第1部
彼女に始めて出会った時のことを、私は今でもはっきりと思い出せる。
あれは、入学式の日。前日なかなか寝付かれず、案の定寝坊した私は、だいぶ遅れて学校についた。
雨の日だった。式はとっくに始まっていて、会場の体育館は固く閉ざされ、雨の中を急いだ私の制服は、水を吸っててかてかに輝いていた。
「どうしよう‥。」
ハンカチで拭ってもなお制服の染みはおさまらない。
いや、問題はむしろ会場に入れないことで、それから気を反らすために、私はただ制服を拭き続けたのだと思う。
とにかく、素直だった当時の私は真剣に動揺し、ひさしの下で制服をたたきながらひとり途方に暮れていた。
体育館は、校門を入ったすぐその脇にあった。
制服のことを半ば諦ていた私は、ためいきをついて校門の桜を見上げた。
立派な桜の樹だったが、4月を過ぎてすでに葉桜になっている。
かろうじて残っていたはずの残り少ない花も、昨晩から降り続いた雨でそのほとんどが散っていた。
----------どうしたの?
高く澄んだその声に背後から呼びかけられたのは、絶望した私が排水溝に溜まった無数の花びらを、ぼんやりと見つめていた時のことだ。
心臓が止まりそうなくらい驚いて、反射的にふり返った私の視線の先には、上級生だろうか、かたわらに黒いファイルを抱えた一人の女子生徒が立っていた。
雨のせいで蒼みがかった風景の中で、白い歯をのぞかせて清潔そうに微笑む彼女のまわりだけ、やけに明るく感じたことを覚えている。
「そんなにびっくりしないで。あなた、新入生?」
言われて初めて気がついた。
当時から私には、極端に驚いたとき、目を見開いて大きく息を呑むくせがある。
今になってもそれは治らない。
おだやかな微笑をうかべて私の様子をうかがう彼女に、あわてて返事をしようとしてうなずいたけれども、声はうまく出なかった。
「だいじょうぶよ。式、まだ始まったばかりだから。あなた1人くらい、私がもぐりこませてあげるわ。
自分のクラス、わかる?」
クラス発表は、まだ見ていなかった。遅刻したことだけで頭がいっぱいだったのだ。
「そう。じゃ、あなた、名前は?」
彼女はファイルを開いて言った。
「‥吉澤ひとみ、です。」
「よしざわさんね。よしざわ、よしざわ‥。あった。1年6組、吉澤ひとみさん。」
ファイルから顔をあげてにっこりと笑う彼女の瞳につられて、思わず私も微笑んでしまった。
「あれ?あなた、ブレザーすごい濡れちゃってるね。ふふ。一生懸命走ってきたの?」
「‥遅刻したら、いけないと思ったんです。」
私が目を伏せて答えると、彼女はおもむろに自分の上着を脱いだ。
「良かったら、コレ着ない?それは新品じゃないけど、でも昨日クリーニングから戻って来たばかりだから。」
そう言って差し出されたブレザーは、しっかりとプレスされていて、私のものとの違いはほとんどないと言って良かった。
むしろ水を吸っていない分、新入生のものとして相応しかったろう。
しかし、いくらなんでもそこまでしてもらうわけにはと思った。
「でも‥。」
「だって、風邪ひいちゃうよ?それとも、‥自分のじゃないとイヤ?」
少しだけ遠慮がちにそう言うので、私はあわてて首を振った。
そもそも彼女が引け目を感じる理由なんてないのだ。
「ぜんぜん、そういうことじゃなくて‥。」
すると彼女は安心したように笑って、私のブレザーに手をのばした。
多少のとまどいは残っていたけれども、私は彼女のブレザーに袖を通した。
なんだかやけにドキドキしたけれど、そんな私を気にするふうでもなく、彼女は笑顔で言葉をつづけた。
「少し大きいみたいだけど、いいよね?式が終ったら、またここにいるから、その時にでも返して。
あ、あなたのブレザーは私が持っててあげるわ。それまでに渇くよ、きっと。ね?」
私が頷くのを確認すると、彼女は快活に踵を返す。
「じゃ、行こっか。1年6組ね。一緒に来て。」
そういって私に向かってにっこりと微笑むと、彼女は裏口の方へ歩き出した。
私たちは館内に入って、壁に張り巡らされた紅白幕の内側を進んだ。
ずいぶん慎重に歩いたつもりだったけれど、それでも幕は少しだけ膨らんだりしたかもしれない。
しばらく歩くと、彼女は幕の切れ目から式場をのぞいた。
「そこにいるのが、一年生たち。ほら、6組、ここから近いじゃん。よかったね。」
ひそひそ声で言う彼女。
私もホッとした。ほんとうに近くて、これならなんとなく目立たなそうだ。
うんうんうなずく私の姿が滑稽に映ったのか、彼女は軽く吹き出した。
「ほら。早く入って。だいじょうぶだから。」
背中に当てられた彼女の手に、私を促す優しい力が込められる。
「あの、‥。」
「ん?」
「‥ありがとう、ございました。」
part2へ続く