今日は1人休んでいるので、フロアの担当は私ともう一人しかいない。
いつもどおり3人いれば、この店はたいして忙しくもないのだけれど、やっぱり一人とは言え抜けた穴は大きい。できあがった飲み物がカウンターにいくつか並んでいた。バーテンは普段親切で面倒見の良い男だったけれど、そのせいで今日は気が立っているようだ。
「ホラ、ひとみちゃん。早く行って。私なら大丈夫だから。」
「‥うん。」
梨華に上目遣いで促されて、私は渋々返事をした。


深夜を過ぎ、店が一番盛り上がりを見せる時間に、その事件は起こった。
慌ただしくフロアを飛び回る私の元に、例の気のいいバーテンが早足で近寄って来たのだ。
「おい、お前ら、ちょっと隠れとけ。」
バーテンは普段カウンターから出る事がほとんどない。抑えてはいるが緊張した声と、こわばった表情からただならぬ気配を感じた。
「なんですか?どうしたの?」
「警察だよ、ケーサツ。今入り口にいる。お前ら未成年だろ。早く行け。」
その言葉を聞いた途端、私の目の前が一瞬暗くなった。警察‥!動悸が激しくなり冷たい汗がどっと吹き出す。警察。私達を、捕まえに‥!?


「おいっ!」
肩を揺すられて我に帰った。慌ててレジを振り返ったが梨華はいない。
「あいつなら先に行かせたよ。トイレにいるから、早く!個室でカギでも閉めとけ!」


梨華が殺した父親を私が埋めてから、およそ4ケ月‥。
私達の失踪についてメディアは、一度小さく報じただけで、それ程大きく取り上げなかった。それ以降も新聞とかニュースとか、随分気を配ってはいたが、それらしい報道は何もなかったはずだ。しかし警察はおおむね情報を隠すものという事も常識として知っている。すると、とうとう死体が見つかったのか?


トイレのドアを開けると、顔面を蒼白にした梨華がひとりきりで待っていた。
暦の上では春ということになるが、朝と夜は未だずいぶん冷え込む。タイル張りのトイレももちろん例外ではなかった。あまり長いこと居たくはないけれど、店の通用口も抑えられているようだ。


「ひとみちゃん‥!」
追い込まれた瞳の梨華は、声がはっきりと震えていた。極度の緊張と、気温の低さ。かわいそうに。風邪をひいているのに‥!そう思ったらなんだか無性に腹が立ったが、どうすることもできない。舌打ちしたい気持ちを抑えて私はカーディガンを脱ぎ、梨華の肩からかけてやった。
「大丈夫、きっと。普通の取り締まりだよ。クスリやってる人多いし、ココ。」
ともすれば崩れそうになる自分自身に叱咤して、たとえ根拠のない事を言っても梨華を安心させたかった。いつになく取り乱した梨華は聞く耳を持とうとしない。
「イヤ、今はイヤ!捕まりたくないの、私!」
「だから大丈夫だって。私がついてるってば!」


大騒ぎした割に、結末はなんともあっけなかった。30分も過ぎた頃、もうひとりのウェイトレスがやって来て、警察が去ったことを告げたのだ。
私が言ったでたらめは予想に反して現実となり、常連の2人が薬物所持の現行犯で逮捕されたそうだ。その2人は普段から見境なくあれこれと手を出していたから、当然と言えば当然だけれど、聞いたところによると誰か密告した人物がいるらしかった。


とりあえず危機を脱したと思った私は息を吐き出してほっと胸を撫で下ろした。けれども梨華はまだ何ごとか考え込んでいる。それが少し気になったけれど、ともかく梨華を連れて私はトイレを出た。寒すぎるのだ、ここは。私に手をひかれ通路をフロアへ歩く途中、もともと体調が悪かった梨華はとうとう倒れてしまった。ポツリと小さな声でその一言を呟いて。


その日、朝陽が顔を出した頃、私はようやく仕事を上がって、鉄だかアルミだかで出来た階段を一足飛びにカンカン上がって梨華の眠る部屋へと戻った。薄暗い店内に慣れた視線は昇りかけの太陽の、ごく柔らかな光線にも敏感に反応する。建物の外につけられた階段を私は顔を顰めながら昇ったけれど、それでも全体に薄蒼く他の時間帯よりも湿気をやや多めに含んだ空気がピリピリ冷たく清々しかった。吐き出す息は未だ白い。どこか遠くの方で鳥の鳴く声が聞こえたが、その姿はとうとう発見できなかった。


安倍さんの行動は意外だった。


警察の登場でもともと体調の悪かった梨華は心身の均衡を崩して倒れてしまった。暖房がイマイチ届かずにしんしんと冷え込む通路から、梨華の腕を肩にかけ、なかば引きずるようにしてフロアへと戻った私は、早退させてもらうべくオーナーへ掛け合ったのだけれど、普段親切な彼は果たして渋面を浮かべたのだった。警察が帰って店はいつもどおりの賑わいに戻っている。そのうえ今日は従業員が足りない。


「そうですよね‥。」
息を吐いた私は梨華を振り返った。
気を失った直後に一度意識を取り戻したけれども、彼女は今、フロアの隅の比較的静かなソファに体を預け、青い顔で再び眼を閉じてしまっている。それにしても店内は空気が良いとは言えず、切れ目のない喧騒にしたって病人には良くないに決まっていた。


「そしたらとりあえず、りかっちを部屋に寝かせて、またすぐに戻って来ます。」
「ああ。そうしてくれないか。悪いな。」
右手を顔の前にかざしてオーナーがそう言うと、シェイカーを振りつつもチラチラとこちらを伺っていたバーテンが心配そうに声をかけた。
「お前、大丈夫か?手伝おうか?」
「ううん、平気。注文けっこう詰まってるじゃないですか。」
それはとても嬉しかったのだけれど、私は断わって笑った。彼の前にもまた空のグラスがいくつも並んでいて、酒が注がれるのを今や遅しと待ちわびているのだ。


相変わらず心配顔のバーテンが不安そうに見守る中、店を出た私は梨華をおぶって階段をゆっくり上がった。梨華は軽かったし、こう見えて私もかなりの力持ちだからそんなにツラくもなかったけれど。けれどやっぱり息は切れるのだった。
ハァハァと背負った梨華の速くて浅い呼吸を耳元に感じながら、私の呼吸の間隔もだんだん短くなっていって、それは一体どっちの物なのかそろそろ区別がつかなくなってきた頃、一歩一歩踏みしめるように昇っていた私の足元をサッと一つの影が覆った。


不思議に思ってなんとなく顔を上げた私の視線の先、ちょうど2、3メートル上のおどり場のところ。そこに安倍さんが立っていた。
「もっと早く来ると思ってた。こんなに待つんだったら、上着持ってくればよかった。」
少しも笑わずにそう言い切る安倍さんは、階段の上で月と街灯に照らされ、シアン色に染まった姿は、幽かに揺れるそのスカートも、そして安倍さん自身も、限りなく透明に近い希薄な水影のようだった。

「安倍さん‥、どうして?」

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