鹿児島市のJR鹿児島駅近くの小高い山に「多賀山公園」があり、多賀山一帯が公園になっている。過去2~3度訪れたことがあるが、短時間で引き揚げたから内部の様子は詳しく知らない。ただ、東郷元帥の像だけは、錦江湾(鹿児島湾)を見下ろすその姿があまりに凛々しく頭に残っていた。訪れた日(6月26日)は観測開始以来最も短いと記録された梅雨期間が明ける前日で、時には小雨が雷を伴って降っていた。駐車場には日曜日という事もあってか、10台以上の車が駐車していた。

 

車から降りて東郷元帥像へ歩き出したら、左手海側に石碑がある。説明文を読んでみると聞いたことのない人名である。「肝付兼重奮戦の跡」と書かれている。鹿児島に住んでいると島津氏の当主名は何度も聞くが、島津氏が薩摩の国主になるまでの他の豪族名を聞くことは多くない。少し勉強をと思い、調べてみた。

 

肝付氏は平安時代末期以降大隅半島を地盤とした豪族であった。南北朝動乱では兼重が肝付一族を率いて南朝側に立って北朝側の島津軍と8か月にわたり戦った。暦応4年・興国2年(1343年)、島津貞久はこの公園の北側にある東福寺城(次項で説明)を落城させる。戦国時代、肝属氏第16代兼続の頃には、その所領が南大隅から日向の南部一角にも及び、島津氏の脅威となるがその後振るわず、天正8年(1580)には島津氏の一家臣になった。ざっとこのような説明を見て、現在の肝付町もその名残だろうと思っている。

 

肝付兼重奮戦の跡

このあと東郷元帥の像へ向かって歩いた。

多賀山は島津氏が鹿児島郡司矢上氏の一族である長谷場氏を攻め落とした東福寺城跡の南にあたる山で、山上から鹿児島中心部のほぼ全域が望める。島津家第16代義久が寿命の神として祀らせた多賀神社からこの名がついた。ここに東郷元帥の像が建っている。

東郷元帥は

1,明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。・・・ウィキペディアより。

若いころ東郷元帥についての小説や日本海海戦の映画を観て、胸躍らせたことを思い出す。少年の頃はかなりの”お喋り屋”だったらしいが、指摘されて後年は酷く寡黙になったことを知った。やはり彼には寡黙な人となりが似合う。

 

2,「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれど波高し」。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」。どちらも、この海戦における東郷の発した報告と訓令である。

・・・僕は若いころこの言葉に接し、深く記憶している。

3,正式には元帥の称号を持つ東郷平八郎海軍大将として「元帥海軍大将東郷平八郎」と呼ぶ。1945年まで海軍では13名の元帥が誕生するが、存命中に元帥の称号を授与されたのはわずか7名で、彼はそのうちの一人である。

 

像の下の掲揚台には国旗はなかったが、一六条旭日旗が掲揚され折からの風にはためていた。

錦江湾を見下ろす高台に彼の像は建っている。この狭くて急勾配の石段は軍艦の舷梯(ふなはしご)を模して造られたそうだ。

東の方向を向いて立つ。眼下には鹿児島港が。

西方向から・・・前方に錦江湾(鹿児島湾)

鹿児島本港も目の前。

多賀山から数百メーター南方にJR鹿児島駅。

東方には桜島。

元帥東郷平八郎大将の墓。遺髪が納められているとの由。墓所として選ばれた理由は、この地が鹿児島湾に入る艦船から真正面に見える位置にあることと、彼を海軍に進ませた薩英戦争の遺跡である砲台跡を真下に見る場所にあったからと言われている。

聖将之碑・・・「東郷元帥五十年祭記念」と彫られている。

ここまで(元帥銅像まで)は来たことがあるが、この先には行ったことが無かった。雷が鳴り薄暗くなった樹が生い茂る道を西方向へ向かって歩いた。