この店にダンスフロアはない。壁で仕切られた一画にビリヤード台があったけれど、その白くて硬い光ですらここでは人を集めない。フロアに間隔を開けて置かれたソファやら椅子やらにそれぞれ腰を下ろし、人々はつかの間の夜の夢を過ごすのだった。
音楽と、囁き合う人の声。境界をなくしたそれらはいつしか暗い胎動に変わり、人々は好んでそれを受け入れる。甘い闇に憑かれ自我を融合させた人々。テーブルの間を足取りも軽やかに私はアルコールを運び、梨華はもくもくと金を数える。安倍なつみに関する良い噂はほとんど聞かなかった。
店を開けて間もない時間、梨華はレジで現金を数えていた。昨晩のラスト時と金額が合わないようだ。
矢口さん今日は来るのかな。
そんな事を考えながら客の少ないフロアで退屈していると、奥のソファに陣取ったギャル風の2人連れから、メソメソとすすり泣く声が聞こえた。
「で、アンタは結局どうしたいの?振ったんでしょ?」
「‥。振ったよ?あたしだってプライドあるもん‥。」
どうやらコイバナだ。硬そうな灰色の髪に銀のメッシュを入れた方がしきりに鼻をすすっている。恋人と別れたばかりらしい。その友人なのか、脇には痛んだ茶髪と黄緑色のセーターが特徴的な女性が座り、しきりに連れを慰めていた。
「ほんと、許せないよね。次々と人のオトコにちょっかいかけてさ。
今までウチらの仲間何人やられてると思ってんの?」
憤まんやる方ない、そんな素振りで吐き捨てた聞き役が目の前のドリンクをぐいと掴んで一気にあおった。
「ひとみちゃん。」
ニヤニヤしながら聞き耳を立てていると、梨華がレジカウンターから呼んだ。
「どうしたの?なんかニヤニヤしてる‥。」
駆け寄ると梨華は怪訝そうに眉をしかめた。
「奥にいる2人、なんか恋人とうまくいってないみたいで。
おもしろいからちょっと立ち聞きしてた。」
すると梨華は小さくため息をつき、上目遣いに私をにらんだ。
「もう。やめなよ。下品。」
相変わらず几帳面だ。そう思ってさらに頬をゆるませていると、帳簿を閉じた梨華は小さな封筒を手渡した。
「これ、昨日の分のチップ。ひとみちゃんの分、ちょっと少なかったみたい。ごめんね。」
「ああ、だから合わなかったんだ、金額。てゆうかりかっちが持ってて良かったのに。どうせ一緒に住んでるんだしさ。」
「うん‥。まあね。でもそこはキチンとしようと思って。」
レジスターの椅子はそれほど低くもないが、それでも立っている私の視線のほうが梨華よりも少し高い。目を伏せ、テーブルに肘をついた梨華を見下ろす格好の私だったが、生え際の整った彼女の額はいかにも生真面目だ。それがやけに可愛らしく見えて、私はまた笑った。
11時を過ぎた頃から店は次第に混みだし、私も梨華もそれぞれ仕事に没頭していた。その日、矢口さんは普段より早く顔を出し、先に集まっていた常連客と中央のソファへ座った。彼等は決して学校などの友人ではなく、この店または街で矢口さんが知り合った男女だ。あくまでもそれだけの付き合いで、プライベートの知り合いを矢口さんがここへ連れてくることはなかった。
オーダーされたドリンクを矢口さん達のテーブルに運ぶと、その中の一人がしこたま酔っているらしく、テーブルの上にグラスを倒した。見れば全員顔を赤くし、相当できあがっているようだ。それはテーブルに置かれたグラスの数からも容易に想像できたが、その中でひとり矢口さんはお酒に随分強いのか、それともコントロールしているのか、ともかく非常に冷静で、ビールを被った男のコのじっとりと濡れたジーンズをハンカチで拭ってやっていた。
「大丈夫ですか?」
甲斐甲斐しい素振りで介抱を続ける矢口さんに私が声をかけると、矢口さんは顔を上げ、剽軽に片目をつぶって見せた。
「ごめ~ん、よっすぃー。悪いけど、雑巾持ってきてあげてくれる?ちょっとハンカチじゃ足りないみたい。」
「はい。」
一目見て高価とわかる濃紺のハンカチがアルコールを吸ってべっとりと濡れていた。
「悪いねー。」
「いえ。」
そう言って踵を返した私が他に要るものはあるだろうか、そう思ってもう一度テーブルを振り返ると今しがた人なつこくおどけてみせた矢口さんの表情から笑みが消えていた。
トイレへと続く通路に、用具入れのロッカーはひっそりと置かれていた。隔離された通路は白いライトの下、ある種独立して浮かび上がり、フロアでは極めて有機的に広がる音楽も、ここではやけに遠く、乾いて聞こえる。従業員も客も熱に浮かされた自我をこの通路では一瞬取り戻すのだった。
一息つくのも束の間、バケツと雑巾を手にフロアへと引き返す私の横を一人の客が通り抜けた。ギャル。派手な服装と裏腹に表情は悲痛で顔は俯いている。
ああ、さっきの人だ。
先程店がまだ混み出す前、男の話をしていた2人連れの、その彼氏と別れた方。
すぐに思い出して興味を覚えたが私は振り返らなかった。早く持って行かなければいけないのだから。雑巾を。
「あー、よっすぃ-。」
急いで戻った私は矢口さんのテーブルへ早足で近付いた。矢口さんの表情にはいつもと同じ明るい笑顔が、再び浮かんでいた。
「お待たせしました。」
「サンキュー。」
先程見た矢口さんの表情に少しだけ違和感のようなものを感じたが、それを考えている暇はその時無かった。矢口さんが自ら雑巾を持って床を拭こうとしたのだ。常連とは言え、流石に客にやらせるわけにはいかない。それは私の仕事だ。
「あ、私がやりますから‥。」
遠慮する矢口さんからなかば強引に私は雑巾を受け取り、テーブルの下に跪いた。矢口さんの厚底はいつみても立派だ。
その場を片付け終えた私は、もう一度通路に戻った。使用した物をロッカーに戻す為だ。しばらく下を向いてかがみ込んでいたからか、頭がクラクラし、少し汗もかいたようだ。私は一息いれようと体を壁に凭せかけた。フロアよりも1、2度低く感じられる通路の空気は、ひんやりとして心地よい。
誰もいない通路で壁に凭れたまま、私はぼんやりと天井を見つめていたが、しばらくすると奥のトイレから「がたん」と物音が響いた。
「なに?」
いかにも不審だ。
そろそろ一日の疲労がたまりつつある体を、弾みをつけるようにして壁から離した。
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