーザは聖カタルド教会について司祭たちと話す。

 

 

 

J.M.J.

父と子と聖霊の御名によりて。

 

 


 

 

1904年1月6日

人類はみな一つの家族です。誰かが善い行いをしてそれを神に捧げるとき、人類の家族全体がその捧げものに参加し、あたかも全員がそれを捧げているかのように神の前に現れます。

 

いつもの状態でいると、祝福された赤ん坊のイエスが来られ、私の腕の中に身を置き、小さな御手で私を祝福した後、こう言われました。

 

「娘よ、人類はみなひとつの家族なのだから、誰かが善い行いをして私に何かを捧げる時、人類の家族全体がその捧げものに参加し、あたかも全員がそれを捧げているかのように、私の前に現れます。例えば、今日東方三博士が私に贈り物を捧げたとき、私は彼らの中にすべての人類の世代を同席させ、すべての人は彼らの善い行いの功徳にあずかりました。彼らが最初に私に差し出したのは黄金であり、私はその見返りとして彼らに知性と真理の知識を与えました。しかし、私が今、魂からどの黄金を欲しいか知っていますか?物質的な黄金ではなく、精神的な黄金です。つまり、彼らの意志の黄金、彼らの愛情の黄金、彼らの願望の黄金、彼ら自身の趣向の黄金、人間の内面全体の黄金です。これは魂が持っているすべての黄金ですが、私はそれをすべて自分のものにしたいのです。今や魂が自らを犠牲にし、悔い改めることなく、これを私に捧げることはきわめて困難です。このように、没薬は電線のように人間の内部を結び付け、より輝かせ、様々な色彩を与え、魂にあらゆる種類の美を与えるのです。ただこれがすべてではありません。香りやそよ風のように、魂の内側から吹き出してくるような色彩と新鮮さをいつも生き生きと保っている人が必要なのです。その人が捧げたものより大きな贈り物を与えても、それを得る誰かが必要なのです。また、受け取る者と与える者を自分の内面に住まわせ、その者と絶えず会話し、絶え間なく交流する人が必要です。では、誰がこれらすべてを行なうのでしょうか?それは祈りであり、特に内なる祈りの精神は、内的な働きだけでなく、外的な働きも黄金に変える方法を知っています。そしてこれが香りです。]

 

 

 

1904年2月7日

神がご自分のすべてを魂に注ぐことが出来るように、自分のすべてを神に捧げる魂を見つけることはどれほどむずかしいことなのか。

 

私は先月、多くの苦しみの中で過ごしていたので、書くことが出来ませんでした。そして私が非常に弱く、苦しみの中にいると感じ続けていると、書くことが出来ないのではなく、書きたくないのではないかという恐怖がしばしば浮かんできて、言い訳として「私は書けない」と言ってしまいます。確かに私は大きな嫌悪感を感じており、書くために多大な努力をしなければなりませんが、従順だけが私を征服することができます。そこで、疑いを取り除くために、すべてではなく、覚えているいくつかの言葉だけを書いて、本当に出来るのか、出来ないかを確かめることにしました。

 

ある日、私が体調を崩していたとき、主が私にこう言われたことを覚えています。

 

「娘よ、もしこの世から音楽がなくなったらどうなるのでしょう?」

 

そして私は

「主よ、どのような音楽が止むべきでしょうか?」

 

そして主はこう付け加えられました。

「私の愛する人よ、あなたの音楽です。実際、魂が私のために苦しみ、祈り、償い、賛美し、絶えず感謝するとき、これは私の耳に絶え間なく響く音楽であり、地上の咎を聞くことから私を遠ざけ、ひいては相応な懲らしめから私を遠ざけます。それだけでなく、それは人間の心の中の音楽であり、彼らがもっと悪いことをしないようにするためのものでもあります。では、私があなたを連れて行けば、音楽は止まないのですか?私にとってそれはどうでもよいことです。なぜならそれは地上から天国に運ぶことに他ならないからです。そして地上からそれを得る代わりに、私は天国でそれを得るでしょう。しかし世界はどのように続いていくのでしょうか?」

 

その時私はこう思いました。

「これらは私を連れて行かないためのいつもの口実だ。世界には神のために多くのことをしている善良な魂がたくさんいて、その中で私はおそらく最後の位置を占めているに過ぎない、それなのに、私を連れて行けば音楽が止むと言うの?神のためにもっと善いことをする人は沢山いるわ!」

 

そんなことを考えていると、主が閃光のように現れてこう付け加えました。

 

「娘よ、あなたの言うことは本当です。私のために多くのことをしてくれる善良な魂は沢山います。しかし、私が自分のすべてを注ぐことが出来るように、私にすべてを捧げてくれる人を見つけるのは、どれほど難しいでしょう。自尊心、愛情、たとえそれが聖なる人であっても、少しだけ自己愛が残っている人もいます。ちょっとした虚栄心もあります。地上への愛着を持っている人もいれば、興味を持っている人もいます。要するに、ある人はちょっとしたことを、ある人は別のことを…すべての人が自分自身の何かを保ち続けているので、これが彼らの中ですべてが神聖であることを妨げているのです。だから、彼らから来るものは完全に神聖なものではないので、彼らの音楽は私の聴覚や人間の心にそのような効果をもたらすことは出来ません。それゆえ、彼らの多くの行いは、そのような効果を生み出すこと出来ないし、自分のために何も持たず、完全に自分自身を捧げる者の小さな行いほど、私を喜ばせることもできないのです。」

 

 

 

1904年2月8日

イエスの特質の一つは苦しみです。イエスの最も聖なる意志に生きる者にとって煉獄は存在しません。

 

ある日、私が苦しみを感じ続けていたとき、聴罪司祭が私の苦しみを和らげるために、私が苦しんでいる部分に触れてくださるよう、主に祈っているのを見たことを覚えています。

 

そして祝福されたイエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、あなたの聴罪司祭はあなたの痛みを和らげるために、あなたに触れて欲しいと望んでいます。しかし、私の多くの特質の中には痛みもあります。もし私があなたに触れれば、あなたの痛みは減るどころか増すかもしれません。実際、私の人間性が最も喜んだのは苦しみであり、今もそれを愛する人々に伝えることを喜びとしています。」

そして主は私に触れ、さらに痛みを感じさせようとしているように思われました。

 

そこで私はこう付け加えました。

 

「私の甘美なる善よ、私自身については、あなたの最も聖なる意志以外は何も望みません。私は自分が苦しむか楽しむかには目を向けません。あなたの意志が私のすべてです。」

 

そして彼はこう付け加えました。

「そしてこれが私の望みであり、あなたに対する私の計画であり、これだけで十分です。これこそ被造物が私に捧げることのできる最大かつ最も名誉ある崇拝であり、被造物が創造主である私に捧げるべきものです。そして霊魂がそうするとき、霊魂の心は私の心の中で生き、考えていると言えます。霊魂の目は私の目の中にあり、私の目を通して見ています。霊魂の口は私の口を通して話します。霊魂の心は私の心を通して愛します。霊魂の手は私の手の中で動き、霊魂の足は私の中を歩きます。『あなたは私の目であり、私の口であり、私の心であり、私の手であり、私の足です。』と言うことが出来ます。そして同様に霊魂はこう言うことが出来ます。『イエス・キリストは私の目であり、私の口であり、私の心であり、私の手であり、私の足です。』この結びつきの中にいることは、意志の一致だけではとどまらず、霊魂が死んだとき魂には浄化しなくてはならないものは何も残っていません。だから、煉獄は霊魂に近づくことが出来ないのです。なぜなら煉獄は、完全であろうと部分的であろうと、私の外に生きる人々に関わるものだからです。」

 

 

 

1904年2月12日

魂がイエスの人間性と同一視されるとき、魂の働きは何一つ分散されることはない。従順と聖人たちは、ルイザが生贄として地上に残ることを望んでいる。

 

いつもの状態を続け、さらに苦しみが増すと、祝福されたイエスが来られ、その人間性のあらゆる部分から多くの光の滴が出て来て、私の体のあらゆる部分に触れられました。そして私が受け取ったこれらの滴からも、他の多くの滴が私自身から出て来て、それが主の人間性に触れました。そうこうしているうちに、私は大勢の聖人たちに囲まれていることに気が付きました。

 

「もし主が奇跡を起こさなければ、彼女はもう生きることは出来ないでしょう。なぜなら彼女は重要な体液が不足しているからです。彼女の血液の循環はもはや自然ではありません。だから、自然の法則に従えば、彼女は死ななければなりません。」

 

そして彼らは、私が生き続けるために奇跡を起こしてくださるように祝福されたイエスに祈っていました。主は彼らに言われました。

 

「滴のコミュニケーションは見ての通り、彼女は行なうことすべてのこと、自然なことでさえも、私の人間性と同一視されることを意味します。そして私が魂をこの地点に到達させるとき、魂と肉体の両方が行なうすべてのことのうち、何一つ分散されることはなく、すべてが私の中に残ります。一方、もし魂が私の人間性と完全に同化していない場合、魂が行なう多くの働きは水の泡となってしまいます。でも、私が彼女をここまで成長させたのだから、私が彼女を連れて行かないわけにはいかないでしょう?」

 

彼らがそう言っている間、私は自分に言いました。

「みんな私に反対しているようだわ、従順は私が死んでほしくない、彼らは私を連れて行かないように主に祈っているけど、彼らは私に何を求めているのかしら? なぜ彼らが私をほとんど強制的に、私の最高の善から遠く離れたこの地上に置こうとするのか分からないわ。」そして私は苦しんでいました。

 

そんなことを考えていたら、イエスがこう言われました。

 

「娘よ、自分を苦しめないで。この世の中の物事はとても悲しく、それらはますます悪くなります。もし私が私の正義を解放するときが来たら、私はあなたを連れて行きます。そうしたら、もう誰の言うことも聞きません。」

 

 

 

1904年2月21日

ルイーザが死ぬことを許された場合の約束。

 

至聖なる三位一体、天の元后、至聖なるマリア、私の守護の天使、そして全天界の宮廷の御前で、そして私の聴罪司祭に従うために、もし主がその無限の憐れみによって、私を死なせてくださる恩寵を私に与えてくださるなら、私が天の配偶者と一緒にいることに気付いたとき、私は教会の勝利と教会の敵の混乱と回心のために祈り、嘆願することを約束します。我が国においてカトリックが勝利を収め、聖カタルド教会が礼拝のために再開されるように。それは私の聴罪司祭が、聖なる精神の自由と、私たちの主の真の使徒としての神聖さをもって、いつもの苦しみから解放されるために。そして、もし主が許してくださるなら、少なくとも月に一度は主の所に行き、天国のことや彼の魂の善に関わることについて話し合おうと思います。

私はこれらすべてを約束し誓います。

 

 

 

1904年2月22日

生贄を持つという偉大な贈り物

 

今朝いつもの状態でいた私は、ほんの少しだけ祝福されたイエスを見るとともに、苦しんでいる人々も見ました。私はイエスに、彼らの代わりに自分が苦しむ犠牲を払ってでも、彼らがそれらの苦しみから解放されるように祈ったところ、イエスは私にこう言われました。

 

「生贄である今、自分を苦しめたいなら構いません。なぜなら生贄が私のところに来るとき、あなたを取り囲む人々、あなたの国、そして諸国でさえも、虚無を目の当たりにすることになるでしょう! ああ、彼らはこの喪失を通して、私が彼らに生贄を与えることによって、彼らに与えた偉大な恩恵を知るでしょう!」

 

 

 

 

1904年2月12日

ルイーザは聖カタルド教会について司祭たちと話す。

 

これから書こうとしているのを書き忘れていました。これは確かなことではありませんが、今は従順にしたがうことにします。しかし不確かです。なぜならそれは、主がいらっしゃらなかったからです。

 

私は自分の外にいて、数名の尊敬すべき司祭のいる教会の中にいるようでした。また、煉獄の霊魂や聖なる人々の魂も、聖カタルド教会について話し合い、ほぼ確実にそれが手に入るだろうと言いました。

 

それを聞いて私はこう言いました。

「これはどういうことなのでしょう?先日、教会が負けたという噂がありました。それで、法廷を通してそれを手に入れることが出来ませんでした。町議会も渡したがらないのに、あなたはそれが手に入ると言っているのですか?」

 

彼らはこう付け加えました。

「これらすべての困難にもかかわらず、決して失われたわけではありません。たとえ彼らがそれを打ち倒すために手を置くところまでに至ったとしても、それでも失われたとは言えません。と言うのも、聖カタルドは自分の教会を守るすべをよく知っているからです。しかしこんなことになったら、コラートがかわいそうです!」

 

こう言いながら彼らは繰り返しました。

「彼らは最初のものを奪いました。王冠をかぶった貴婦人はすでに彼の家に運ばれています。あなたは聖母の前に行き、聖母にこう祈りなさい。恩寵を始めたのだから、教会はその恩寵を全うするでしょう。」

 

私は祈りに行くために教会を出ましたが、そうしているうちに、自分の中にいることに気が付きました。

 

 

第6巻(3)に続く

 

 

相変わら変な文章で申し訳ありません。

きちんとした翻訳は日本でこの本が出版されるのを待ちましょう!

どこかの出版社で出版してくれないかな~(ToT)/

 

 

そして、今さらですが、「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

日本では4巻までしか発行されていないので、これはその続きになります。

外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

こちらになります↓

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ