同じ学校へ通っているのだから、それ以降も梨華と顔を合わせないわけにはいかない。

梨華と話す時心の中は相当ドキドキしていたが、努めて私は明るく振る舞った。

彼女の仕種の全て------それはもう本当に些細な物まで、が私の胸をいちいちチクチク痛ませたけれど、私は本当に必死で、痛みが深ければ深いほど一生懸命笑うようにした。


そういうふうにして日々は過ぎ、学校は夏休みに入った。

夏の大会に敗れた私達のチームから3年生が引退して、気分も新たな私がバレーに打ち込んでいたある日、梨華が電話をよこした。

「もしもし、ひとみちゃん? 梨華です。」
「あ、りかっち?久しぶり。元気?」

中澤の話の衝撃を忘れていたわけではなかった。

部の練習に精を出していたのも、要するにそれを考えずにいたかったからで、梨華と話をする事に私は未だに動揺していた。

しかし、暫くぶりに聞く梨華の声はやっぱり高くて可愛いらしくて、実際気持ちが昂揚したのも本当だ。


「りかっち、聞いたよ。試合残念だったね。」
梨華もまた、他と同様、テニス部を引退していた。

とても頑張ったのだけれど、いかんせん相手が悪かったのそうだ。誰かがそう言っていた。
「ひとみちゃんは、部長にはならなかったの?」
「ならなかった。てゆうかなれなかった。人望ないみたい、あたし。」
くすくすと笑う梨華の声が受話器を通して耳をくすぐる。その裏には深い影があるのだと思うと、本当に悲しくなった。
「りかっちは毎日なにしてるの?勉強?」
「うん。息が詰まりそう。」
「ねえ、明日会おうよ。時間ある?」
「私も。なんだか息抜きしたくて、ひとみちゃんに電話したの。」
「じゃ練習終ってから待ち合わせしよう?終ったら電話する。夕方になっちゃうけど。‥てゆうかじゃあ泊まったら?うちに。」
「え、うん‥。いいの?」
梨華が家に泊まる。私はその考えがとても素敵だと思った。あの家から例え一日だけだとしても梨華を引き離す事ができるし、私的にもすごく嬉しい。


翌日、練習を終えた私は校門のところで梨華と待ち合わせて、夕暮れ近くに家に着いた。
「友達が泊まりに来るよ。」
あらかじめ話しておいた母親が玄関で出迎えたが、おいしいごはんを作っておくわ。
そう言って張り切っていたから、家のドアを開けたときから良いにおいが立ち込めていた。


「初めまして。石川梨華です。」
流石に梨華は挨拶がうまい。笑顔でにっこり。こういう自己紹介をする彼女を嫌う大人がいるだろうか。

そう感心していると、ふと目に入った母の表情に、なぜか狼狽が浮かんだ気がした。
「石川、さんって‥、あの代議士先生のところの‥?」
母が梨華の父親のことをが口にしたので、一瞬戸惑った私があわてて梨華を盗み見たが、梨華の様子に特に不審な所もない。もう慣れてしまってるんだろうか、こういうのは。


「ハイ。」
梨華が微笑んで頷く。
「お母さん、お腹空いた。はやくご飯にしようよ。りかっちも早く上がって。」
そう言って私は乱暴に靴を脱いだ。とりあえず話題を変えたかったのだ。


いくら待っても私の父親は帰って来なかったので、母と私と梨華で食事をした。

私の母親は普段から明るい。しかしその日はいつにも増して元気で、勢いあまった彼女は手を滑らせて皿を2枚割った。

いつも明るく、時々はしゃいで見せるものの、母は決して不器用な方ではない。

普段はしっかり者の母が、あの日は2度も皿を落とした。それを不自然となぜ思わなかったか。

母の様子を見抜くには私は幼く、そしてあまりに無知だったのだ。


食後少しだけテレビを見てから、私達は自室へ戻った。私は机の椅子に座って、梨華はベッドに腰掛けている。

雑誌を見ながらあれこれ言ったり、お互い気に入っている音楽をかけたり。それ程多くを語り合っていたわけでもないけれど、私は十分充足していた。

クーラーを効かせているから部屋の窓は閉じていて、遮断された空間には私と梨華が2人きり。

蛍光灯のひかりは清潔で、照らし出された部屋がまるで虚構のように浮かび上がる。

梨華は私の側に座り、そして時々静かに微笑む。
このまま、ずっとこのまま。私はふと思った。彼女をずっと、この部屋に隠してしまえたら。

梨華の話に相槌を打ちながら、私は空想に夢中になった。果たしてそれは可能か。

用のない世界に背をむけて、このまま2人で逃げきれるか。


楽しい時間は続かない。そんなのは当然で、だからもちろんこの瞬間もそれほど長くは続かなかった。

きっかけは、中澤の話題。夏休みに入って私はしばらく彼女と会っていなかったけれど、梨華いわく中澤は今、新チームの練習に熱を入れいるのだそうだ。

「珍しいね。中澤先生がやる気を出すなんて。」
私はできるだけ、当たり障りのないように答えたつもりだった。

腫れ物に触れないように、何も知らないふりをして。
「でも、意外と熱血なのよ。あの人。」
「そうなの?そうは見えないけど。」
そうだよ。


そう呟いて梨華は黙った。

私達の間を気まずい空気が流れたように感じたけれど、私が知っているということを梨華はまったく知らなかったから、それはやっぱり気のせいで、私は焦っていたんだろう。

その時梨華は、既にベッドを移動して直接床に座っていた。

目の前の小さなテーブルに両肘を乗せて、ぼんやりとしたうつろな目。
その表情に私は十分慣れていたはずだった。

けれど。見慣れているはずなのに、あの時どうしてもやり過ごす事が出来なかったのだ。

梨華に対する確かな想いを、自分でもどうにもできなかったのだ。


「りかっち‥!」
テーブルの上に組んでいた梨華のひじを私は掴んだ。我に帰った梨華が、戸惑った目で私を見つめる。
「ひとみ、ちゃん?」
「私、りかっちのことが好きだよ‥。」
「え‥。」
梨華は困ったように視線を伏せた。

梨華の腕を掴んだまま行き場を失った私の右手が、ほんの少し汗ばんだのを覚えている。
「だから‥、だから、りかっちが抱えているものを、わたしが一緒に、背負ってあげたい‥!」
ガチャン。


閃光が走るのに似ていた。言い終わったか、終らないか、それは微妙なところだ。

私の言葉を聞いていた梨華の体がその瞬間ビクッと震えて、テーブルの上のグラスを倒した。
一瞬グラスに目を奪われた私がもう一度梨華に視線を戻したが、あの時の彼女の表情を私は忘れられない。

凍り付いていた。
ガラス玉のような瞳に息をのんでいると、突然その両瞳に透明な涙が溢れる。
「知ってたの‥?」
「ちが‥っ!」
引き止めようとしたけれど無駄だった。
「いやっ!!」
全ての存在を拒む切り裂くようなその悲鳴。
梨華の腕を掴んでいた手に私が力を込めるより、ほんの一瞬だけ早く彼女は去って行ってしまった。


物音を聞き付けた母につかまったからかも知れない。

あるいはあまりに悲痛な声に、一瞬躊躇したからなのか。

懸命に探したけれど、結局梨華を見つける事ができなかった。


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