あれから、45年ですか!
2015.11.22
【三島由紀夫事件 没後45年 現代へのメッセージ】
(上)決起した元会員、貫く沈黙
肩の刀傷…今も悔いなく 取り残された会員「無念」
日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。
何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。
憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)
無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。
その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。
理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。
古賀(現荒地)浩靖(68)。
三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。
■ ■
関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。
古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」
古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。
この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。
穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。
むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。
ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。
心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。
そんな印象を持った。
■ ■
口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。
小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。
ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。
目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。
何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。
小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。
三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。
元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。
三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。
「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
■ ■
三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。
決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。
楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。
「びっくりした、の一言」だった。
任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。
取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。
早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。
伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。
「信用できるのはだれだと思うか」。
三島の問いに答えは出てこなかった。
裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。
伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。
「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」
勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。
「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。
死が脳裏をかすめた元会員もいる。
倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。
一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。
元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。
■ ■
三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。
当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。
同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。
倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。
三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。
43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。
小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。
本当に信頼できる人だと思った」と証言している。
伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。
身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。
楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。
それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。
■ ■
三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。
遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。
産経新聞の記事ですが、これはまだ(中)(下)と続きます。
「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
三島の自決から45年経った今も、三島が予言した「亀裂」は大きくはなっていません。
「義のための死」を恐れていないことをまるでショウのように見せるためだけに散らした三島の命、楯の会の多くの若い命を道連れにしなかったことはまだしも幸いでした。
というより、森田のような「三島先生、私はあなたのためなら、自分の命は惜しくありません」と言った性急な変革を求める学生たちの身代わりとして犠牲になることで、若くて純粋な彼らの暴走を止めたかったのかもしれません。
楯の会は、三島が作りはしたものの、三島が頭で考えてた以上にラジカル(過激)になってしまった。
それは、会員たちの若さゆえの怖いもの知らずな純粋と情熱のせいでしょう。
最悪の場合、近い将来2.26事件のような暴挙に出ないとも限らない、それを危惧した三島が、自らけじめをつけるための舞台演出だったなら、犠牲者は少なければ少ないほどいい。
そのために、声をかけた会員は最小で、大事にならないうちに演説も中途半端で終わらせ衝撃的な早い幕引きを行ったのも、すべて納得がいきます。
「君らも事に当たるに割腹自殺するだけの覚悟があるなら突き進め、ないならあきらめろ」という三島の無言の声が聞こえてくるかのようです。
事件関係者が今でも無言を貫いているのも、当時の事に関して口を開けば何も出来なかった自分たちの情けない姿をさらさざるを得ないからなのかもしれません。
思慮深い三島の衝撃的な割腹自殺は、私には三島が最後に見せた「楯の会」の若いメンバーたちへの親心だった気がしてなりません。
次は、4年に一度開かれる空手の世界大会の結果です。
東日本大震災復興支援チャリティー/骨髄バンクチャリティー
第11回オープントーナメント全世界空手道選手権大会
The 11th World Karate Championship
テレビ中継された今大会は11回目ですが、過去はすべて日本人が優勝したようです。
【11回大会入賞結果】
男子:
優勝 島本雄二
1st Yuji Shimamoto
準優勝 入来建武
2nd Kembu Iriki
第3位 ルーカス・クビリウス
3rd Lukas Kubilius
第4位 前田 勝汰
4th Shota Maeda
第5位 島本 一二三
5th Kazufumi Shimamoto
第6位 ナザール・ナシロフ
6th Nazar Nasirov
第7位 エドガー・セシンスキー
7th Edgard Secinski
第8位 マシエ・マズール
8th Maciej Mazur
敢闘賞fighting spirit prize 前田 勝汰 Shota Maeda
技能賞technique prize ナザール・ナシロフ Nazar Nasirov
試割り賞shiwari prize
(正拳・足刀・猿臂・手刀:合計)
ブライアン・ヤコブセン Brian Jakobsen
(5枚・7枚・6枚・6枚:24枚)
ルーカス・クビリウス Lukas Kubilius
(5枚・7枚・6枚・6枚:24枚)
女子の部:
優勝 チェンゲ・ジェペシ
1st Csenge zepesi
準優勝 南原 朱里
2nd Juri Minamihara
第3位 佐藤 弥沙希
3th Misaki Sato
第4位 菊川 結衣
4th Yui Kikukawa
敢闘賞fighting spirit prize 南原 朱里 Juri Minamihara
技能賞technique prize 菊川 結衣 Yui Kikukawa
日本人同士の決勝戦はまさに、死闘でした。
初優勝の島本選手、おめでとう!
しかし、似た名称の以下の大会(同じく11回目!)も11月20日~22日までに行われていたようですので(ちなみに島本選手が優勝した大会は11月の頭に行われています)、ここで整理しましょう。
全世界空手道選手権大会(World Open Karate Championship)は、国際空手道連盟 極真会館が主催し、ワールドゲームズの中間年に開催される、無差別級のフルコンタクト空手世界一を決める大会である。
正式名称はオープントーナメント全世界空手道選手権大会とオープン参加を謳っている。(ウイッキペディア)
第1回は1975年11月に東京都体育館(旧)で開催された。
当初は同年3月に日本武道館で開催予定だった。
1979年から87年まで武道館で開催。
91年の第5回大会以降は東京体育館で行われる。
1995年の分裂騒動以降は、各派閥で全世界選手権が個々に開催されている。
歴代入賞者:
1 1975年 1.佐藤勝昭 2.盧山初雄 3.二宮城光 4.大石代悟
2 1979年 1.中村誠 2.三瓶啓二 3.ウィリー・ウィリアムス 4.東孝
3 1984年 1.中村誠(2) 2.三瓶啓二 3.松井章圭 4.アデミール・ダ・コスタ
4 1987年 1.松井章圭 2.アンディ・フグ 3.増田章 4.マイケル・トンプソン
5 1991年 1.緑健児 2.増田章 3.黒澤浩樹 4.ジャン・リビエール
6 1995年 1.八巻建志 2.数見肇 3.フランシスコ・フィリォ 4.ギャリー・オニール
7 1999年1.フランシスコ・フィリォ 2.数見肇 3.アレクサンダー・ピッチュクノヴ 4.グラウベ・フェイトーザ
8 2003年 1.木山仁 2.セルゲイ・プレカノフ 3.エヴェルトン・テイシェイラ 4.グラウベ・フェイトーザ
9 2007年 1.エヴェルトン・テイシェイラ 2.ヤン・ソウクップ 3.アルトゥール・ホヴァニシアン 4.ダルメン・サドヴォカソフ
10 2011年1.タリエル・ニコラシビリ 2.エヴェルトン・テイシェイラ 3.ゴデルジ・カパナーゼ 4.赤石誠
11 2015年 1.ザハリ・ダミヤノフ ジマ・ベルコジャ 2.ダルメン・サドヴォカソフ 3.キリル・コチュネフ
この大会では、上位入賞者は外国人選手の名前ばかりで日本人が出てきませんでしたね。
空手も流派が分裂してから様々な大会が開かれていますので、わかりづらいことこの上もありません。
ただ、大会の特徴の体重無差別・フルコンタクトは、その時点で誰が一番強いのかがはっきりわかります。
もちろん、フルコンタクトといえども、顔面へのパンチや急所攻撃などは厳禁ですが、たまにパンチが顔面にはいることもあり前歯が折れて血まみれという場面もたまにみられますし、鎖骨やわき腹への鋭い突きは骨折もありえます。
さらに、体重差なしのトーナメントですので、中軽量級の選手は完全に不利ですが、それでも手数とスピードとスタミナを武器に健闘しています。
ということで、以下は巨星、大山氏死後の分裂の状況です。
分裂騒動:
1994年4月26日、極真会館の創始者である大山倍達は逝去した。
弟子たちにとって絶対無比のカリスマであった大山を喪失した極真会館では没後間もなく、その後継の座を巡っての主導権争いが始まった。
やがて、団体幹部や支部長、それに準ずるクラスの人物、大山の遺族との間で、団体は四分五裂の様相を呈してゆく。
その後も数多くの人物による分派や独立も続き、「極真」という商標も奪い合いとなり、これらは訴訟係争という事態に繋がっていた。
その他の指導者や一時代を築いた有力選手にも、知名度が上がると共にこのような政治的な争いに巻き込まれることを嫌って「極真」から離れ、独自の空手道を求めていった者が少なくない。
本項ではこれらについて記す。(ウイッキペディア)
1994年:
大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言で松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。
5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫とし、新体制による運営が始まった。
6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行なった。
国内の支部長では9月迄に高木薫ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。
1995年:
2月に高木ら5人の支部長が大山智弥子未亡人を館長とし、結集(遺族派)。
4月に新体制が松井派と、西田・三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派に分裂。
この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。
松井派は中村誠や山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。
8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。
同年から各種大会が松井派と大山派に分裂して開催されるようになった。
1996年以降:
松井派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。
1997年3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。
その間に大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。
協議会派は1997年に西田・増田章が離脱。
さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博・桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸・大石代悟らと全日本極真連合会を発足させる。
協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。
遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。
一方、松井は自派を株式会社化し、正式名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。
2002年に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅・湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。
2005年には水口敏夫・河西泰宏らが、2006年には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。
2008年、木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した。
この期間に黒澤浩樹・小笠原和彦・八巻建志・数見肇が独立し、自派を発足している。
選手ではニコラス・ペタス、野地竜太が離脱した。
現在の状況:
「国際空手道連盟 極真会館」もしくは「極真」を名乗る主な団体として(分裂順)
・極真会館(松井章圭)
・極真会館 宗家(大山喜久子)
・極真大山空手(津浦伸彦)
・新極真会(緑健児)
・極真空手 清武会(西田幸夫)
・社団法人極真会館 全日本極真連合会(小井義和)
・極真会館 増田道場(増田章) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 桑島道場(桑島靖寛) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 木村道場(木村靖彦) ※社団法人極真会館参加協力団体
・NPO法人極真会館 沖縄県支部 七戸道場(七戸康博) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 松島派(松島良一)
・極真会館 安斎グループ(安斎友吉)
・極真会館 手塚グループ(手塚暢人)
・財団法人極真奨学会 極真空手道連盟 極真館(盧山初雄)
・極真会館 極眞會(水口敏夫) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
・極真会館 浜井派(浜井識安) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
などが存在している。
また、小規模の道場も含めれば更に増加する。
松井派、宗家、新極真などは、自らが大山の極真空手の唯一の正当後継であると主張しており、他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。
それに反して社団法人極真会館や財団法人極真奨学会は、他の極真諸派の存在を認めようとする団体である。
奨学会には極眞會、浜井派などがそれぞれ参加協力している。
現在、“極真”の商標を巡って、宗家、社団法人極真会館、奨学会らはそれぞれ松井派と係争中である。
なお、この分裂騒動を報道の他では家高康彦が『極真大乱』で、小島一志が『実戦格闘技論』で著している。
極真会館から派生、独立した団体:
以下はあくまでも著名な団体のみを上げる。
こちらも小規模な団体や海外も含めれば更に増加する(独立順)。
・目白ジム (黒崎健時)
・誠道塾 (中村忠)
・佐藤塾 (佐藤勝昭)
・極真武道会 (ジョン・ブルミン)
・芦原会館 (芦原英幸)
・士道館 (添野義二)
・真樹道場 (真樹日佐夫)
・大道塾 (東孝)
・国際大山空手道連盟 (大山茂・大山泰彦)
・拳眞塾 (大川宏)
・徹武館 (田原敬三)
・International Federation of Karate (スティーブ・アニール)
・逆真会館 (山崎照朝)
・ドージョー・カマクラ (ジェラルド・ゴルドー)
・勢和会 (アデミール・ダ・コスタ)
・竹山道場 (竹山晴友)
・聖心館 (黒澤浩樹)
・三浦道場 (三浦美幸)
・八巻空手 (八巻建志)
・数見道場 (数見肇)
・創天会 (小笠原和彦)
・ニコラス・ペタス道場 (ニコラス・ペタス)
・飛鳥道場 (池田雅人)
・究道会館 (堀池典久)
・空手道 高見空手 (高見成昭・高見彰)
・錬空武館 (高久昌義)
・国際安田会館 (安田郁雄)
いやはや、これほど分裂していたとは想像をはるかに超えていました。
16会派が独立して、未だ正統性を主張しあっているようです。
また、大会の名称も似すぎてよくわかりません。
武道に政治的な分裂は似合いませんが、既に分裂して20年が経過しています。
分裂当時に紛争した空手家は引退か後進の指導にあたっているのでしょうが、過去のしがらみに縛られない新しい指導者たちの間で、もう一度仲良く手打ちが出来ないものなのでしょうか?
流派を超えた空手という1つの「武道」を極めた最強の空手家は誰なのか、知りたいのはそれだけです。
もし団体の統一が叶わぬ夢ならば、せめて流派同士間での最強戦トーナメント(各流派から代表者を選ぶ)を2年1度くらい開催して欲しいものです。
そうした地道な交流が、各会派同士の収束につながる可能性大ですので。
では、11-24生まれの有名人です。
1864年アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (仏:画家『ムーラン・ルージュにて』)、1974年山本太郎(俳優,参議院議員)。
これもなつかしいですね。
Bread - Everything I Own
2015.11.22
【三島由紀夫事件 没後45年 現代へのメッセージ】
(上)決起した元会員、貫く沈黙
肩の刀傷…今も悔いなく 取り残された会員「無念」
日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。
何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。
憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)
無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。
その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。
理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。
古賀(現荒地)浩靖(68)。
三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。
■ ■
関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。
古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」
古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。
この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。
穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。
むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。
ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。
心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。
そんな印象を持った。
■ ■
口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。
小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。
ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。
目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。
何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。
小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。
三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。
元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。
三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。
「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
■ ■
三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。
決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。
楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。
「びっくりした、の一言」だった。
任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。
取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。
早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。
伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。
「信用できるのはだれだと思うか」。
三島の問いに答えは出てこなかった。
裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。
伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。
「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」
勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。
「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。
死が脳裏をかすめた元会員もいる。
倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。
一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。
元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。
■ ■
三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。
当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。
同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。
倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。
三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。
43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。
小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。
本当に信頼できる人だと思った」と証言している。
伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。
身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。
楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。
それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。
■ ■
三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。
遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。
産経新聞の記事ですが、これはまだ(中)(下)と続きます。
「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
三島の自決から45年経った今も、三島が予言した「亀裂」は大きくはなっていません。
「義のための死」を恐れていないことをまるでショウのように見せるためだけに散らした三島の命、楯の会の多くの若い命を道連れにしなかったことはまだしも幸いでした。
というより、森田のような「三島先生、私はあなたのためなら、自分の命は惜しくありません」と言った性急な変革を求める学生たちの身代わりとして犠牲になることで、若くて純粋な彼らの暴走を止めたかったのかもしれません。
楯の会は、三島が作りはしたものの、三島が頭で考えてた以上にラジカル(過激)になってしまった。
それは、会員たちの若さゆえの怖いもの知らずな純粋と情熱のせいでしょう。
最悪の場合、近い将来2.26事件のような暴挙に出ないとも限らない、それを危惧した三島が、自らけじめをつけるための舞台演出だったなら、犠牲者は少なければ少ないほどいい。
そのために、声をかけた会員は最小で、大事にならないうちに演説も中途半端で終わらせ衝撃的な早い幕引きを行ったのも、すべて納得がいきます。
「君らも事に当たるに割腹自殺するだけの覚悟があるなら突き進め、ないならあきらめろ」という三島の無言の声が聞こえてくるかのようです。
事件関係者が今でも無言を貫いているのも、当時の事に関して口を開けば何も出来なかった自分たちの情けない姿をさらさざるを得ないからなのかもしれません。
思慮深い三島の衝撃的な割腹自殺は、私には三島が最後に見せた「楯の会」の若いメンバーたちへの親心だった気がしてなりません。
次は、4年に一度開かれる空手の世界大会の結果です。
東日本大震災復興支援チャリティー/骨髄バンクチャリティー
第11回オープントーナメント全世界空手道選手権大会
The 11th World Karate Championship
テレビ中継された今大会は11回目ですが、過去はすべて日本人が優勝したようです。
【11回大会入賞結果】
男子:
優勝 島本雄二
1st Yuji Shimamoto
準優勝 入来建武
2nd Kembu Iriki
第3位 ルーカス・クビリウス
3rd Lukas Kubilius
第4位 前田 勝汰
4th Shota Maeda
第5位 島本 一二三
5th Kazufumi Shimamoto
第6位 ナザール・ナシロフ
6th Nazar Nasirov
第7位 エドガー・セシンスキー
7th Edgard Secinski
第8位 マシエ・マズール
8th Maciej Mazur
敢闘賞fighting spirit prize 前田 勝汰 Shota Maeda
技能賞technique prize ナザール・ナシロフ Nazar Nasirov
試割り賞shiwari prize
(正拳・足刀・猿臂・手刀:合計)
ブライアン・ヤコブセン Brian Jakobsen
(5枚・7枚・6枚・6枚:24枚)
ルーカス・クビリウス Lukas Kubilius
(5枚・7枚・6枚・6枚:24枚)
女子の部:
優勝 チェンゲ・ジェペシ
1st Csenge zepesi
準優勝 南原 朱里
2nd Juri Minamihara
第3位 佐藤 弥沙希
3th Misaki Sato
第4位 菊川 結衣
4th Yui Kikukawa
敢闘賞fighting spirit prize 南原 朱里 Juri Minamihara
技能賞technique prize 菊川 結衣 Yui Kikukawa
日本人同士の決勝戦はまさに、死闘でした。
初優勝の島本選手、おめでとう!
しかし、似た名称の以下の大会(同じく11回目!)も11月20日~22日までに行われていたようですので(ちなみに島本選手が優勝した大会は11月の頭に行われています)、ここで整理しましょう。
全世界空手道選手権大会(World Open Karate Championship)は、国際空手道連盟 極真会館が主催し、ワールドゲームズの中間年に開催される、無差別級のフルコンタクト空手世界一を決める大会である。
正式名称はオープントーナメント全世界空手道選手権大会とオープン参加を謳っている。(ウイッキペディア)
第1回は1975年11月に東京都体育館(旧)で開催された。
当初は同年3月に日本武道館で開催予定だった。
1979年から87年まで武道館で開催。
91年の第5回大会以降は東京体育館で行われる。
1995年の分裂騒動以降は、各派閥で全世界選手権が個々に開催されている。
歴代入賞者:
1 1975年 1.佐藤勝昭 2.盧山初雄 3.二宮城光 4.大石代悟
2 1979年 1.中村誠 2.三瓶啓二 3.ウィリー・ウィリアムス 4.東孝
3 1984年 1.中村誠(2) 2.三瓶啓二 3.松井章圭 4.アデミール・ダ・コスタ
4 1987年 1.松井章圭 2.アンディ・フグ 3.増田章 4.マイケル・トンプソン
5 1991年 1.緑健児 2.増田章 3.黒澤浩樹 4.ジャン・リビエール
6 1995年 1.八巻建志 2.数見肇 3.フランシスコ・フィリォ 4.ギャリー・オニール
7 1999年1.フランシスコ・フィリォ 2.数見肇 3.アレクサンダー・ピッチュクノヴ 4.グラウベ・フェイトーザ
8 2003年 1.木山仁 2.セルゲイ・プレカノフ 3.エヴェルトン・テイシェイラ 4.グラウベ・フェイトーザ
9 2007年 1.エヴェルトン・テイシェイラ 2.ヤン・ソウクップ 3.アルトゥール・ホヴァニシアン 4.ダルメン・サドヴォカソフ
10 2011年1.タリエル・ニコラシビリ 2.エヴェルトン・テイシェイラ 3.ゴデルジ・カパナーゼ 4.赤石誠
11 2015年 1.ザハリ・ダミヤノフ ジマ・ベルコジャ 2.ダルメン・サドヴォカソフ 3.キリル・コチュネフ
この大会では、上位入賞者は外国人選手の名前ばかりで日本人が出てきませんでしたね。
空手も流派が分裂してから様々な大会が開かれていますので、わかりづらいことこの上もありません。
ただ、大会の特徴の体重無差別・フルコンタクトは、その時点で誰が一番強いのかがはっきりわかります。
もちろん、フルコンタクトといえども、顔面へのパンチや急所攻撃などは厳禁ですが、たまにパンチが顔面にはいることもあり前歯が折れて血まみれという場面もたまにみられますし、鎖骨やわき腹への鋭い突きは骨折もありえます。
さらに、体重差なしのトーナメントですので、中軽量級の選手は完全に不利ですが、それでも手数とスピードとスタミナを武器に健闘しています。
ということで、以下は巨星、大山氏死後の分裂の状況です。
分裂騒動:
1994年4月26日、極真会館の創始者である大山倍達は逝去した。
弟子たちにとって絶対無比のカリスマであった大山を喪失した極真会館では没後間もなく、その後継の座を巡っての主導権争いが始まった。
やがて、団体幹部や支部長、それに準ずるクラスの人物、大山の遺族との間で、団体は四分五裂の様相を呈してゆく。
その後も数多くの人物による分派や独立も続き、「極真」という商標も奪い合いとなり、これらは訴訟係争という事態に繋がっていた。
その他の指導者や一時代を築いた有力選手にも、知名度が上がると共にこのような政治的な争いに巻き込まれることを嫌って「極真」から離れ、独自の空手道を求めていった者が少なくない。
本項ではこれらについて記す。(ウイッキペディア)
1994年:
大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言で松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。
5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫とし、新体制による運営が始まった。
6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行なった。
国内の支部長では9月迄に高木薫ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。
1995年:
2月に高木ら5人の支部長が大山智弥子未亡人を館長とし、結集(遺族派)。
4月に新体制が松井派と、西田・三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派に分裂。
この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。
松井派は中村誠や山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。
8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。
同年から各種大会が松井派と大山派に分裂して開催されるようになった。
1996年以降:
松井派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。
1997年3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。
その間に大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。
協議会派は1997年に西田・増田章が離脱。
さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博・桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸・大石代悟らと全日本極真連合会を発足させる。
協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。
遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。
一方、松井は自派を株式会社化し、正式名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。
2002年に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅・湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。
2005年には水口敏夫・河西泰宏らが、2006年には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。
2008年、木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した。
この期間に黒澤浩樹・小笠原和彦・八巻建志・数見肇が独立し、自派を発足している。
選手ではニコラス・ペタス、野地竜太が離脱した。
現在の状況:
「国際空手道連盟 極真会館」もしくは「極真」を名乗る主な団体として(分裂順)
・極真会館(松井章圭)
・極真会館 宗家(大山喜久子)
・極真大山空手(津浦伸彦)
・新極真会(緑健児)
・極真空手 清武会(西田幸夫)
・社団法人極真会館 全日本極真連合会(小井義和)
・極真会館 増田道場(増田章) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 桑島道場(桑島靖寛) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 木村道場(木村靖彦) ※社団法人極真会館参加協力団体
・NPO法人極真会館 沖縄県支部 七戸道場(七戸康博) ※社団法人極真会館参加協力団体
・極真会館 松島派(松島良一)
・極真会館 安斎グループ(安斎友吉)
・極真会館 手塚グループ(手塚暢人)
・財団法人極真奨学会 極真空手道連盟 極真館(盧山初雄)
・極真会館 極眞會(水口敏夫) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
・極真会館 浜井派(浜井識安) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
などが存在している。
また、小規模の道場も含めれば更に増加する。
松井派、宗家、新極真などは、自らが大山の極真空手の唯一の正当後継であると主張しており、他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。
それに反して社団法人極真会館や財団法人極真奨学会は、他の極真諸派の存在を認めようとする団体である。
奨学会には極眞會、浜井派などがそれぞれ参加協力している。
現在、“極真”の商標を巡って、宗家、社団法人極真会館、奨学会らはそれぞれ松井派と係争中である。
なお、この分裂騒動を報道の他では家高康彦が『極真大乱』で、小島一志が『実戦格闘技論』で著している。
極真会館から派生、独立した団体:
以下はあくまでも著名な団体のみを上げる。
こちらも小規模な団体や海外も含めれば更に増加する(独立順)。
・目白ジム (黒崎健時)
・誠道塾 (中村忠)
・佐藤塾 (佐藤勝昭)
・極真武道会 (ジョン・ブルミン)
・芦原会館 (芦原英幸)
・士道館 (添野義二)
・真樹道場 (真樹日佐夫)
・大道塾 (東孝)
・国際大山空手道連盟 (大山茂・大山泰彦)
・拳眞塾 (大川宏)
・徹武館 (田原敬三)
・International Federation of Karate (スティーブ・アニール)
・逆真会館 (山崎照朝)
・ドージョー・カマクラ (ジェラルド・ゴルドー)
・勢和会 (アデミール・ダ・コスタ)
・竹山道場 (竹山晴友)
・聖心館 (黒澤浩樹)
・三浦道場 (三浦美幸)
・八巻空手 (八巻建志)
・数見道場 (数見肇)
・創天会 (小笠原和彦)
・ニコラス・ペタス道場 (ニコラス・ペタス)
・飛鳥道場 (池田雅人)
・究道会館 (堀池典久)
・空手道 高見空手 (高見成昭・高見彰)
・錬空武館 (高久昌義)
・国際安田会館 (安田郁雄)
いやはや、これほど分裂していたとは想像をはるかに超えていました。
16会派が独立して、未だ正統性を主張しあっているようです。
また、大会の名称も似すぎてよくわかりません。
武道に政治的な分裂は似合いませんが、既に分裂して20年が経過しています。
分裂当時に紛争した空手家は引退か後進の指導にあたっているのでしょうが、過去のしがらみに縛られない新しい指導者たちの間で、もう一度仲良く手打ちが出来ないものなのでしょうか?
流派を超えた空手という1つの「武道」を極めた最強の空手家は誰なのか、知りたいのはそれだけです。
もし団体の統一が叶わぬ夢ならば、せめて流派同士間での最強戦トーナメント(各流派から代表者を選ぶ)を2年1度くらい開催して欲しいものです。
そうした地道な交流が、各会派同士の収束につながる可能性大ですので。
では、11-24生まれの有名人です。
1864年アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (仏:画家『ムーラン・ルージュにて』)、1974年山本太郎(俳優,参議院議員)。
これもなつかしいですね。
Bread - Everything I Own


