親しくなってしばらく経つ頃、練習を終え制服に着替えた私は下校中の梨華を見つけた。
彼女がいつも、同じテニス部で比較的家の近い一人の女子生徒と共に帰っている事は知っていた。
その友達は、見た感じ梨華とは正反対のタイプで、明るく染めた髪と人なつこい笑顔が印象的なその彼女は、梨華をよく笑わせていた。
その友達がたまたま欠席でもしたのか、俯きがちに歩く彼女はあの日ひとりだった。
普段朗らかな笑みを浮かべて下校する2人の姿を見慣れていたからなのかどうかは解らない。
オレンジ色に染まった校舎の脇を、ひとり校門へと向かう梨華がひどくに儚げに映った。
優等生である梨華は一緒に帰る友達を他に持たないんだろうか。
なんだかたまらなくなった私は、梨華に向かって駆け出していた。
一緒に帰るはずだったバレー部仲間数人は適当な理由をつけてごまかした。
「りかっち!」
ちょうど校門を出るところだった彼女は、少しだけびっくりしたように振り返った。
私を認めて微笑むその歯は、今日もせつない程白い。
「あれ。ひとみちゃん。」
「なんで一人なの?今日あの友達一緒じゃないの?」
息せき切って話し掛ける私の勢いに少しだけ驚いているようだったけれど、それでも梨華は笑って答えた。
「どうしたの?そんなに急いで‥。あのね、今日部活早めに終ったんだけど。
でも私だけ、来週の試合のことで中澤先生と打ち合わせしてたの。私、ぶちょうだから。」
笑う声を抑えるように話す梨華の様子はいつもと何の変わりもない。
私はそれを確認してひとまず息を吐き出した。
私達はそのまま一緒に帰った。私も梨華もあの日なぜか黙りがちで、これといった会話もない。
ただそれが私にとって不快ではなかったということ。そういう梨華の態度は、私に対する彼女の信頼の証拠だと感じた。
川沿いの公園では季節はずれのモクレンが、甘く重いにおいをその花弁から撒き散らしていた。
夜になりかけた風景のなかで狂ったように咲く白くて厚い花びらがやけに青白く、ぼんやりと浮かび上がって見える。
「すごいね。」
そう言って指差す梨華は、何か眩しい物を見つめるような瞳をしていた。陽は既に落ちて辺りは暗いのに。
「‥うん。」
「すごい匂い‥。でもなんで?いまどきこんなに咲いてるなんて‥。」
私は木に近付いてその硬い葉を一枚裏返す。葉の裏面には、大小の白い斑点がぽつぽつと浮かんでいた。
「病気だよ。害虫にやられてる。」
私は側に落ちていた小枝を拾い上げて、幹に空いた小さな穴へ差し込んだ。再び出した枝の先には白っぽいおがくずが多く付着していた。
「ほら。中はもう死んでる。」
差し出した枝を確認した梨華は、顔を上げて私を見つめた。
「じゃあ、もうダメなんだ‥、この木。きれいなのにね。」
そう言って再び花に目を戻す梨華に、感情の変化は読み取れない。
ひどく冷静な視線はどこか、安堵さえしているようにも見えた。
私達は再び歩きだした。しばらく行くうちに突然梨華が口を開く。
「ひとみちゃん、植物のこと詳しいね。こないだもひまわりのこととか中澤先生よりも良く知ってたし‥。」
中澤がエロ教師だと言うことを私も既に気づいていたが、数学科の教師である彼女は生物についてもそれなりの知識を持っていた。
「うーん。お父さんの影響かな。てゆうかうちのお父さん、ずばり植物学者なの。だからあたしも詳しくなっちゃった。」
「え、そうなの?」
「うん。」
梨華の目がなにやら楽しげに輝き出した。
優等生の梨華だったけれど、こういう時はとても無邪気だ。
ある意味取り澄まして見える彼女が、時折こんな様子を見せる事を知ったら、皆きっと好きになる。私はそう思った。
「あのね、あんまり関係ないんだけど。うちのお母さんもすごく詳しかったの。花のこととか‥。
だから私もけっこう知ってるよ。ま、ひとみちゃんには負けちゃうケド。」
亡くなった母親のことを懐かしそうに梨華は語る。
淡々と短い言葉で思い出を話す彼女は、それでも穏やかな笑みを浮かべていた。
とても大事そうに、その幸福な記憶をささやくので、私もなぜか暖かな気持ちになった。
「私が小学校の2年生の時に死んだの。お父さんに連れられて夜中に病院へ行ったわ。」
私は肉親の死を知らない。静かに話す梨華に、私はただ頷いた。こういう時に返すべき言葉を私はまだ知らなかった。
「お母さんがいた時は、すごく幸せだったな‥。悩みなんてなかった‥。」
ぽつりと呟いた口調がそれまでのものと違っている事に気がついて、私は梨華の顔を見た。
入学式の日随分高いところにあった彼女の瞳は今、私のものと同じ高さにある。それがなんとなく感慨ぶかかった。
また、あの表情をしている。俯いた梨華の輪郭を見ながら、私は思った。
唇を軽く結び、輝きのない瞳で一点をじっと見つめる。こういう梨華の表情を、初めて見たのはいつだったか。
はっきりとそれを思い出せない。親しくなるにつれて私はいつしか、彼女の影の部分を意識するようになった。
私はふと、いつか中澤が言った言葉を思い出した。
「石川はな、優等生なだけに自分の内面を上手く他人に見せられへんねん。
もしかしたらそういうのを隠してるうちに、自然と優等生になってしまったのかも知れんな。」
私は再び梨華を見つめた。
ごく親しい者しか知らない彼女の空虚な表情。その瞳から感じるのは、悲しみとか怒りとか、そういう類いのものではない。
それはむしろ諦観に近く、圧倒的な何かを静かに享受しているように見えた。
中2の冬休み。すべてはあの電話から始まった。
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