この問題も早く決着つけなきゃ。
新国立競技場
コスト高、難工事…計画迷走に建築家、ゼネコンから異議噴出
産経新聞 6月19日(金)
2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場(東京都新宿区)の設計案をめぐる議論が紛糾している。
国際コンペを勝ち抜いたのはイラク出身で英国在住の女性建築家、ザハ・ハディド氏(64)の作品。
競輪選手のヘルメットのような流線的で斬新なデザインだ。
同氏は国際コンペで優勝してもデザインが奇抜すぎて立ち消えになった建築も多く、「アンビルト(実現しない建築)の女王」の異名を持つ。
コストや工期の厳しい制約の中で、五輪のシンボルまで「アンビルト」になり果てるのか。
■コンペの審査員も課題を認識
「日本のゼネコンの技術は世界最高水準といわれる。
極めて難易度の高い工事だが、作れないことはない。
むしろ最大の問題はコスト。
あの設計案では莫大(ばくだい)なコストがかかることは明白だったはずだ」。
大手ゼネコンの関係者は建設計画の迷走を嘆く。
時計の針を3年前に戻す。
12年7月、文部科学省の外郭団体である日本スポーツ振興センター(JSC)は新国立競技場の国際デザインコンクール(コンペ)を実施すると発表した。
審査委員は10人で、建築や都市工学などの専門家で構成。
委員長に就いたのが日本を代表する建築家、安藤忠雄氏だった。
コンペの応募は9月に締め切られ、国内外から46点の設計案が届いた。
11点が進んだ11月の最終審査では、ザハ氏の案のほか、豪州と日本の設計事務所の案の3点が残った。
審査員はザハ案について「強烈」「斬新」と評価しながらも「コストが懸念」「修正が必要」と不安要素も口にし、決選投票でも票は割れた。
結局、最後は安藤氏の“裁定”によりザハ氏の案を最優秀賞とした。
安藤氏は審査講評でこのデザインを「日本の閉塞(へいそく)的な状況を打ち破れる」と高く評価した上で「相当な技術力が必要。日本でできれば世界へのインパクトがある」と付け加えた。
安藤氏を含む複数の審査員がコスト面や技術面での問題を認識していたことになる。
■コスト跳ね上げた2本の「橋」 費用負担めぐり紛糾
JSCは当初、建設費を1300億円と見積もり、コンペを実施した。
だが、国際オリンピック委員会(IOC)の総会で開催地が東京に決定した直後の13年秋、これが3000億円に膨らむことが明るみに出た。
ザハ氏の奇抜なデザインが見積もり額を押し上げたことは明らかだ。
さらにこの案は、コストを跳ね上げる決定的な問題を抱えていた。
開閉式の屋根を形成するために競技場の屋根部分に架ける2本のアーチ、つまり「橋」のことだ。
長さは1本400メートルもあり、鋼材の使用量はおよそ2万トンに上る。
さらに本来は建物に使う技術でないため、難工事は必至だ。
「建築工事というより、むしろ大規模な土木工事のたぐいのもの。
お金がかかるのは当たり前だ」。
ある建築家はこう指摘する。
その後、JSCの有識者会議でザハ氏の案は変更。
面積を4分の3に縮め、高さも低くするなど規模を縮小。
総工費を1625億円にまで圧縮した。
だが、折からの人件費や資材費の高騰もあって、この額は2500億~3000億円に膨らむのではとみられる。
建設費が1000億円を超える競技場はほとんど前例がなく、横浜市の日産スタジアムが約600億円、「鳥の巣」といわれた北京五輪スタジアムも500億円程度だ。
費用負担をめぐっては舛添要一都知事と下村博文文部科学相との対立も勃発。
下村文科相は先月、開閉式屋根の設置を先送りにすると明らかにしたうえで、舛添知事に500億円超の負担を要請。
これに舛添知事が猛反発したのだ。
また、もともと新国立競技場は2019年のラグビーワールドカップ(W杯)のために検討された施設。
工期の制約が厳しくなる中で、東京五輪組織委員会会長で日本ラグビー協会会長も務める森喜朗元首相は「W杯に間に合わせてもらわないといけない」との姿勢を崩さない。
だが、19年までに完成させるには突貫工事が必要で、「さらに建設費がかさむ」(大手ゼネコン)ことは確実だ。
■屋根か工期か、迫られる「妥協」
自らの設計案が火種となったザハ氏は、22歳でイラクから英国に渡り、30歳で設計事務所を立ち上げた。
出世作となった香港のレジャー施設「ザ・ピーク」は1983年の国際コンペで優勝したが資金不足で実現しなかった。
94年のコンペで最優秀作となった英カーディフのオペラハウスも、地元の反対で頓挫。
予算や施工能力の問題からこうした「アンビルト」が国内外に点在している。
それでも、「脱構築主義」と旗手といわれる同氏のデザインへの評価は国際的に高く、2004年には「建築界のノーベル賞」といわれる米プリツカー賞を女性で初めて受賞し、09年には高松宮殿下記念世界文化賞も受賞。
今や世界有数の建築家だ。
それでもザハ氏の新国立競技場の設計案をめぐっては、同じ建築家の世界から異論が噴出する。
「巨大すぎる。地球から姿を消した恐竜のようだ」。
同じくプリツカー賞の受賞歴がある重鎮、槇文彦氏(86)らのグループはコストや景観問題を理由に一貫して計画に反対。
開閉式屋根やアーチを見直すよう提言している。
一方でザハ氏の事務所は共同通信の取材に「大幅な設計変更には1年かかる。非現実的な選択肢でコスト削減につながる保証もない」とコメントしている。
また、ザハ氏の才能を見いだしたといわれる磯崎新氏(83)は当初案からの設計変更を経た現行案に対し、「当初のダイナミズムが失せ、列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿にいたく失望した」と痛烈に批判している。
迷走を続ける新国立競技場の設計案。
設計に関わる関係者からはこんな声も上がり始めた。
「まさに『船頭多くして船山に登る』だ。
『金ならいくらかかってもいいから作れ』なのか、『予算の範囲内で抑えろ』なのか、『工期は絶対間に合わせろ』なのか。コスト、工期、設計内容のうち、どこかで妥協しなければ計画は前に進まない」(田端素央)
予算、工期、デザインと現状ではすべてに問題のある建物。
ということで、この判断は妥当だと思います。
新国立競技場、現行デザイン見直しも…文科相
読売新聞 6月22日(月)
2020年東京五輪・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場の建設を巡り、下村文部科学相は22日の閣議後記者会見で、「(建築家の)槙文彦氏らのグループ案が実現可能なのかを含め、1週間くらいで最終決定しなければならない」と述べ、コスト高騰の要因とされている現行デザインの見直しを検討していることを明らかにした。
この問題では、巨大アーチの骨組みなど現行デザインが総工費の高騰や工期の長期化を招いていると指摘され、槙氏らが、巨大アーチを用いないデザインにすべきだと提言していた。
これまで下村文科相は、現行案のまま計画を進める考えを強調していたが、「コストダウンを含めて調整できる部分があれば調整したい。
間に合うかどうかについて専門担当者に調査をしてもらっている」などと述べ、柔軟に検討していく考えを示した。
通常スタジアムの3倍以上の費用をかけてまで外観にこだわる必要はありません。
建築家は斬新性のあるデザインでしか自己主張できませんので、彼らの頭の中にはコストや工期は二の次でしょう。
であるなら、主導サイドとしての優先順位をきちんとつけるべきです。
工期>コスト>デザインと。
まず、会場はオリンピックに間に合わせるために作るということが第一目的であり、その費用負担は国民の税金であるのだからできるだけ出費を抑える工夫が求められるべきで、デザイナーの自己満足を満たすためにこのプロジェクトが存在しているわけではないという自然な理屈から導かれる帰結です。
「船頭多くして船山に登る」とは、うまく表現したものですね。
さて、今日は恋多き女、ジョセフィーヌの誕生日です。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(フランス語: Joséphine de Beauharnais、1763年6月23日 - 1814年5月29日)は、フランス皇后。
ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。
恋多き女:
フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれ。
祖父の代から母国を離れたクレオールの出身。
結婚前の正式名は、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)だった。
貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、大変な浪費家でもあった。
生家は貴族といっても名ばかりであり困窮していた。
1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたが、当初から夫婦仲が悪く、1783年に離婚した。
後にボアルネ子爵は、フランス革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑されてしまう。
離婚後、マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島での暴動の多発に不安を感じてフランスに戻ったが、夫や友人の助命嘆願が罪に問われてカルム監獄に投獄されてしまう。
獄中では、ルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったと伝わる。
しかし、ロベスピエールが処刑されたことにより、8月3日に釈放された。
その後、生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となり、親友のテレーズ・カバリュス、ジュリエット・レカミエと並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。
このころ、年下のナポレオンの求婚を受け1796年に結婚。
バラスが彼女に飽きてナポレオンに押しつけたともいう。
この結婚について、ウジェーヌは反対、オルタンスは賛成だったと伝えられている。
しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。
そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。
イタリア遠征中にナポレオンが彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。
ナポレオンに戦場へ来るように何回も促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。
それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。
ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。
大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。
しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったのだが、この直後のブリュメールのクーデタを成功に導くための要人対策に広い人脈があったジョゼフィーヌも一役買っている。
ジョゼフィーヌは、初めの離婚騒動あたりから徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。
フランス皇后:
1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。
その後ナポレオンは、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルやポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれた事などもあり、1810年1月には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。
離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だった。
それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァル女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。
マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。
離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリア・ルイーザが嫉妬するほどだった。
ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が百日天下でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死、マルメゾン市内のサン・ピエール=サン・ポール教会に埋葬された。
最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だった。
そのナポレオンが配流先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」だった。
家族:
ジョゼフィーヌが前夫ボアルネ子爵との間にもうけた娘オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚してオランダ王妃となり、後に皇帝ナポレオン3世となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。
1810年にオルタンスはルイ・ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
息子ウジェーヌはナポレオンの養子となり、イタリア副王にまで出世した。
その後バイエルン王マクシミリアン1世の娘アウグステ王女と結婚し、その長女のジョゼフィーヌはスウェーデン王オスカル1世の王妃となった。
逸話:
・少女時代、占い師に「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる」と言われたことがある。
・結婚時、ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳だった。
ところが夫は2歳年上に、妻は4歳年下にさばをよみ、同い年の28歳として結婚証明書を提出した。
・虫歯がひどいため、口を大きく開けないか隠すようにふるまっていたが、これが彼女の仕草に優雅さを与えていたという。
・ナポレオンとの新婚当初に彼女が飼っていた「フォルチュネ(幸運)」という犬が、ベッドに入り込み夫の足に噛みついたことがある。
・彼女は大変にバラが好きで、250種類のバラをマルメゾン城の庭に植えていたという。
また自らバラを愛でるだけでなく、後世の人々のためにと、集めたバラを植物画家ルドゥーテに描かせて記録に残している。
今日でもバラには『ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ』という品種がある。
・イタリア遠征時からジョゼフィーヌは「勝利の女神」と呼ばれるようになり、験のいい存在としてあがめられていた。
ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚したとき、古参兵たちは「なんでばあさん(兵士たちはジョゼフィーヌを親しみをこめてこう呼んだ)と別れちまうんだ、ばあさんは皇帝もおれたちも幸せにしてくれたのに」とぼやいたという。
また、飾らない朗らかな人柄で将兵たちや国民の人気も高かった。
・人脈の豊富さという強みと、浪費や男癖という弱みにつけこまれ、ジョゼフ・フーシェに強請られて情報提供をしていたことがある。
・「ジョゼフィーヌ」という呼び名は、名前の一部であるジョゼフの女性形であり、ナポレオンが呼び始めたものである。
それまではローズと呼ばれていた。
・ナポレオンがエルバ島に流された後、多くの者がナポレオンを見限った中、最も親身に援助していたのは他ならぬジョゼフィーヌであった。
・ナポレオンの夜食にと思い、寝室でチーズを出したものの、そのチーズは匂いがきつかったため、匂いの臭さでうなされたナポレオンが寝言で「ジョセフィーヌ、今夜は勘弁してくれ!」と言ったそうだ。
(ウイッキペディア)
この人物紹介が正確なら、ジョセフィーヌの自由奔放さもさることながら、ナポレオンが無敵の皇帝というとっつきにくいイメージではなく、一人の女性を心底愛したやさしい男として再イメージされますね。
それにしても、ジョセフィーヌは16歳で初婚、20歳で離婚、それから愛人生活を続け、32歳でナポレオンと再婚、浮気がばれて47歳で離婚というまさに「恋多き女」をまっとうした人生でした。
そしてお互いの最後の言葉に、相手の名前がでてくるところは泣かせます。
では、6-23生まれの有名人です。
1763年ジョゼフィーヌ (仏:ナポレオン1世の妻)、1859年エドゥアール・ミシュラン (仏:経営者,ミシュランタイヤ創業,旅行案内書「ミシュラン・ガイド」発刊)、1891年岸田劉生(洋画家『麗子五歳之像』)、1935年筑紫哲也(ジャーナリスト)、1936年リチャード・バック (米:小説家『かもめのジョナサン』)、1958年ジョージ高野(高野攘治)(プロレス)、1974年Ryu(韓国:歌手)、2004年芦田愛菜(子役)。
おめでとう!
バリー・マニローの名曲ですが、表現力はさすがです。
Dionne Warwick "I'll Never Love This Way Again"
新国立競技場
コスト高、難工事…計画迷走に建築家、ゼネコンから異議噴出
産経新聞 6月19日(金)
2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場(東京都新宿区)の設計案をめぐる議論が紛糾している。
国際コンペを勝ち抜いたのはイラク出身で英国在住の女性建築家、ザハ・ハディド氏(64)の作品。
競輪選手のヘルメットのような流線的で斬新なデザインだ。
同氏は国際コンペで優勝してもデザインが奇抜すぎて立ち消えになった建築も多く、「アンビルト(実現しない建築)の女王」の異名を持つ。
コストや工期の厳しい制約の中で、五輪のシンボルまで「アンビルト」になり果てるのか。
■コンペの審査員も課題を認識
「日本のゼネコンの技術は世界最高水準といわれる。
極めて難易度の高い工事だが、作れないことはない。
むしろ最大の問題はコスト。
あの設計案では莫大(ばくだい)なコストがかかることは明白だったはずだ」。
大手ゼネコンの関係者は建設計画の迷走を嘆く。
時計の針を3年前に戻す。
12年7月、文部科学省の外郭団体である日本スポーツ振興センター(JSC)は新国立競技場の国際デザインコンクール(コンペ)を実施すると発表した。
審査委員は10人で、建築や都市工学などの専門家で構成。
委員長に就いたのが日本を代表する建築家、安藤忠雄氏だった。
コンペの応募は9月に締め切られ、国内外から46点の設計案が届いた。
11点が進んだ11月の最終審査では、ザハ氏の案のほか、豪州と日本の設計事務所の案の3点が残った。
審査員はザハ案について「強烈」「斬新」と評価しながらも「コストが懸念」「修正が必要」と不安要素も口にし、決選投票でも票は割れた。
結局、最後は安藤氏の“裁定”によりザハ氏の案を最優秀賞とした。
安藤氏は審査講評でこのデザインを「日本の閉塞(へいそく)的な状況を打ち破れる」と高く評価した上で「相当な技術力が必要。日本でできれば世界へのインパクトがある」と付け加えた。
安藤氏を含む複数の審査員がコスト面や技術面での問題を認識していたことになる。
■コスト跳ね上げた2本の「橋」 費用負担めぐり紛糾
JSCは当初、建設費を1300億円と見積もり、コンペを実施した。
だが、国際オリンピック委員会(IOC)の総会で開催地が東京に決定した直後の13年秋、これが3000億円に膨らむことが明るみに出た。
ザハ氏の奇抜なデザインが見積もり額を押し上げたことは明らかだ。
さらにこの案は、コストを跳ね上げる決定的な問題を抱えていた。
開閉式の屋根を形成するために競技場の屋根部分に架ける2本のアーチ、つまり「橋」のことだ。
長さは1本400メートルもあり、鋼材の使用量はおよそ2万トンに上る。
さらに本来は建物に使う技術でないため、難工事は必至だ。
「建築工事というより、むしろ大規模な土木工事のたぐいのもの。
お金がかかるのは当たり前だ」。
ある建築家はこう指摘する。
その後、JSCの有識者会議でザハ氏の案は変更。
面積を4分の3に縮め、高さも低くするなど規模を縮小。
総工費を1625億円にまで圧縮した。
だが、折からの人件費や資材費の高騰もあって、この額は2500億~3000億円に膨らむのではとみられる。
建設費が1000億円を超える競技場はほとんど前例がなく、横浜市の日産スタジアムが約600億円、「鳥の巣」といわれた北京五輪スタジアムも500億円程度だ。
費用負担をめぐっては舛添要一都知事と下村博文文部科学相との対立も勃発。
下村文科相は先月、開閉式屋根の設置を先送りにすると明らかにしたうえで、舛添知事に500億円超の負担を要請。
これに舛添知事が猛反発したのだ。
また、もともと新国立競技場は2019年のラグビーワールドカップ(W杯)のために検討された施設。
工期の制約が厳しくなる中で、東京五輪組織委員会会長で日本ラグビー協会会長も務める森喜朗元首相は「W杯に間に合わせてもらわないといけない」との姿勢を崩さない。
だが、19年までに完成させるには突貫工事が必要で、「さらに建設費がかさむ」(大手ゼネコン)ことは確実だ。
■屋根か工期か、迫られる「妥協」
自らの設計案が火種となったザハ氏は、22歳でイラクから英国に渡り、30歳で設計事務所を立ち上げた。
出世作となった香港のレジャー施設「ザ・ピーク」は1983年の国際コンペで優勝したが資金不足で実現しなかった。
94年のコンペで最優秀作となった英カーディフのオペラハウスも、地元の反対で頓挫。
予算や施工能力の問題からこうした「アンビルト」が国内外に点在している。
それでも、「脱構築主義」と旗手といわれる同氏のデザインへの評価は国際的に高く、2004年には「建築界のノーベル賞」といわれる米プリツカー賞を女性で初めて受賞し、09年には高松宮殿下記念世界文化賞も受賞。
今や世界有数の建築家だ。
それでもザハ氏の新国立競技場の設計案をめぐっては、同じ建築家の世界から異論が噴出する。
「巨大すぎる。地球から姿を消した恐竜のようだ」。
同じくプリツカー賞の受賞歴がある重鎮、槇文彦氏(86)らのグループはコストや景観問題を理由に一貫して計画に反対。
開閉式屋根やアーチを見直すよう提言している。
一方でザハ氏の事務所は共同通信の取材に「大幅な設計変更には1年かかる。非現実的な選択肢でコスト削減につながる保証もない」とコメントしている。
また、ザハ氏の才能を見いだしたといわれる磯崎新氏(83)は当初案からの設計変更を経た現行案に対し、「当初のダイナミズムが失せ、列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿にいたく失望した」と痛烈に批判している。
迷走を続ける新国立競技場の設計案。
設計に関わる関係者からはこんな声も上がり始めた。
「まさに『船頭多くして船山に登る』だ。
『金ならいくらかかってもいいから作れ』なのか、『予算の範囲内で抑えろ』なのか、『工期は絶対間に合わせろ』なのか。コスト、工期、設計内容のうち、どこかで妥協しなければ計画は前に進まない」(田端素央)
予算、工期、デザインと現状ではすべてに問題のある建物。
ということで、この判断は妥当だと思います。
新国立競技場、現行デザイン見直しも…文科相
読売新聞 6月22日(月)
2020年東京五輪・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場の建設を巡り、下村文部科学相は22日の閣議後記者会見で、「(建築家の)槙文彦氏らのグループ案が実現可能なのかを含め、1週間くらいで最終決定しなければならない」と述べ、コスト高騰の要因とされている現行デザインの見直しを検討していることを明らかにした。
この問題では、巨大アーチの骨組みなど現行デザインが総工費の高騰や工期の長期化を招いていると指摘され、槙氏らが、巨大アーチを用いないデザインにすべきだと提言していた。
これまで下村文科相は、現行案のまま計画を進める考えを強調していたが、「コストダウンを含めて調整できる部分があれば調整したい。
間に合うかどうかについて専門担当者に調査をしてもらっている」などと述べ、柔軟に検討していく考えを示した。
通常スタジアムの3倍以上の費用をかけてまで外観にこだわる必要はありません。
建築家は斬新性のあるデザインでしか自己主張できませんので、彼らの頭の中にはコストや工期は二の次でしょう。
であるなら、主導サイドとしての優先順位をきちんとつけるべきです。
工期>コスト>デザインと。
まず、会場はオリンピックに間に合わせるために作るということが第一目的であり、その費用負担は国民の税金であるのだからできるだけ出費を抑える工夫が求められるべきで、デザイナーの自己満足を満たすためにこのプロジェクトが存在しているわけではないという自然な理屈から導かれる帰結です。
「船頭多くして船山に登る」とは、うまく表現したものですね。
さて、今日は恋多き女、ジョセフィーヌの誕生日です。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(フランス語: Joséphine de Beauharnais、1763年6月23日 - 1814年5月29日)は、フランス皇后。
ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。
恋多き女:
フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれ。
祖父の代から母国を離れたクレオールの出身。
結婚前の正式名は、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)だった。
貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、大変な浪費家でもあった。
生家は貴族といっても名ばかりであり困窮していた。
1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたが、当初から夫婦仲が悪く、1783年に離婚した。
後にボアルネ子爵は、フランス革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑されてしまう。
離婚後、マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島での暴動の多発に不安を感じてフランスに戻ったが、夫や友人の助命嘆願が罪に問われてカルム監獄に投獄されてしまう。
獄中では、ルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったと伝わる。
しかし、ロベスピエールが処刑されたことにより、8月3日に釈放された。
その後、生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となり、親友のテレーズ・カバリュス、ジュリエット・レカミエと並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。
このころ、年下のナポレオンの求婚を受け1796年に結婚。
バラスが彼女に飽きてナポレオンに押しつけたともいう。
この結婚について、ウジェーヌは反対、オルタンスは賛成だったと伝えられている。
しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。
そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。
イタリア遠征中にナポレオンが彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。
ナポレオンに戦場へ来るように何回も促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。
それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。
ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。
大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。
しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったのだが、この直後のブリュメールのクーデタを成功に導くための要人対策に広い人脈があったジョゼフィーヌも一役買っている。
ジョゼフィーヌは、初めの離婚騒動あたりから徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。
フランス皇后:
1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。
その後ナポレオンは、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルやポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれた事などもあり、1810年1月には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。
離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だった。
それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァル女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。
マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。
離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリア・ルイーザが嫉妬するほどだった。
ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が百日天下でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死、マルメゾン市内のサン・ピエール=サン・ポール教会に埋葬された。
最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だった。
そのナポレオンが配流先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」だった。
家族:
ジョゼフィーヌが前夫ボアルネ子爵との間にもうけた娘オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚してオランダ王妃となり、後に皇帝ナポレオン3世となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。
1810年にオルタンスはルイ・ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
息子ウジェーヌはナポレオンの養子となり、イタリア副王にまで出世した。
その後バイエルン王マクシミリアン1世の娘アウグステ王女と結婚し、その長女のジョゼフィーヌはスウェーデン王オスカル1世の王妃となった。
逸話:
・少女時代、占い師に「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる」と言われたことがある。
・結婚時、ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳だった。
ところが夫は2歳年上に、妻は4歳年下にさばをよみ、同い年の28歳として結婚証明書を提出した。
・虫歯がひどいため、口を大きく開けないか隠すようにふるまっていたが、これが彼女の仕草に優雅さを与えていたという。
・ナポレオンとの新婚当初に彼女が飼っていた「フォルチュネ(幸運)」という犬が、ベッドに入り込み夫の足に噛みついたことがある。
・彼女は大変にバラが好きで、250種類のバラをマルメゾン城の庭に植えていたという。
また自らバラを愛でるだけでなく、後世の人々のためにと、集めたバラを植物画家ルドゥーテに描かせて記録に残している。
今日でもバラには『ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ』という品種がある。
・イタリア遠征時からジョゼフィーヌは「勝利の女神」と呼ばれるようになり、験のいい存在としてあがめられていた。
ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚したとき、古参兵たちは「なんでばあさん(兵士たちはジョゼフィーヌを親しみをこめてこう呼んだ)と別れちまうんだ、ばあさんは皇帝もおれたちも幸せにしてくれたのに」とぼやいたという。
また、飾らない朗らかな人柄で将兵たちや国民の人気も高かった。
・人脈の豊富さという強みと、浪費や男癖という弱みにつけこまれ、ジョゼフ・フーシェに強請られて情報提供をしていたことがある。
・「ジョゼフィーヌ」という呼び名は、名前の一部であるジョゼフの女性形であり、ナポレオンが呼び始めたものである。
それまではローズと呼ばれていた。
・ナポレオンがエルバ島に流された後、多くの者がナポレオンを見限った中、最も親身に援助していたのは他ならぬジョゼフィーヌであった。
・ナポレオンの夜食にと思い、寝室でチーズを出したものの、そのチーズは匂いがきつかったため、匂いの臭さでうなされたナポレオンが寝言で「ジョセフィーヌ、今夜は勘弁してくれ!」と言ったそうだ。
(ウイッキペディア)
この人物紹介が正確なら、ジョセフィーヌの自由奔放さもさることながら、ナポレオンが無敵の皇帝というとっつきにくいイメージではなく、一人の女性を心底愛したやさしい男として再イメージされますね。
それにしても、ジョセフィーヌは16歳で初婚、20歳で離婚、それから愛人生活を続け、32歳でナポレオンと再婚、浮気がばれて47歳で離婚というまさに「恋多き女」をまっとうした人生でした。
そしてお互いの最後の言葉に、相手の名前がでてくるところは泣かせます。
では、6-23生まれの有名人です。
1763年ジョゼフィーヌ (仏:ナポレオン1世の妻)、1859年エドゥアール・ミシュラン (仏:経営者,ミシュランタイヤ創業,旅行案内書「ミシュラン・ガイド」発刊)、1891年岸田劉生(洋画家『麗子五歳之像』)、1935年筑紫哲也(ジャーナリスト)、1936年リチャード・バック (米:小説家『かもめのジョナサン』)、1958年ジョージ高野(高野攘治)(プロレス)、1974年Ryu(韓国:歌手)、2004年芦田愛菜(子役)。
おめでとう!

バリー・マニローの名曲ですが、表現力はさすがです。
Dionne Warwick "I'll Never Love This Way Again"


