私よりも早く、梨華の方が参ってしまった。不眠は等しく彼女の上にも訪れていたというのか。
私は気づいてやれなかった。ああ‥、そう言えば食べているところをほとんど見なかった‥。


「お前達はさあ、一体どうしたっていうんだよ‥?」
揃って呼ばれたオーナーの部屋。彼は当惑した声を出した。吸いかけのまま放置された煙草が灰皿の中で、今、燃え尽きようとしている。
「石川は倒れちまうわ‥、吉澤は死人みてえな顔してやがるわ‥よぉ。」
「すみません‥。」
私は力無く謝った。梨華は横で黙っていた。


気丈にも笑っていた梨華が、フラフラとしゃがみ込むのを目にした瞬間、疲れた体も忘れて私は反射的に走り寄った。誰よりも早く。声を出す事が億劫で、私が黙って抱え起こすと、覗き込む無言の視線から、梨華はすぐに瞳を逸らす。
「ちょっとした貧血‥。大丈夫だから‥。」
細い二の腕を掴んで私は彼女を支えていたが、梨華はそう言ってやわらかく逃れた。


「とにかく、」
オーナーは言った。
「今日はもう上がっていいから。ゆっくり休んで、2人とも、体調をなんとかしろ。」
口調は厳しかったけれど、いたわりが感じられた。
気を抜いたら泣いてしまう。優しくされたら特に。
「はい‥。ありがとうございます‥。」
力無く立ち上がった。梨華はもう笑っていなかった。


部屋に戻った。ベッドに浅く腰掛けて、梨華は窓を見上げている。ずっと続いている雨。


自分の感情に精一杯になって、梨華を気づかう余裕がなかった。可哀想な自分を憐れむことに無我夢中の私は、それ以外のものが見えなかった。完璧な笑顔に騙されていたのは私。梨華の仮面、唯一その存在に気づいていたこの私‥!


クローゼットからヤッケを取り出した。フードを被って、ポケットに携帯をしまう。例のバッグから2枚程、一万円札を抜き取った。


「出かけるの‥?」
「うん‥。」
やっと梨華が私に、私だけに向けて口を開いた。まるで随分長い間、声を聞いていなかったみたい。そう漠然と感じた。
「私がここにいたら、りかっちは‥、眠れないでしょう?‥だからどっか行く。」
「‥雨だよ?」
「大丈夫。少しお金、持って行くね。」
「そう‥。」


梨華が辛そうな顔に見えたが、私の希望的な観測かもしれない。
「でもすごく、疲れているんでしょう?」
「私がどれだけ強いか、りかっちはまだ知らないんだよ。心配しないで。最悪、ホテルにでも泊まる。」
財布をおおげさに叩いて見せる私。不安げに見上げる梨華の瞳。そんな目で見ないで。


切なさに一瞬逸らしてしまった視線を、私は再び梨華にもどした。
「明後日、海に行く日だよ?飯田さんたちと。りかっちも行くでしょう?迎えに来るよ。」
私の問いに答える代わりに、梨華はただ笑った。私もそれ以上突き詰めようとは思わなかった。


「気をつけて‥。ね。」
「うん‥。」
玄関に向けて向き直った私。梨華の声に振り返らず答えた。


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