(1)に続いて鹿児島の3大行事の残り二つについて、ネットから借用した文章を記述する。

全くの偶然であったが、この文を書き始めた日は12月14日で赤穂義士討ち入りの日であった。過去に触れたが、僕の趣味の一つは歴史本を読むことで、読み物のほぼ8割は歴史ものである。そんなことで赤穂義士については、結構多くの本を読んだつもりだし映画も観た。故郷熊本在住時には、義士17名の遺髪を納めた遺髪塔がある山鹿市の日輪寺を訪れたりもした。刃傷は元禄14年(1701)3月14日、吉良邸討ち入りが元禄15年(1702)12月14日、たまたま14日が符合していて、1年9ケ月に亘る義士個人の辛苦に思いを馳せ、為になることもないのに47士の名前を覚えようと、ものの本のそのページを何度も読み返した若き日を思い出した。最近はめっきり読む時間が減った。目が疲れるのに加え、このブログを書くのに時間を割かねばならなくなったことも一因である。脱線したので本題に戻す。

 

「赤穂義士伝輪読会」は初めて聞く行事で、この年になるまで聞いたことがなかった。資料を調べる暇もないので、全部をネットから資料として使わせていただいたことを付記する。・・・写真を探したが、一葉だけ見つけたのが「四方学舎年間行事」

 

赤穂義士伝輪読会・・・鹿児島松原神社公式ホームページより
赤穂四十七士が元禄15年(1702年)12月14日(旧暦)純忠至誠の精神に基づき、主君の仇吉良上野介義央の首を討ち取った日を記念して当日の夜行いました。赤穂四十七士の武士道精神を薩摩武士の精神涵養に役立たせるとの目的で行われた行事です。

当日の夜、各座元に集まり『赤穂義臣伝』を論読しました。15巻におよぶ赤穂義臣伝の論読は、日暮れに始まり夜を徹して行われ、夜半頃には、座元より鶏汁が出されたりしました。また、栗粥を黒糖で煮た栗なっとうも多く食べられたようです。後世、学舎や学校でも赤穂義士を偲び論読会や物語りなどの行事が行われるようになりました。

 

写真を探したが、一葉だけ見つけたのが「四方学舎年間行事」で、借用させていただく。

 

妙円寺詣り・・・同上
島津義弘公以下が、関ヶ原の合戦で敵陣の中央突破を行い山岳地帯を三日三晩の苦闘のすえ鹿児島に帰った苦闘を偲び、平和な世に士気を高め心身を鍛錬する目的で始まりました。

鹿児島城下士たちが鎧兜に身を固め9月14日(旧暦)夜、伊集院徳重神社(島津義弘公菩提寺妙圓寺)までの20キロの道のりを歩いて参拝します。道中では『チェスト(行け)関ヶ原』という勇ましい掛け声と、当時を偲ぶ歌を高らかにに歌いながら参拝するのが恒例となっています。

明治時代には子弟の教育上、十七学舎が妙圓寺詣りを実施し、また学生も参加するようになり、小学校5年生以上の男子が全員参加で行進し、夜を徹して参拝するようになりました。戦後しばらくの間は細々と行われていましたが、年と共に盛んに行われ近年の盛況となってきています。現在は10月の第4日曜日に行われています。

 

妙円寺詣り・・・ウィキペディアから

妙円寺詣り(みょうえんじまいり)は、鹿児島県日置市にあり武将・島津義弘を祀る徳重神社(廃仏毀釈前の妙円寺を詣でる、江戸時代から続く行事である。鹿児島三大行事の一つ。毎年10月の第四週の土・日曜日に行事が行われる。

自分の菩提寺に妙円寺を指定した武将・島津義弘は、生前に京都より仏師・康厳を招き、自らの姿を彫刻させ、その木像を生きている義弘と思い弔うよう指示。

 

敵の反対側ではなく敵中突破して撤退したとして知られる「島津の退き口」により、島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して、その前夜にあたる旧暦9月14日、平和な時にも関ヶ原における先人の体験を見習って心身を鍛えようと、福昌寺の墓地にある義弘の墓ではなく、生きている義弘として取り扱われている木像を参拝すべく、甲冑に身を固めた鹿児島城下の武士たちが、鹿児島市から伊集院町の妙円寺までの往復40kmを夜を徹して歩き参拝したことに端を発する。

 

鹿児島で受け継がれてきた郷中教育には、「山坂の達者は心懸くべきこと」という教えがあり、寺もしくは神社が建設されている地域の郷中にいる二才(にせ衆と親睦を深めるという背景もあり、かつて薩摩藩ではそれぞれの命日に参る習慣として妙円寺詣りと共に、島津忠良の菩提寺であるに日新寺の加世田詣りと、島津歳久の菩提寺である心岳寺の心岳寺詣りが、武士層の間で受け継がれてきた。

以上