人の気配がしたのは女子トイレの方。少し様子を伺ってから、えい。とドアを開けると、果たしてそこにいたのは安倍さんだった。
「あ、来てたんだ‥。気付かなかった。」
そう思った直後他に2人、女のコの姿も目に入った。見覚えのある2人は一瞬固まっていたけれど、私が視線を向けると気まずそうに顔を見合わせた。
安倍さんは鏡を背に追い詰められるような格好で立ち、その正面に例の、さっきコイバナをしていた2人連れ。先程振られた方の彼女とは通路ですれ違ったが、あの時もう一人は安倍さんを呼びつけに行ってたんだろう。そして2対1で(だいぶ一方的な)ケンカ。おおかたそんなところか。安倍さんは醒めた顔をして、ずっと口をつぐんでいる。
私が一歩、足を踏み出すと、2人のうち慰め役の方が動揺した声を出した。
「‥従業員が何の用?」
「あ。ちょっと手を洗いに。」
実際私の手は、先程矢口さんのテーブルを掃除したので、ベトついて気持ちが悪かった。答えながらちらりと安倍さんに目をやると、彼女は下を向いたまま微かに笑いを堪えていた。
あからさまに訝しさを表情に出す素直な2人組。それらを無視し、私はつかつかと水道へ歩いた。蛇口をひねって水を出した私は、ソープを押し出してゆっくりと手を洗う。そうしているうちに2人は諦めたのか、慰め役の方がキイキイと耳障りな声で言った。
「つうかテメー、今度やったらマジ許さねえからな!」
強烈な捨てゼリフを残して2人が去って行くと、安倍さんは我慢できなくなったのか、とうとう声を出して笑った。その声は多分にヒステリックだった。
時間をたっぷりかけて手を洗った私がフロアに戻ると、梨華と矢口さんがカウンターに座っていた。店内を見渡したけれど、あの2人連れの姿はない。どうやら帰ったようだ。
「あ、ひとみちゃん。どこ行ってたの?」
隣の席についた私に梨華がドリンクを手渡す。薄緑色の液体はよく冷えて、グラスの外周に透明な水滴をつけている。メロン味を期待した私だが、予想に反しそれはキウイだった。
「うん。ちょっとトイレ。手洗ってきた。矢口さん、お友達はいいんですか?」
私は矢口さんがいたテーブルを振り返った。私とも多少顔見知りだけれど、あまり言葉を交わしたことのない男女数人のグループは、もはや意識を朦朧とさせ、中にはだらしなく開けた口から涎を垂らす者までいる。酒以外のモノもヤった。明らかにそんなかんじだ。
「ああ。だってアイツらつまんないんだもん。バカでウザいし。」
さっき一緒にいる時、あれほどまめまめしく皆の世話を焼いていた矢口さんは手のひらを返したように冷たい口調。
「またまた。そんな事言って。」
「どーだっていいよべつに。」
冗談と思った私が笑って返すと、カウンターに誰かが忘れて行ったライターを、矢口さんは拾い上げて弄んだ。
「ねえ、今トイレ行ってたんならさあ‥。」
カチ。
突然、思いついたような顔をして矢口さんはライターをつけ、蒼く小さな火を私の顔の前にかざした。
「アイツ、囲まれてたでしょ?」
私は眩しさに思わず目を細めた。ついさっきまで退屈に無表情だった彼女の瞳は今、炎のむこうで愉快そうに煌めいている。
「え‥?」
目を見開いた私がしばらく言葉につまっていると、とりすました声の梨華が聞いた。
「アイツって?」
ふふ。
「ア・ベ・さん。」
弾むような口調でそう言った矢口さんは、ライターをフッと吹き消した。
夜明けを待たず客はその日早めに引ききり、フロアの隅では帰りを意識し始めた他の従業員がそわそわしだした。
朝陽が昇る直前、仕事を終えた私達は階上の部屋へと戻ったが、私の頭の中から安倍さんの笑う姿が消えない。けたたましく響いた高い声は、あかるすぎてどこか悲痛。
「人のものを取るのが趣味なんじゃないの?」
矢口さんは言っていた。
確かに安倍さんは人目をひく。白くて透き通るような肌。真直ぐで柔らかそうな髪。一見かわいらしい少女のようなその顔は、じつは相当整っている。よく男の人に声をかけられているのも知っているし、常連客の間で賭けの対象として話題に上がっているのも度々聞いた。つまり落とせるか、どうか。気まぐれな彼女の行動は、男を含む数人から恨みを随分かってもいるようだけれど、つきまとう黒い噂(パトロンがあっち関係の人だとかどうとか)のせいで、実際に手を出す者はいないようだ。
「ヤクザの愛人ねえ‥。」
ソファに足を投げ出した私がつい口に出して呟いたので、ベッドで雑誌をめくっていた梨華は顔を上げて私を見つめた。
「安倍さんのコト、考えてたの?」
「うん‥。」
「安倍さんねえ‥。確かに、私から見ても、あの人は憧れちゃうな。すっごく可愛いっていうか、可憐。」
「うん。ちっちゃくて、なんか守ってあげたい。ってかんじ。またあのアンニュイな雰囲気がさ、周りを惹き付けるんだよねー。ま、いろいろ噂はあるけど‥。綺麗なバラにはトゲがある、ってかんじだよね、あの人、ほんと。」
マイペースに語ってしまった私がふと気付いて視線を戻すと、梨華は静かに微笑んで私を見ていた。笑ったままで何も言わない。
「あれ‥、りかっち‥?ナニ。怒った‥?」
言い過ぎか?不自然に長い沈黙にいたたまれなくなった私がたまりかねて口を開くと、梨華はクスリと小さく笑った。
「なんで?なんで私が怒るの?」
「いえ‥。べつに‥。アレ?」
私はしどろもどろだ。怒ってないなら別にいいんだけど。そんな私を見つめる梨華はあいかわらずの優しい微笑み。なんだかスリル満点なかんじ。息をのんで固まった私の額を、冷たい汗がゆっくりと流れたその瞬間‥!
「それより。ヤクザの愛人なんて。そんな言い方やめない?安倍さんに悪いわ。」
「あ‥。うん。」
それだけ言うと梨華はまた雑誌に目を戻した。怒ってないなら、べつにいいのだけれど。嫌な汗をかいた。まさか殺されやしないだろうな‥。私はちょこっとだけそんな事を思った。
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