「うん‥。ちょっと‥。走ったら転んじゃった。ハハ、私ドジだから‥。」

「暗かったし、やっぱり一緒に行けばよかった。そう言ったのに。」

「別に、コンビニくらい‥。」
隠し事がないとは言わせない。何故‥、走った?


私はおもむろに手を伸ばし、梨華の足首をささげ持った。


「今度から、絶対一緒に行くから。」


紅く、滲んだ傷はまだ、乾き切っていない。見つめているうちに、自然と唇が吸い寄せられた。


梨華の命、そう言って良いと思われる誰よりも細く、そして綺麗に伸びた足。私が実際こう思っていると知ったら、彼女は果たして怒るだろうか?
こんな小さな傷ひとつ、許す事ができない。


あの日がバイトに出た最後の日だったから、店内の雰囲気とか、客層とか、細々としたところまで、本当に良く覚えている。

スピーカーから漏れる重いギターの音。そこそこ入っていた客の、拡散した喋り声。それらは混じり合い、膨らんだ波のような層を構成する。更にその上部には煙草の煙が薄い雲となって、天井付近に澱んでいるのだった。


普段真面目なバーテンは随分機嫌が良かったのか、アルコールを注ぐ合間に自分もグラスをあおっていた。照れて、シェイカーを嫌う彼が、おどけて作った綺麗なカクテル。くわえ煙草で出されたグラスをテーブルへと運ぶ途中、私はそれを耳にしたのだ。


客の年齢層がいつもより若干高めだったから、はりきった様子の2人の服装は余計に目立って映った。大人びたミュール。さんご色の爪。あどけさが残る口元は多分、高校生‥?
トレイを持って横を通り過ぎる瞬間、なにげに私がチェキを入れた瞬間だ。


結婚するんだってね、ヤグチ。
聞いた聞いた。


囁き交わされる感心の薄そうな声が、私の耳へと届いた。


マジ?
びっくりしてバランスを崩しそうになったけれど、私はなんとか持ちこたえた。運動神経の良い私だけあって、酒はこぼれずに済んだ。早く梨華に言わなくっちゃ。足早に歩く。


「ウソ?」
カクテルを出した帰り、直行したキャッシャーデスクで、梨華は目を丸くした。
サンダルを履いた足を、梨華はきっちりと組んでいたから、くるぶしにあるべき傷は、ちょうど私から見えなかった。

「わかんないけど。そう話してた。」
肩ごしに私は、高校生とおぼしき先程の2人を、視線のみで梨華に示す。
なにげない風を装い、その先へ瞳を巡らす梨華。


「あ、」
梨華が小さな声を上げた。
「あの2人、知ってる‥。何回か、矢口さんと一緒に来てた‥。」
「そうなの?じゃあ本当に結婚するのかな、矢口さん‥。」

梨華の視線は動かない。彼女へ向けていた視線を私も例の2人組へと、そうと気付かれないように注意深く戻した。
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