数年前、何の雑誌か忘れてしまったが、とある雑誌で小編成のカラフルな電車・路線と

その沿線について紹介する記事があった。

その電車のカラーの今までにない美しさが妙に印象に残った。

世田谷線である。


仕事が忙しく機会を逸していたが、いつかあの電車に乗ってぶらぶら散歩でもしてみたいと

ずっと思っていた。

 世田谷線は、三軒茶屋と下高井戸を結ぶ短い路線である。


たった2両のかわいい路面電車で、途中、西太子堂駅と若林駅との間で環状7号線と交差して

いるため、時には車同様信号待ちをすることがある。

電車のカラー同様なかなか微笑ましい。


 沿線には、豪徳寺、松陰神社、目青不動、世田谷代官屋敷などがあり、ぶらっと訪ねてみる

のに最適である。

 特に、豪徳寺と松陰神社は有名で、歴史的・文化的な価値も大きい。

一度訪ねてみることをお勧めする。


 また、毎年12月中旬に行われる世田谷ぼろ市もなかなか楽しい。







  

 装束稲荷神社は、JR京浜東北線を挟んで、ちょうど王子稲荷神社と反対側になる辺り

にある。


「装束」とはなんとも面白い名称だが、この神社のいわれを調べてみると、もともとはこの

あたり一帯が野原や田畑ばかりだったころ大きな榎の木があり、そこに社を建てて王子稲荷

神社の摂社として祭られたのがこの装束稲荷の始まりだそうである。

 さらに、毎年大晦日の夜に関東八ヶ国の稲荷のお使いの狐がこの村に集まり、ここで装束

を整えて関東総司となっている王子稲荷神社にお参りすることが通例になっていたとのこと。

 その時の狐火の多少で、当時の農民が翌年の農作物の出来の吉凶を占なっていたと語り伝

えられている。


 この話は安藤広重の浮世絵にも描かれている。


また、現在では地元の人々の尽力で、王子の狐火の話を再現しようと 王子「狐の行列」

が始められ、毎年大晦日の深夜に狐のお面をかぶった裃姿の人々が装束稲荷から王子稲荷

神社までお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられている。



 実際に装束稲荷に行ってみると、商店街の中で赤い鳥居が人目を引いてはいるが

意外と小さく、こじんまりとたたずんでいる。



 「王子の狐」という落語がある。

 普通は狐が人間を化かすのだが、この話では人間が狐をだます、という内容になっている。

 その噺の中に出てくるお稲荷様、王子稲荷神社を訪ねてみた。


 JR王子駅ホームを一番赤羽よりの階段から降りて、音無親水公園側に出る。

 出たばかりのところはJRに沿って狭い通りになっている。

 実は、落語の中では、人間のお玉ちゃんに化けた狐をだまして、料理屋の扇屋に連れ込み

酒を飲ませる、という話になっているのだが、その有名な料理屋の扇屋が今はビルに建て替

えられていて、その狭い通りからほんの少し入ったところにある。

 入口は2階になっているようで、1階には通りに面して小さな店を出していて、そこでは

お土産用に卵焼きだけを専門に売っていた。


 王子稲荷神社は、扇屋のあたりからおよそ10分くらい、JRに沿った形で赤羽方面に歩いた

ところにあった。

 隣に神社付属の幼稚園があり、その名前が「いなり幼稚園」というのが妙に面白い。

ちなみにスクールバスの横側にキツネが描かれていて、なんともいえず可愛い。


 正面入り口から少し入るとかなり急なのぼりの石段があり、上りきるとすぐ社殿が

ある。

 さっそくお参りを済ませよく見ると、なかなか立派な神社である。

とくに正面から見た本殿内部の床面がぴかぴかで、なにか漆のようなものを塗っている

のではないかと勝手に想像する。

 
 さて、そこから右手奥に回り込んだところにいくつかの小さな神社があり、神様の

お使いの狐が狛犬のようにいくつも並んでいる。

 さらに、神社に接するようにある崖を昇る形で、幅の狭い石段が上へ続いていて

そこを上り詰めると、なんと、がけの斜面に穴があり、そこがどうやら狐の穴、ということ

らしい。


 まさしく稲荷神社!という感を強くして石段を降りる。


後で知ったことだが、あの崖の石段を登ったところにある狐の穴は、実際に昔何組かの

キツネが住んでいて、そのうちの一つということだそうだ。

 この後、王子稲荷を後にして装束稲荷に向かってみた。
 




 


 




 



 文京区千駄木の団子坂を、不忍通りから少し上ったところに森鴎外記念館が新装開館した

ことは、以前このブログで書いたのだが、その団子坂の通りを挟んで反対側、つまり

不忍通りに沿って道灌山方面へ少し行くと旧安田楠雄邸庭園がある。


 以前日暮里駅構内に貼ってあったポスターに、ここでの五節句行事のひとつ、ひなまつり

の人形が飾られている写真があった。

 それは、いかにも伝統のある人形、という雰囲気を醸し出していて魅力的であった。

それ以来いちど、この人形が飾られている古い伝統のある庭園に行ってみたいと思って

いたが、なかなかその機会がなかったが、先日ひょっこりいろいろなタイミングが合って

いくことが出来た。


 門前の通りは車道と歩道の段差のない歩きやすい道路である。

旧安田邸の前に着くと特別大きくはないが立派な木製の門が迎えてくれる。


 玄関まで大きな木のある下を少し歩く。

料金(建物の維持費等)を払って、中へ入る。


 すでに何人かのグループが。

 どうやら、ここでは一人で勝手に歩けないらしい。

 専門のスタッフ(ボランテイア)がそれぞれのグループについて、案内して回る仕組み

のようだ。

 
 内部は木造の和風、洋風が混在した2階建ての構造になっていた。

 広いガラス張りの洋風応接間。網代天井。数寄屋風つくり。

 応接し脇の畳廊下。 

 照明。

 当時の近代的キッチン。

 等々、文化財的価値のある建物は見ごたえ十分。

 もちろん庭園も素晴らしい。


 ボランテイアのスタッフさんがついて説明してくれるので、詳しいことがよくわかって

興味関心も一段と深まる。

お年を召した方には、昔のゆがみの入ったガラスや、氷式冷蔵庫、照明、蓄音機などの

懐かしいものも見ることが出来る。

 
 機会があれば、一度ご覧になることをお勧めする。


なお、建築物の保護の観点からか、公開は水曜、土曜の週2回のみである。



                              旧安田楠雄邸門

$談腸亭日常-旧安田楠雄邸門



                              旧安田楠雄邸前景

$談腸亭日常-旧安田楠雄邸正面






 日本橋七福神めぐりで行った小網神社で、「どぶろく祭り」(新嘗祭)があると聞いて

再び訪れた。
 
「 新嘗祭とは、古来、天皇がその年に収穫された新穀や新酒を、天地の神に供え農作物

の恵みに感謝し自らも食す儀式」であったそうだが、小網神社では

「当神社では、新穀とともに神前お供えされるどぶろく(神饌田でその年にとれた新米を

かもして作ったにごり酒)を、縁のある二十八日に参拝者にふるまうところから、この

祭りを特にどぶろく祭りと呼んできました。」(小網神社パンフレットより)

そうである。

 「祭りの当日は毎年、国指定無形文化財の里神楽舞が神前で奉納されます」とのこと

でもあったが、残念ながら私が行ったときはすでに終わっていた。

 また、この日から正月にかけて、強運厄除けの「みみずく」が授与(有料)されるそう

である。


 小雨混じりの寒い中を小網神社に到着すると、結構人が来ていて、サラリーマン風の

若い人が友達に「どぶろく飲んできちゃった」などと笑いながら話している。

 こちらもさっそくお参りをしようとしたが、先に何人かお参りしていたので順番待ち

をすることに。

 やっと自分の番が来てお参りを済ませ、すぐ横に控えている若い巫女さんの前に

ずらっと並んでいる、デパートの試食に使うような紙コップに入ったどぶろくをもらう。


 色は白く米粒のようなものが見える。ちょうど甘酒や白酒のように見えた。

飲んでみると甘さはほとんどなくやや酸味を感じる。

 まあ、全然甘くない甘酒という感じである。

ただし、度数はあるのでほんの少ししか飲まなかったが、冷えた体が少し温まった。


                       小雨混じりの寒い日にもかかわらず、
                       あとからあとから参拝客が訪れていた
$談腸亭日常-どぶろく祭り2



                      どぶろく祭りという旗もしっかりと出ていて
                         有名な祭りだということが分かる
$談腸亭日常-どぶろく祭り1
 以前、「播磨坂」について触れたと思うが、春日通りから播磨坂を少し下って左手に入った

ところに石川啄木終焉の地がある。

 
 石川啄木は、おそらく日本人なら知らない人がいない位の有名人であるが、(もっとも

若い人の中には結構いるかもしれない)彼の故郷、生前の生活ぶりや、短歌を中心とした

作品は知っていても、案外どこで死んだかを知っている人は少ないのではないかと

思う。


 啄木は若くして死んだが、生前に何回も転居を繰り返している。

 故郷、岩手県渋民村から盛岡市、北海道函館、札幌、小樽、そして東京。

上京してからは、本郷区菊坂町、本郷区森川町と転居し、最後は小石川区久堅町で

肺結核のため死去した。

 現在の、文京区小石川5丁目11-7である。


実際に行ってみる。


播磨坂を下って左手に折れる。 

全く普通の住宅地である。

あまりにも普通の住宅街で目印らしきものもなのもなく、なかなかそれらしき場所に

たどり着かない。

 大体有名人であれば、道を歩いていてすぐそれとわかる大きな碑のようなものが

あるはずだが、そのようなものも見当たらず、結構歩き回る。


 それらしき場所を、行ったり来たりしているうちに、やっと、あれがそうか?と

思えるものを発見。

近づいてみる。

 

 ごく普通のマンションの入口のすぐ横の壁に、それほど大きくもない案内板のような

ものが貼ってあった。


 それ1枚。


隣の敷地では新しいマンションが建つのであろうか、建設用の重機が運び込まれていて

なにやら、工事が進んでいる。

 
 啄木のわずか26年の短い人生は、貧困と病気と就職活動に満ちていたが、終焉の地の

案内板一枚は、彼の決して幸せではなかった一生を象徴しているような気がして

ならない。


 ちなみに、彼の最後を友人の若山牧水が看取っている。

また、森鴎外の自宅(現在の森鴎外記念館)で行われた観潮楼歌会に与謝野鉄幹に

連れられて出席している。




 

 
 今年(2012年)11月初めに森鴎外記念館が新設オープンした。

以前には記念館兼図書館として文京区千駄木、ちょうど団子坂を少し上った左手にあったが、

かなり老朽化していたため、このたび依然とほとんど同じところに新設された。

 
さっそく行ってみた。

 不忍通りと団子坂の交わる交差点から、ゆっくり歩いて5分程度、左手にコンクリ―トの

大きな建物が見えてくる。

以前と比べてかなり大きい感じがする。

 
 入館料500円を支払って中に入る。(この日は特別展なので500円。)

ちなみに、展示観覧料は通常展は一般が300円。

 なぜか展示室は2階ではなく地下へ。

2階は講座室と図書室になっている。


一通り2階をチェックしてから、ゆっくりと地下へ行く。

エレベーターも真新しくて気持ちがいい。

 
 地下へ行くと部屋がいくつかに分かれていて、それぞれのテーマに沿って展示がされている。

今回は開館当初尾なのですべて、森鴎外についてだった。

第一の部屋は、彼の生い立ちから、学生時代、ドイツ留学時代、軍医としての仕事、文筆活動、

彼の友人や文学仲間などなど、多岐にわたって要領よくまとめられている。

次の部屋へ行ってみると、そこは、主に鴎外の家族についてがテーマであった。

鴎外は2度結婚しているが、子供に恵まれ3男2女をもうけている。

だが、次男の不律は幼くして夭折、先妻の子で長男の於菟は医学者に、長女の茉莉、次女の

杏奴、三男の類ともに小説家・随筆家になっている。


 このコーナーで分かったことがある。

それは、鴎外が意外に子煩悩だったことである。

今までは、彼が軍医であったこともあって、われわれがよく見る彼の写真というのは、

ひげを生やした軍服姿の凛々しい姿がほとんどだった。

 そこから連想するのは、家庭内でも厳格な父親、というイメージだったが、案外そう

ではなかったらしい。

 いや、むしろ子供の勉強を心配するあまり、自ら試験のためのノートまで作成してしまう

ただの教育パパであり、子供をかわいがるよき父親なのだ。


 ビデオのコーナーがあり、そこでは娘の茉莉であったか杏奴であったかの肉声を聞くこと

が出来、彼女は、自分がいかに父親が好きだったかを話している。


 私にとって、新しい発見であった。


このようにして、なかなか楽しい時間を過ごし、夕暮れの中を谷中をぶらぶらしながら

帰途に着いた。




 




 
 

  
春日から国道254号(春日通り)を茗荷谷方面へ向かうと、伝通院を右手に見て通り過ぎ、

小石川4丁目、ちょうど播磨坂の反対側のあたりに切支丹屋敷跡がある。


切支丹屋敷という名称が以前から気になっていた。


あの暑かった夏もそろそろ終わりが見えてきた頃、何か別の用事で出かけたとき、たまたま早く

用事も片付いたのでついでに前から気になっていた切支丹屋敷跡を訪ねてみようと思い立った。


バスを利用した。

小石川4丁目のバス停で降りる。

すぐ左手に茗荷台中学校があり、その横に庚申坂がある。

庚申坂は狭く急な階段で、幸い下る方だったからよかったけれど、上らなければならなかったら

かなり苦労したに違いない。

坂を下に下ると、何やら崖下のトンネルを潜り抜けるような感じで反対側に出る。

すると、今度は上り坂になった。

汗をかきかき上ってやっと平坦な道路に出ると、もうそこは静かな住宅街であった。

そろそろ夕闇が迫り始めたころ、ようやく切支丹屋敷跡にたどり着く。


ごく普通の建物(どうやら、なにかの出版会社?)の前にその石碑は立っていた。

説明版があったので読んでみる。

どうやら江戸時代に、ここにキリスト教徒を取り締まるための役人の屋敷があったらしい。

その屋敷には牢屋があり、そこに転びバテレンを収容していたとのこと。

イタリア人の宣教師が収容されていたことが分かっているようだ。

遠いヨーロッパからはるばる日本までやってきて、自分が布教しようとした信仰を捨てなければ

ならなかった人の苦悩・気持ちはいかばかりだっただろうか?

かなり暗くなり始めた景色の中で、はるか昔の転びバテレンの宣教師の心中を想像してみる。


$談腸亭日常-切支丹屋敷跡



$談腸亭日常-切支丹屋敷跡説明版



かつて訪ねた茗荷谷。

地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅から茗荷坂の下まで行き、さらに進んで、藤坂を上ると

再び春日通りに出る。


春日通りを横切ると向こう側はまた下り坂になっている。

ちょうど、春日通りがちょっとした山の峰のようになっている感じである。

その向こう側の坂の一つに播磨坂という坂があるのだが、他の通りと違って、この通りは

道幅がとても広く、真ん中には公園を兼ねた歩道があり、至る個所にベンチがが置かれて

いてちょっとしたオアシスのようになっている


何よりうれしいのは大きな桜の木が何本もあることだ。

都会の中の緑は、人込みや喧騒に疲れた体と神経に染み入ってくるようだ。

夏は緑の葉が涼しい木陰を提供してくれるし、春になると満開の桜の下で

サラリーマンやお年寄り、幼児たちが三々五々お弁当を食べる。

そこでは、決して過度になどならない品の良い賑やかさと淡いピンクの空間が

広がり、微笑まいささやかな幸福の時間が流れているのだ。



 七福神なのに、なぜか8か所の神社を巡って、東野圭吾著「麒麟の翼」を

追体験してみようと計画した「日本橋七福神と日本橋・麒麟の像の翼確認ツアー?」

もとうとう最後の日本橋を残すばかりとなった。


 実は茶ノ木神社から小網神社に行く途中、少し道に迷ったせいで小網神社を出た

頃には少々日がかげりはじめてしまった。

 日本橋まで歩く途中、「麒麟の翼」で中井貴一扮する某会社の幹部社員が刺され

てしまった江戸橋の地下道近くを通りかかったのだが、橋をいったん反対側に渡らね

ければその地下道には行けないことが分かり、時間の都合でここはカットして先に進

むことに。

  歩いている間に周囲が少しずつ暗くなり始めているので急いで日本橋へ向かう。

首都高速の下を歩く感じでようやく日本橋へ到着。


 さっそく橋の真ん中まで行き麒麟の像を確認。

ウーン、あらためてよく見るとなかなか立派な像だなぁ。


 本来は翼などない麒麟に、日本橋の橋の真ん中にある麒麟だけに翼がついているのは

ある理由があるのだが、それは本作「麒麟の翼」の中に書かれているので、ここでは

あえて触れないでおこう。


 などと考えながら写真を撮っていると、私のほかにも2人連れの若者が像に近づいて

きて写真を撮っていた。


                         前面からみるとなかなか立派だが
                          上に見える高速道路が邪魔。

$談腸亭日常-麒麟の像



                           横から見た麒麟の像。
                         やっぱり高速道路がうっとうしい。
$談腸亭日常-麒麟の像 横



 東京オリンピックがあるからと大慌てで作った首都高速だから仕方ないといえば仕方

がないけど、今じっくり見てみると日本橋のすぐ上に首都高ってどうなの?って感じが

どうしてもしてしまう。


 特にゆったりと時間が流れる中でこの光景を見ると、あの高度成長経済で日本中が

なんだかやたらと忙しく、誰もが経済的発展を求めてせわしなく働いていた時の残滓

が由緒ある日本橋に覆いかぶさっている感じがするから不思議である。