『彼』について話す母と、写真の母の表情が、まるで恥じらっているみたい。全く同じでした。圧倒的な幸福に、じっと耐えているような。ある種のかなしみさえも換気させる微笑。


誰にも言ってはダメ。ママと梨華の秘密よ?
『彼』の事を話した後、決まって母は言ったんです。


香水と化粧品の大人びた匂い。
むせそうになりながらも私は、あまりに可憐な母と、強い目をした隣の少年にいつまでも魅入っていました。
自分もいつの日か、こういうふうになるのか。
そう考えて、少し興奮しました。


それ程までに愛し合っていた吉澤さや造と、母・なつみが何故別れ、どのようないきさつから、それまで私が父と思っていたあの人と結婚するに至ったのか、今となっては解らないし、調べることも出来ません。
ただ、私の記憶に残っているのは、父が(実際は疑問なのですが便宜上こう呼びます)あたかも崇拝でもするように、母を愛していたという事。


父と母は、仲の良い夫婦でした。いつも微笑んでいる母と、頼もしくて威厳のある父。
私は常に羨望の目で見られていましたし、私自身、それを自慢に思っていました。
実際母が生きていた頃、彼は良い父親だったのです。忙しかったけれど、家族に対するサービスのようなものに、彼は力を惜しみませんでした。


まだ父が、秘書だった頃。ついていた代議士の選挙を目前に控えた夏。


定例だから。
ひとことそう言った父は私達を海水浴に連れて行ってくれました。父の多忙さを知っていて、遠慮した母と私の言葉など、一向に聞き入れず。
ギリギリまで父の仕事が入っていたので、私達が伊豆に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまいました。着替えもせずにそのまま運転して来た父のワイシャツ。
背中と腕に皺がきつく寄っていた事を、今でもはっきり覚えています。


ルームサービスで夕食を済ませて、誰もいない夜の海岸。
私達は3人で、すいか割りをしました。
入り江の向こう側に時々上がる花火の煙が、こちらの浜まで微かに匂って来ていました。
堤防の内側にはみやげもの屋が、びっしりと、並んでいました。
極彩色のネオンが淡く届いて、夢のような色に、砂浜が染まっていました。


『彼』の事を母が、最後に私に語った時。私が小学校に上がったばかりの頃だったと記憶しています。


「ほんとうは、もっと大きな秘密があるの。それは、あなたには辛い事かも知れないけれど‥。でもママ、後悔はしていないの。あなたが大きくなったら、きっと話すわ。」


結局。その「もっと大きな秘密」を母の口から直接聞く日は、とうとう来ませんでした。
例えばそれが、私の出生にまつわる事と仮定します。
すると父が、少し不憫に思えました。


お前の母さんは俺を許してくれなかった、父は私にそう言いました。
だからと言って彼が私にした事を許すつもりなど毛頭ないんですけど。
それはともかく。
私が父の子ではないと父が知っていたとしても、あるいは逆に知らなかったとしても。
父が可哀想であることに、結果は、変わらないのです。


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