あれから、45年ですか!

2015.11.22
【三島由紀夫事件 没後45年 現代へのメッセージ】
(上)決起した元会員、貫く沈黙 
肩の刀傷…今も悔いなく 取り残された会員「無念」

 日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。
何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。
憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)

 無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。
その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。
理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。
古賀(現荒地)浩靖(68)。
三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。
■  ■
 関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。
古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。

「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」

 古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。
この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。

 穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。
むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。
ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。
心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。
そんな印象を持った。
■  ■
口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。

 小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。
ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。
目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。
何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。

 小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。

 三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。

 元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。

三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。
「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
■  ■
 三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。
決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。

 楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。
「びっくりした、の一言」だった。
任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。
取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。
早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。

 伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。
「信用できるのはだれだと思うか」。
三島の問いに答えは出てこなかった。
裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。

伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。
「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」

 勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。
「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。

 死が脳裏をかすめた元会員もいる。
倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。

 一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。

 元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。
■  ■
三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。

 当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。
同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。

 倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。

 三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。
43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。

 小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。
本当に信頼できる人だと思った」と証言している。

伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。
身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。

 楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。
それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。
■  ■
 三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。

 遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。

産経新聞の記事ですが、これはまだ(中)(下)と続きます。

「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」

三島の自決から45年経った今も、三島が予言した「亀裂」は大きくはなっていません。

「義のための死」を恐れていないことをまるでショウのように見せるためだけに散らした三島の命、楯の会の多くの若い命を道連れにしなかったことはまだしも幸いでした。

というより、森田のような「三島先生、私はあなたのためなら、自分の命は惜しくありません」と言った性急な変革を求める学生たちの身代わりとして犠牲になることで、若くて純粋な彼らの暴走を止めたかったのかもしれません。

楯の会は、三島が作りはしたものの、三島が頭で考えてた以上にラジカル(過激)になってしまった。

それは、会員たちの若さゆえの怖いもの知らずな純粋と情熱のせいでしょう。

最悪の場合、近い将来2.26事件のような暴挙に出ないとも限らない、それを危惧した三島が、自らけじめをつけるための舞台演出だったなら、犠牲者は少なければ少ないほどいい。

そのために、声をかけた会員は最小で、大事にならないうちに演説も中途半端で終わらせ衝撃的な早い幕引きを行ったのも、すべて納得がいきます。

「君らも事に当たるに割腹自殺するだけの覚悟があるなら突き進め、ないならあきらめろ」という三島の無言の声が聞こえてくるかのようです。

事件関係者が今でも無言を貫いているのも、当時の事に関して口を開けば何も出来なかった自分たちの情けない姿をさらさざるを得ないからなのかもしれません。

思慮深い三島の衝撃的な割腹自殺は、私には三島が最後に見せた「楯の会」の若いメンバーたちへの親心だった気がしてなりません。


次は、4年に一度開かれる空手の世界大会の結果です。

東日本大震災復興支援チャリティー/骨髄バンクチャリティー
第11回オープントーナメント全世界空手道選手権大会
The 11th World Karate Championship

テレビ中継された今大会は11回目ですが、過去はすべて日本人が優勝したようです。

【11回大会入賞結果】
男子:
優勝 島本雄二
1st Yuji Shimamoto

準優勝 入来建武
2nd Kembu Iriki

第3位 ルーカス・クビリウス
3rd Lukas Kubilius

第4位 前田 勝汰
4th Shota Maeda

第5位 島本 一二三
5th Kazufumi Shimamoto

第6位 ナザール・ナシロフ
6th Nazar Nasirov

第7位 エドガー・セシンスキー
7th Edgard Secinski

第8位 マシエ・マズール
8th Maciej Mazur

敢闘賞fighting spirit prize 前田 勝汰 Shota Maeda

技能賞technique prize ナザール・ナシロフ Nazar Nasirov

試割り賞shiwari prize
(正拳・足刀・猿臂・手刀:合計)
ブライアン・ヤコブセン Brian Jakobsen
(5枚・7枚・6枚・6枚:24枚)
ルーカス・クビリウス Lukas Kubilius
(5枚・7枚・6枚・6枚:24枚)

女子の部:
優勝 チェンゲ・ジェペシ
1st Csenge zepesi

準優勝 南原 朱里
2nd Juri Minamihara

第3位 佐藤 弥沙希
3th Misaki Sato

第4位 菊川 結衣
4th Yui Kikukawa

敢闘賞fighting spirit prize 南原 朱里 Juri Minamihara

技能賞technique prize 菊川 結衣 Yui Kikukawa

日本人同士の決勝戦はまさに、死闘でした。

初優勝の島本選手、おめでとう!

しかし、似た名称の以下の大会(同じく11回目!)も11月20日~22日までに行われていたようですので(ちなみに島本選手が優勝した大会は11月の頭に行われています)、ここで整理しましょう。

全世界空手道選手権大会(World Open Karate Championship)は、国際空手道連盟 極真会館が主催し、ワールドゲームズの中間年に開催される、無差別級のフルコンタクト空手世界一を決める大会である。
正式名称はオープントーナメント全世界空手道選手権大会とオープン参加を謳っている。(ウイッキペディア)

第1回は1975年11月に東京都体育館(旧)で開催された。
当初は同年3月に日本武道館で開催予定だった。
1979年から87年まで武道館で開催。
91年の第5回大会以降は東京体育館で行われる。
1995年の分裂騒動以降は、各派閥で全世界選手権が個々に開催されている。

歴代入賞者:
1 1975年 1.佐藤勝昭 2.盧山初雄 3.二宮城光 4.大石代悟
2 1979年 1.中村誠 2.三瓶啓二 3.ウィリー・ウィリアムス 4.東孝
3 1984年 1.中村誠(2) 2.三瓶啓二 3.松井章圭 4.アデミール・ダ・コスタ
4 1987年 1.松井章圭 2.アンディ・フグ 3.増田章 4.マイケル・トンプソン
5 1991年 1.緑健児 2.増田章 3.黒澤浩樹 4.ジャン・リビエール
6 1995年 1.八巻建志 2.数見肇 3.フランシスコ・フィリォ 4.ギャリー・オニール
7 1999年1.フランシスコ・フィリォ 2.数見肇 3.アレクサンダー・ピッチュクノヴ 4.グラウベ・フェイトーザ
8 2003年 1.木山仁 2.セルゲイ・プレカノフ 3.エヴェルトン・テイシェイラ 4.グラウベ・フェイトーザ
9 2007年 1.エヴェルトン・テイシェイラ 2.ヤン・ソウクップ 3.アルトゥール・ホヴァニシアン 4.ダルメン・サドヴォカソフ
10 2011年1.タリエル・ニコラシビリ 2.エヴェルトン・テイシェイラ 3.ゴデルジ・カパナーゼ 4.赤石誠
11 2015年 1.ザハリ・ダミヤノフ ジマ・ベルコジャ 2.ダルメン・サドヴォカソフ 3.キリル・コチュネフ

この大会では、上位入賞者は外国人選手の名前ばかりで日本人が出てきませんでしたね。

空手も流派が分裂してから様々な大会が開かれていますので、わかりづらいことこの上もありません。

ただ、大会の特徴の体重無差別・フルコンタクトは、その時点で誰が一番強いのかがはっきりわかります。

もちろん、フルコンタクトといえども、顔面へのパンチや急所攻撃などは厳禁ですが、たまにパンチが顔面にはいることもあり前歯が折れて血まみれという場面もたまにみられますし、鎖骨やわき腹への鋭い突きは骨折もありえます。

さらに、体重差なしのトーナメントですので、中軽量級の選手は完全に不利ですが、それでも手数とスピードとスタミナを武器に健闘しています。

ということで、以下は巨星、大山氏死後の分裂の状況です。

分裂騒動:
1994年4月26日、極真会館の創始者である大山倍達は逝去した。
弟子たちにとって絶対無比のカリスマであった大山を喪失した極真会館では没後間もなく、その後継の座を巡っての主導権争いが始まった。
やがて、団体幹部や支部長、それに準ずるクラスの人物、大山の遺族との間で、団体は四分五裂の様相を呈してゆく。
その後も数多くの人物による分派や独立も続き、「極真」という商標も奪い合いとなり、これらは訴訟係争という事態に繋がっていた。
その他の指導者や一時代を築いた有力選手にも、知名度が上がると共にこのような政治的な争いに巻き込まれることを嫌って「極真」から離れ、独自の空手道を求めていった者が少なくない。

本項ではこれらについて記す。(ウイッキペディア)

1994年:
大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言で松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。
5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫とし、新体制による運営が始まった。
6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行なった。
国内の支部長では9月迄に高木薫ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。

1995年:
2月に高木ら5人の支部長が大山智弥子未亡人を館長とし、結集(遺族派)。
4月に新体制が松井派と、西田・三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派に分裂。
この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。

松井派は中村誠や山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。
8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。
同年から各種大会が松井派と大山派に分裂して開催されるようになった。

1996年以降:
松井派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。
1997年3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。
その間に大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。
協議会派は1997年に西田・増田章が離脱。
さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博・桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸・大石代悟らと全日本極真連合会を発足させる。
協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。
遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。

一方、松井は自派を株式会社化し、正式名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。
2002年に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅・湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。
2005年には水口敏夫・河西泰宏らが、2006年には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。
2008年、木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した。
この期間に黒澤浩樹・小笠原和彦・八巻建志・数見肇が独立し、自派を発足している。
選手ではニコラス・ペタス、野地竜太が離脱した。

現在の状況:
「国際空手道連盟 極真会館」もしくは「極真」を名乗る主な団体として(分裂順)
・極真会館(松井章圭)
・極真会館 宗家(大山喜久子)
・極真大山空手(津浦伸彦)
・新極真会(緑健児)
・極真空手 清武会(西田幸夫)
・社団法人極真会館 全日本極真連合会(小井義和)
・極真会館 増田道場(増田章) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 桑島道場(桑島靖寛) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 木村道場(木村靖彦) ※社団法人極真会館参加協力団体
・NPO法人極真会館 沖縄県支部 七戸道場(七戸康博) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 松島派(松島良一)
・極真会館 安斎グループ(安斎友吉)
・極真会館 手塚グループ(手塚暢人)
・財団法人極真奨学会 極真空手道連盟 極真館(盧山初雄)
・極真会館 極眞會(水口敏夫) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
・極真会館 浜井派(浜井識安) ※財団法人極真奨学会参加協力団体

などが存在している。
また、小規模の道場も含めれば更に増加する。

松井派、宗家、新極真などは、自らが大山の極真空手の唯一の正当後継であると主張しており、他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。
それに反して社団法人極真会館や財団法人極真奨学会は、他の極真諸派の存在を認めようとする団体である。
奨学会には極眞會、浜井派などがそれぞれ参加協力している。
現在、“極真”の商標を巡って、宗家、社団法人極真会館、奨学会らはそれぞれ松井派と係争中である。

なお、この分裂騒動を報道の他では家高康彦が『極真大乱』で、小島一志が『実戦格闘技論』で著している。

極真会館から派生、独立した団体:
以下はあくまでも著名な団体のみを上げる。
こちらも小規模な団体や海外も含めれば更に増加する(独立順)。
・目白ジム (黒崎健時)
・誠道塾 (中村忠)
・佐藤塾 (佐藤勝昭)
・極真武道会 (ジョン・ブルミン)
・芦原会館 (芦原英幸)
・士道館 (添野義二)
・真樹道場 (真樹日佐夫)
・大道塾 (東孝)
・国際大山空手道連盟 (大山茂・大山泰彦)
・拳眞塾 (大川宏)
・徹武館 (田原敬三)
・International Federation of Karate (スティーブ・アニール)
・逆真会館 (山崎照朝)
・ドージョー・カマクラ (ジェラルド・ゴルドー)
・勢和会 (アデミール・ダ・コスタ)
・竹山道場 (竹山晴友)
・聖心館 (黒澤浩樹)
・三浦道場 (三浦美幸)
・八巻空手 (八巻建志)
・数見道場 (数見肇)
・創天会 (小笠原和彦)
・ニコラス・ペタス道場 (ニコラス・ペタス)
・飛鳥道場 (池田雅人)
・究道会館 (堀池典久)
・空手道 高見空手 (高見成昭・高見彰)
・錬空武館 (高久昌義)
・国際安田会館 (安田郁雄)

いやはや、これほど分裂していたとは想像をはるかに超えていました。

16会派が独立して、未だ正統性を主張しあっているようです。

また、大会の名称も似すぎてよくわかりません。

武道に政治的な分裂は似合いませんが、既に分裂して20年が経過しています。

分裂当時に紛争した空手家は引退か後進の指導にあたっているのでしょうが、過去のしがらみに縛られない新しい指導者たちの間で、もう一度仲良く手打ちが出来ないものなのでしょうか?

流派を超えた空手という1つの「武道」を極めた最強の空手家は誰なのか、知りたいのはそれだけです。

もし団体の統一が叶わぬ夢ならば、せめて流派同士間での最強戦トーナメント(各流派から代表者を選ぶ)を2年1度くらい開催して欲しいものです。

そうした地道な交流が、各会派同士の収束につながる可能性大ですので。


では、11-24生まれの有名人です。

1864年アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (仏:画家『ムーラン・ルージュにて』)、1974年山本太郎(俳優,参議院議員)。

これもなつかしいですね。
Bread - Everything I Own
まずは、TEDって聞いたことがありますか?

TED (カンファレンス)は、Youtubeでもみられますが、NHKでも「スーパープレゼンテーション」の番組内でも放映されています。(福山雅治の新妻吹石一恵もみられます!)

TED(テド、英: Technology Entertainment Design)とは、カナダのバンクーバー(過去には米カリフォルニア州ロングビーチ、モントレー)で、毎年大規模な世界的講演会を主催している非営利団体のこと。

TEDが主催している講演会の名称をTED Conference(テド・カンファレンス)と言い、学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物がプレゼンテーションを行なう。
講演会は1984年に極々身内のサロン的集まりとして始まったが、2006年から講演会の内容をインターネット上で無料で動画配信するようになり、それを契機にその名が広く知られるようになった。

講演者には非常に著名な人物も多く、ジェームズ・ワトソン(DNAの二重螺旋構造の共同発見者、ノーベル賞受賞者)、ビル・クリントン(元アメリカ合衆国大統領、政治家)、ジミー・ウェールズ(オンライン百科事典Wikipediaの共同創設者)といった人物がプレゼンテーションを行なっているが、最重要事項はアイディアであり、一般的には無名な人物も数多く選ばれ、プレゼンテーションしている。

講演会に出席するには、審査を受けた上で年会費8,000ドルを支払ってTEDの会員になる必要がある。

歴史:
1984年に、リチャード・ソール・ワーマンとハリー・マークスによって設立された。
1990年から毎年カンファレンスが開催されている。
カンファレンスは、1993年5月7〜9日に神戸で開催されたことがあり(TED 4)、2013年まではカリフォルニア州のモントレーやロングビーチで開催されていた。
2002年の講演会の後にプロジェクトは設立者のワーマンの手を離れ(ワーマンはTEDMEDに専念)、その後、事業はクリス・アンダーソン(WIRED 誌のクリス・アンダーソンとは同姓同名の別人)に引き継がれた。

TED Prize:
TED Prize(TEDプライズ)は、2005年から始まった賞。
2010年までは毎年3人選ばれ、賞金10万ドルとカンファレンス(年会)で記念講演を行った。
2010年に受賞者は1名になった。
2012年は個人ではなく概念に対して贈られた。
2013年に受賞賞金は100万ドルに上がり、世界を鼓舞する願いをもった強いアイデアを叶えるために贈られる。

2005年ボノ(ミュージシャン)、エドワード・バーティンスキー(写真家)、ロバート・フィッシェル(英語版)(医療機器の発明家)

2006年ラリー・ブリリアント(医療活動家)、ジェヘイン・ヌジェーム(英語版)(映画監督)、キャメロン・シンクレア(英語版)(建築家)

2007年ビル・クリントン(政治家)、ジェームズ・ナクトウェイ(戦場カメラマン)、E.O.ウィルソン(生物学者、環境保護支援者)

2008年ニール・テュロック(英語版)(物理学者)、デイヴ・エガーズ(英語版)(作家)、カレン・アームストロング(英語版)(作家)

2009年ジル・ターター(英語版)(SETIディレクター)、シルビア・アール(英語版)(海洋学者)、ホセ・アブラウ(英語版)(音楽家)

2010年ジェイミー・オリバー (料理人)

2011年JR(アーティスト)(英語版)(ストリートアーティスト)

2012年City 2.0(個人ではなく「都市化が進んでいる世界的な現象に接続されているプラットフォーム」という概念)

2013年スガタ・ミトラ(英語版) (インド出身の教育研究者)

2014年シャーミアン・グーチ(英語版)(汚職行為防止活動家)

2015年デイヴ・アイセイ(英語版) (お話し聞こう隊(英語版)創設者)

会場でみるには、まず年間8000ドル(100万円近く)を払って会員にならなければなりません。

しかも、プレゼン後すぐ無料でビデオ配信されるにもかかわらず、大盛況の様です。

その空気感、臨場感、即時性のために大金を払うのですから、あの場にいる観客は金銭的な余裕のある人々だと思って間違いないでしょう。

スピーチも面白いのですが、たまに映る観客の姿をみるのも一興ですね。

因みに私が面白かったプレゼンは、Amy Cuddy[Your body language shapes who you are]とNeil Pasricha[The 3A's of awesome]とSteven Pinker[The surprising decline in violence]とDame Ellen MacArther[The surprising thing I learned sailing solo around the world]etc・・・でした。

語学の勉強にもなりますので、時間のある方は、是非みてみてくださいね。


さて、TV続きで土曜日放送の「掟上今日子の備忘録」が6話(前回)あたりから俄然面白くなってきました。

今回の話は、今日子のツンデレ姿がみられます。

不機嫌な様で「チッ」と舌打ちするところも、厄介にほっぺたを引っ張らせた顔もなぜかかわいい!

そして、毎回の鮮やかな推理。

視聴率はさほどではないようですが、「相棒」、「孤独のグルメ」と並んで楽しみにしている最近の連続ドラマです。

1話完結なので、途中からでもOKですが、気になる方はhuluで視聴もできます!

是非、みてみてね。


それから今日は、野球の3位決定戦が行われました。

侍ジャパン5発7回コールドで3位、山田連発!
韓国戦の憂さ晴らし
スポニチアネックス 11月21日(土)
 ◇「プレミア12」3位決定戦 日本11―1メキシコ(2015年11月21日 東京ドーム)

 国際大会「プレミア12」は21日、東京ドームで3位決定戦が行われ、侍ジャパンはメキシコと対戦。
山田の2打席連続アーチなど本塁打攻勢を掛け11―1で7回コールド勝ち。
19日の準決勝で韓国に逆転負けを喫した侍ジャパンだったが、最終戦は白星で締めた。

 侍ジャパンは序盤から打線が爆発した。
初回、3番山田のソロで先制。
2回は相手失策で1点加点した後に山田が2打席連続となる本塁打を放った。
その後も5番中田と7番松田が2ランで加勢。
この回2死から7点を奪いリードを一気に広げた。

 8―1の6回には6番平田がタイムリー。
7回には1番秋山が無死一塁から“サヨナラコールド”となる2ランを放ちゲームを決めた。

 先発の武田は危なげない投球で3イニングを1安打無失点。
2番手・菅野はソロを浴びたが3回1失点で繋ぎ、山崎康も1回を無失点と盤石リレーでメキシコ打線を封じた。

 ▼「プレミア12」のコールドゲーム 
5回以降15点差以上、また、7回以降10点差以上の点差がついた場合、その時点で試合終了となる。
コールドゲームは3位決定戦には適用されるが、準決勝、決勝では適用されない。

これで韓国戦の鬱憤は晴らせましたかねえ。

そして、今大会の優勝は米国に勝った韓国でした!


それでは、負けた韓国戦の総括をしておきましょうね。

プレミア12。
日本は小久保監督の采配ミスで韓国に負けたのか。
THE PAGE 11月20日(金)

 世界野球「プレミア12」の準決勝で日本は、韓国に土壇場の9回に3点差をひっくり返され敗退、東京ドームに用意されていた決勝へ進むことができなかった。
「継投ミス」と、小久保監督が認めた魔の9回。
なぜ日本は敗れたのか。
そこにはベンチワークのミスや、国際大会の経験不足、人選ミスなど今大会を通じて日本が抱えていた問題が詰まっていた。

 そもそも7回まで1安打11奪三振の圧巻のピッチングで韓国打線を黙らせていた日ハム、大谷を交代させる必要はあったのか。
球数もわずか85球だった。
WBC、北京五輪など国際試合経験の豊かな元千葉ロッテの里崎智也氏は、「球数を考えると続投させない理由はなかった。もしつかまれば、中継ぎ経験のある牧田を挟み、9回の頭から則本という手もあった。
しかし、それよりも問題は今大会を通じて守護神が誰だったのかが、決まっていなかったこと」と、問題点を指摘する。

 小久保監督は、「8、9回を則本で行くことを決めていた」という。
今大会で中継ぎ起用されて素晴らしい結果を残していた楽天の則本の調子と適性を見極めて、2イニング起用を決断したもの。
だが、裏を返せば、楽天の松井裕、横浜DeNAの山崎、日ハムの増井、巨人の澤村と4人も各チームの守護神を呼んだが、誰一人として日本代表チームの守護神と認められなかったということ。
小久保監督の起用経緯を見ると、本音は松井裕を守護神にしたかったようだが、2年目の若き左腕は信頼を勝ち取れなかった。
 
 8回をピシャリと抑えた則本は9回も続投したが、韓国は左の代打攻勢を仕掛けてきた。
先頭は、オ・ジェウォン。チェンジアップをレフト前に運ばれた。
里崎氏は、嶋の配球も疑問だったという。
「そこまでストレートを2球空振りしていました。
ストレートに対して明らかにタイミングがあっていませんでした。
国際試合では、そういうボールはとことんいくのが鉄則。
チェンジアップの選択は疑問でした」。
続く代打、ソン・アソプにもチェンジアップをセンター前へ打たれ、1番に打順が戻って、チョン・グンウに三塁線を破るタイムリーツーベースを浴びるが、このボールもフォークだった。
 
 2点差となって、なお無死二、三塁のピンチで、イ・ヨンギュの内角をえぐった4球目のストレートは、肘に当たったと判定され死球となった。
当たったのか、当たっていないか。
しかも、ストライクゾーンに向かうボールだっただけに微妙な判定だったが、里崎氏は、ここにバッテリーの国際試合における細心の注意が不足していた、と指摘する。

「韓国のバッターは、国際試合において、ああいう場面では平気でぶつかってきます。
ギリギリの内角球は、死球を拾われるので絶対にタブーなんです。
行くなら、低めか、大谷がやっていたような高めの甘いボールを振らせるのが鉄則。
嶋は、国際試合経験がなくわからなかったのであれば、コーチが『内角は行くな』と注意させておくべきことでした」

小久保監督は、試合後、則本が3連打を浴び、左のイ・ヨンギュを迎えた場面で松井にスイッチしておくべきだったと、継投の一手遅れを悔やんだ。
結果、満塁でマウンドに向かった松井は、ここまで3打席連続三振だった3番打者にフルカウントから押し出し四球を与えた。
1点差となって、今度は増井をマウンドに送ったが、イ・デホに、カウント2-2からフォークの配球を読まれてレフト線に逆転の2点タイムリーを許した。

「とことん則本を続投させて“心中”で良かったのではないでしょうか。
松井、増井は、細かい制球力はなく、どちらかと言えば、球威、キレに頼って“えいやあ!”でいくタイプのストッパーです。
そういうピッチャーをイニング途中で、しかも満塁の場面で使うのは酷でした。
ストッパーをしてきたピッチャーは、どこでどう投げるかを伝えられた上で気持ちの整理も含めて準備をします。
今大会では、守護神、中継ぎの役割分担をきっちりとしていなかったため、選手も、いつ、どこで行くかを把握できずに戸惑ったのではないでしょうか。
今後は、選手選考において、イニング途中の起用でも、対応のできる中継ぎのスペシャリストを入れておくべきですし、選手の適正を把握して役割をきっちりと決めておくことでしょう」と里崎氏。

 監督経験のないまま、侍ジャパンの監督に就任した小久保監督は、その経験不足を準決勝という大舞台で采配ミスという形で露呈してしまった。
調子と適性を見極めながら、最強の中継ぎに則本を抜擢したところまでは良かったが、里崎氏が指摘するように大会を通じて、勝利の方程式、守護神を決めきれなかったチームマネジメントのミスが、最後にツケとなって出た。
すべては結果論かもしれないが、結果論で評価されるのが勝負の世界の宿命でもある。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)

勝負は結果が全てですので、監督が勝利の方程式を描ききれなかった、というより誤って描いてしまったのが返す返すも残念です。

リーグを5連勝と負け無しできたことが、逆に采配に慢心を生んでしまったという皮肉な結果となりました。

二度とあってはならない今回の貴重なレッスンは、1つ負けることで、自戒の念をこめて次には注意深くなれるものですが、そうした失敗の経験がないと最初から細心の注意が払えないというのも人間の性、という事実への気づき、ですかね。


では、11-22生まれの有名人です。

1869年アンドレ・ジッド (仏:小説家,評論家『狭き門』)、1893年谷口雅春(宗教家,「生長の家」創始)、1901年ホアキン・ロドリーゴ (スペイン:作曲家『アランフェス協奏曲』)、1904年(小説家『親鸞』『蓮如』)、1931年本多勝一(評論家)、1932年ロバート・ヴォーン (米:俳優)。

ブレッド、名曲のオンパレードですね。
Bread Make It With You
うわっ、昨日理事長のコメント載せたばかりだったのに・・

北の湖理事長が死去、62歳 元横綱・優勝24度
朝日新聞デジタル 11月20日(金)

 大相撲の元横綱で日本相撲協会理事長、北の湖親方の小畑敏満(おばた・としみつ)さんが20日午後6時55分、直腸がんと多臓器不全のため福岡市内の病院で死去した。
62歳だった。葬儀の日取りは未定。

 福岡国際センターで行われている九州場所のため福岡市に滞在していた。
今年7月、腎臓に尿がたまる両側水腎症と診断され、名古屋場所を途中休場。
8月に職務に復帰したが、健康状態が安定していなかった。
九州場所には初日から姿を見せ、前日までは報道対応をこなし、取組の解説もしていた。

 北海道壮瞥(そうべつ)町生まれ。
中学1年だった1966年冬に上京し、三保ケ関部屋に入門。
当時は認められていた中学生力士として、両国中学校に通いながら、67年初場所で初土俵を踏んだ。
71年夏場所で十両昇進。
72年初場所で幕内に昇進するなど、当時の最年少記録を次々と塗り替えた。

 74年名古屋場所後に横綱昇進。
21歳2カ月での最年少記録は、いまだ破られていない。
得意は左四つからの寄りや投げで、ライバルの横綱輪島との熱戦はファンの声援を二分し「輪湖(りんこ)時代」を築いた。
優勝24度は白鵬、大鵬、千代の富士、朝青龍に次ぐ歴代5位。

 現在の国技館のこけら落としとなった、85年初場所中に現役を引退。
横綱在位は史上最長の63場所で、横綱での白星670勝は歴代1位。
幕内804勝(247敗107休)は、魁皇、白鵬、千代の富士に次ぐ歴代4位だった。
その功績から、現役時のしこ名で親方になれる一代年寄となり、北の湖部屋を創設。
元幕内巌雄(山響親方)や幕内北太樹らを育てた。

 2002年2月に理事長に就任。
しかし、08年9月に弟子の元十両白露山が抜き打ち検査で大麻の陽性反応が出た責任を取って辞任。
12年に理事長に復帰すると協会の公益法人化を実現し、不祥事のため低迷していた観客数の増加にも尽力した。

まさに、ピンピンコロリのお手本ですが、62歳は早すぎますね。

ご冥福をお祈りします。合掌。

そして、本場所の方は・・

横綱対決は日馬富士に軍配!
白鵬の連勝12でストップ
スポニチアネックス 11月20日(金)

 大相撲九州場所13日目は20日、福岡国際センターで行われ、ここまでただ一人全勝の白鵬と、1敗で追う日馬富士の両横綱が激突。
日馬富士が寄り倒しで勝利し、単独トップだった白鵬に並んだ。
白鵬の連勝は12でストップ。

 鶴竜と照ノ富士の結びの一番は、照ノ富士が叩き込みで勝利。
敗れた鶴竜はこれで5敗となった。
稀勢の里と豪栄道の大関対決は、寄り切りで豪栄道に軍配。
琴奨菊は妙義龍を小手投げで退けた。

 平幕勢は、松鳳山が逸ノ城を寄り切って2敗をキープ。
3敗の勢は同じく3敗の宝富士を押し出しで破り、2場所連続の2桁勝利を挙げた。

日馬富士が意地を見せてくれました。

果たして「猫だまし横綱」の優勝を阻止できるか!?


続いてこちらは、目出度いお話です。

29歳棋士・吉田正和五段と51歳かるた女王・渡辺令恵さんが結婚
スポーツ報知 11月20日(金)

 競技かるたの第一人者で永世クイーンの渡辺令恵(ふみえ)さん(51)と将棋の吉田正和五段(29)が結婚したことが19日、分かった。
ともに初婚で17日に婚姻届を提出した。
取材に応じた渡辺さんは「かるたも将棋も相手と一対一で向き合う競技なので、夫婦としてもしっかり向き合ってすてきな家庭を築きたいです」と笑顔。
吉田五段は結婚を機に渡辺姓に改姓し、今後は「渡辺正和」の名前で活動する。

 かるたと将棋。
畳の上の勝負の世界に生きる、22歳差カップルが誕生した。
根っから明るい性格の渡辺さんは「明るくて楽しくて笑いがあって、人がたくさん集まってくれるような家庭になったらいいなと思います」と顔をほころばせた。
まだ同居はしていないが、17日に婚姻届を提出。
結婚式、ハネムーンなどは未定だ。

 出会いは昨年1月、将棋の森内俊之竜王・名人(現九段、45)の竜王就位式の席上だった。
森内九段と10年来の友人だった渡辺さんが祝福パーティーに駆け付けると、吉田五段と偶然同じテーブルになった。

 お互い相手の職業を知らないまま談笑していたが、控えめな性格の吉田五段が恥ずかしがって名乗らずにいると、渡辺さんから名刺を渡してあいさつ。
名刺を切らしていた吉田五段は、箸袋に名前を書いて手渡した。
その後、吉田五段から「楽しかったです」とだけメールを送って連絡し、ディズニーシーに一緒に行くなどして交際がスタート。

 控えめな吉田五段だが、渡辺さんとのデートの時はいつも「楽しくて時間がたつのが速かった」と話していたという。
今年5月、吉田五段からプロポーズした。

 それぞれの競技の研究や勉強を重ねながら、2人で将棋を指したり、かるたを取ることも。
独身を貫いてきた渡辺さんは「クイーンだった37歳まで気持ち的に結婚する余裕はありませんでした。
両親も亡くなってこのまま一人なのかな、と思っていましたが、正和さんが家族になってくれて幸せです」と話している。

 神奈川トヨタ自動車株式会社渉外広報部に勤務する渡辺さんは、競技かるた界のレジェンド。
10歳で競技を始め、1988年からクイーンを3連覇した。
93年からは前人未到の11連覇を飾り、永世クイーンに。
クイーン14期は史上最多記録だ。
現在は全日本かるた協会の常務理事を務める傍ら、現役も続けている。

 吉田五段は2005年に棋士養成機関「奨励会」入会。
08年に四段(棋士)昇段を果たした。
11年には王位リーグ入りを果たすなど活躍。
振り飛車も指しこなす居飛車党として今後の飛躍が期待される若手だ。

 ◆吉田 正和(よしだ・まさかず)
1986年1月23日、埼玉県ふじみ野市生まれ。29歳。
神吉宏充七段門下。2005年、奨励会入会。
08年、四段昇段。12年、五段昇段。竜王戦4組。順位戦C級2組。
著書に「これからの角換わり腰掛け銀」。今後は渡辺姓で活動。

 ◆渡辺 令恵(わたなべ・ふみえ)
1964年8月30日、東京都品川区生まれ。51歳。
父の故・雅大さんの指導で10歳から競技かるたを始め、88年にクイーンに。
以降、クイーン14期。札を取る速度から「スピードの女王」の異名がある。
神奈川トヨタ自動車株式会社勤務。

年の差も大きいのですが、各々の業界での実績の差も大きく(妻はは14期のかるたクイーン、夫は一番下の順位戦クラス)ということで、カカア殿下決定です!

ただ、記事の中の「控えめな性格の吉田五段が恥ずかしがって」ってという表現が意外でした。

過去には、こんな名言(暴言?)もありましたので。

<吉田正和名言集>
「タイトル(朝日アマ名人)を取った事に興味は無い」
「もうアマチュアには自分より強いと思える人はいない」
「棒銀ばかりでうんざりしました」
「早く実力に地位が追いついてほしい」

どうです、この放言癖。

まあどれも昔の発言ですので、若気の至りということで、最近はシャイで丸くなったのかな?

また、婿入りということで、渡辺姓も守りました!

お二人の今後の活躍を陰ながら応援しています。


最後は、個人的にうれしいニュースです。

渋谷の街にHMVが復活ーー複合エンタメショップ「HMV&BOOKS TOKYO」潜入レポート
リアルサウンド 11月19日(木)

 11月19日、渋谷の街にHMV旗艦店が進化を遂げて帰ってきた。
その名も「HMV&BOOKS TOKYO」。
渋谷・公園通り「マルイシティ渋谷」跡地にオープンするライフスタイル提案型商業施設「渋谷モディ」内の5階から7階までの3フロアが店舗となる。

 オープンに先がけて11月17日、報道関係者向けの内覧会・説明会が開催された。

 説明会には、ローソンHMVエンタテインメント代表取締役社長・坂本健氏、同社HMV&BOOKS事業本部長・盛谷尚也氏が登壇し、出店の狙いや店舗概要について語った。
ローソンチケットが、HMVの経営を引き継いだのは2010年のこと。
2011年にローソンチケットとHMVを統合したときには、すでに渋谷のHMV旗艦店は撤退した後だった。
「いつの日か渋谷にHMVを戻そう」「今の時代に戻ってくるのであれば、CD専門店ではなく新たな形で戻りたい」との思いを抱きながら、渋谷での新店舗準備を進めてきたという。

 「お店自体が日々編集されていくような、新しい出会いや発見があるショップをつくれないかと検討していたときに、モディのコンセプトと一致した。
フロア内に他店舗が入り、コラボレーションするという点でも一致した」と坂本社長。
各フロアには、カフェや雑貨店、占いコーナーなどが共存している。

 そんな「HMV&BOOKS TOKYO」は、書籍・音楽・映像を起点とした様々なエンタメ体験を、ユーザーに360度で提供する店舗形態が最大のポイントだ。

 まず、多様な商品を陳列した店内構成が、実にユニークである。
CD、DVD、本だけでなく、一人のユーザーがいろいろなものを買える店舗を目指し、店内はコンセプトやテーマでカテゴライズされている。
「世界の食と旅」「生きるヒント」「TOKYOカルチャー」というコンセプトで区切られた各フロアに並ぶ棚には、それぞれテーマが設定されており、CDや書籍とともに文房具や雑貨、エリアによっては食料品が並ぶ。

 音楽関連の商品に関しては、5階と7階を中心に展開されている。
そこでは興味を持った音楽ジャンルやアーティストから派生するCDや書籍をあわせてチェックすることができ、興味の幅を広げることができそうだ。

 すべての商品は、それぞれのエリアの担当者がアイデアを出し合いながらセレクトしているという。
現在の商品構成は、書籍6:CD3:グッズ1。
若干書籍が多いイメージだが、状況を見ながら今後もラインナップを見直し、商品数の増加を行っていくとのこと。

 また、各フロアのイベントスペースで毎日イベントが開催されるというのも面白い試みの一つである。
ライブ、トークショー、セミナー、ワークショップなど、年間の開催本数は約1000本を予定。
取扱商材の幅広さはイベント内容の自由度にもつながり、他店舗では企画できないような様々な切り口のイベント開催が期待される。
7階のイベントスペースには、InterFMのサテライトスタジオが隣接しており、公開生放送も連日行われるそうだ。

 そのような店舗展開へのこだわりとともに、ユーザーの利便性も考慮されているのは、ローソン含め数万店舗をグループに持つ、同社の強みではないだろうか。

 一つは、同社初の試みとして導入されたスマートフォン専用アプリだ。
アプリをダウンロードすると、商品検索、在庫検索、予約、取り寄せを各自のスマートフォン上で行うことができる。
さらに店内のWi-Fiに接続することで、取扱商品の試聴もできるという。
店内設置のタブレット端末でも、商品やイベントに関する情報などを簡単に閲覧することができる。

 さらに、HMVオンラインで注文した商品の当日店頭受取、著名人の声が使われたセルフレジの導入、都内初のローソンチケットカウンターの設置など、ユーザーの利便性につながるサービスも各種用意されている。

 「リアルな場所で、感じながらモノと出会うことを大事にしていきたい」と説明会で坂本社長が述べたように、インターネットですべての物が手に入る時代、店舗に足を運ぶ最大の収穫は「思いがけない出会い」「実体験」である。「HMV&BOOKS TOKYO」は、時代や環境の変化に合わせ、CDショップという言葉だけにおさまらないスタイルの複合ショップとなった。
様々な要素をミックスすることで、ユーザーと音楽との距離を自然と縮め、「思いがけない出会い」「実体験」が起こりやすい環境を作り出している。

 「HMV&BOOKS TOKYO」は、旧HMV渋谷店の存在が大きな影響を与えたように、音楽シーン全体に影響を与えるものとなるか。
音楽好きならずとも、一度足を運び、その新たな空間を体感してみてはいかがだろうか。

首都圏近郊の方は是非、地方の方は上京や出張の際にでもお立ち寄りください。

日本での音楽文化の根を摘んではいけません!


では、11-21生まれの有名人です。

1694年ヴォルテール (仏:哲学者,劇作家,歴史家)、1904年コールマン・ホーキンス (米:ジャズテナーサックス奏者)、1945年ゴールディ・ホーン (英:女優)、1959年ヒクソン・グレイシー (ブラジル:柔術)、1965年ビョーク (アイスランド:歌手)、1992年指原莉乃(タレント(AKB48))。

間違いなく名曲です。
Bread - Baby I'm A Want You