毎日新聞の正論です。

特集ワイド:なぜ見直せない「新国立」 核燃サイクルと同じ“国策の暴走” 「復興五輪」の理念どこへ
毎日新聞 2015年07月06日 東京夕刊

 これはもう「無謀な国家プロジェクト」と呼ばざるを得ないのではないか。
巨額な資金を投じることに反対の声が強まる中、2020年東京五輪・パラリンピック大会の主会場になる新国立競技場(東京都新宿区)の建設計画が進んでいることだ。
総工費は当初予算を895億円上回る2520億円になるが、財源が確保できていない。
国の借金は1000兆円超なのに、なぜ、一度動き出した国策は止まらないのか。【堀山明子、吉井理記】

 「(東京五輪誘致で)支持を獲得できた大きなポイントは、あの新国立競技場の姿のはずだ」。
大会組織委員会の調整会議が行われた6月29日、会長を務める森喜朗元首相は、アルゼンチンのブエノスアイレスで13年9月に行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会の最終演説を思い起こさせた。
「あの姿」とは、キールアーチと呼ぶ2本の巨大な構造物を備えた現計画案だ。

 確かに、この総会で東京五輪の開催が決まり、関係者らは歓喜した。
しかし、総工費が倍近くに膨らむ前の話だ。

 巨額な総工費を懸念する建築家らは計画の見直しを提案してきた。
だが、建設主体の日本スポーツ振興センター(JSC)を管轄する下村博文・文部科学相は「国際公約だから」とほぼ原案通りの設計で建設を進める方針だ。

 JSCは7日に開く新競技場の将来構想有識者会議で、契約内容を報告。
その後、施工予定業者の大成建設と竹中工務店と正式に契約を結ぶ段取りになっている。

 新国立の建設予算に895億円の追加がポンと決まる2日前の6月27日、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市で、震災後初の「復興マラソン」が開かれた。
市は、壊す前の国立競技場から聖火台を借りており、市総合運動公園に設置。
この日、初めて「復興の火」がともされた。
聖火は1964年の東京五輪で戦後復興のシンボルとされた。
その聖火に被災者を励まそうという願いを込めていた。
同公園周辺に仮設住宅が建ち並び、市全体では1万人以上が仮設住宅で暮らす。

 主催者は当初、火を絶やさないことを検討したが、断念した。
理由は予算不足。
火をともし続けるには発火装置の修繕が必要で費用は約800万円。
だが、地元企業や市民の寄付は260万円を集めるのがやっと。
復興マラソンでは、仮設の簡易発火装置で除幕式とハーフマラソンの4時間だけ聖火を維持するのが精いっぱいだった。

 復興マラソンの事務局関係者は語る。
「今後も修繕費を集め、聖火をともし続けられるようになったら、仮設住宅に聖火台を持って行きたい」

 800万円と895億円−−。
被災地がコツコツと資金を集めている時、新国立の巨額の追加予算が決まった。
どう考えても金銭感覚がずれていないか。
思い出してほしい。
安倍晋三首相は「なんとしても『復興五輪』にしたい」と訴えてきた。
石巻市で建設中の復興公営住宅は4000戸に約1000億円かかる見通しだが、もし895億円が被災地に回れば、単純計算で住宅3580戸分の財源になる。

 「国際公約というなら、震災復興を世界に示す『復興五輪』こそ、東京が支持された理由です。
復興五輪、環境五輪、コンパクトな五輪という公約の原点に立ち返るべきではないでしょうか」

 こう話すのは、宮城県岩沼市の復興計画を支援してきた石川幹子中央大教授だ。
新国立の建設問題が焦点になるあまり本来目指すべきビジョンが失われていると懸念する。

 石川さんは、日本を代表する科学者の組織、日本学術会議の分科会委員長として今年4月、新国立建設計画の修正案をまとめた。
約1500本の樹木を伐採して人工地盤を造る現計画案は、自然への配慮が欠けると批判。
樹木を残し、地下に眠る水循環を復元して競技場建物周辺に「本物の森」を創り出す案を提示している。
学術会議は、首相所管の専門家機関で、政府に勧告ができる。
現行案の反エコぶりを見かねて「最低限これだけは修正できるはず」と現実的な案をまとめたという。
提案に文科省は「検討する」と答えたというが、採用されるかは未知数だ。

 なぜ、日本は走り出すと止まらないのか。
公共事業に詳しい千葉大名誉教授の新藤宗幸さんは「ありえないずさんさ。公共事業の常識からもかけ離れている」とあきれ顔だ。
公共事業で当初予算より増加することはあるが、倍増はほとんどありえないという。
図面を作る「基本設計」、構造上の強度などを計算する「実施設計」、建設材料を定める仕様書など何段階も確認するのが常識だからだ。

 新藤さんは、思い起こす数少ない非常識の事例として八ッ場ダム(群馬県)を挙げた。
建設費は86年の当初計画では2110億円だったが、現在では4600億円に倍増した。
首都圏の水需要増加を見越して始まった計画だが、節水技術の進化や人口減で水需要は減少。
このため政府は09年にいったん計画を中止したが、11年に「洪水を防ぐ治水」という新たな目的で建設を再開した。
「必要性などおかまいなく、造ることや予算を維持すること自体が目的化した典型例です。
新国立も、本当にあのデザインが必要なのか、吟味しないで決まったのでしょう」と疑問を呈した上でこう批判する。
「文科省などは、五輪は国家威信を懸けた事業という時代錯誤的な意識が抜けていない」

 青森県六ケ所村で建設が進む核燃料再処理工場を取材し続けるルポライター、鎌田慧さんも「国家威信」のワナにはまっていると警鐘を鳴らす。
国が音頭を取って始めた核燃料サイクル計画に基づく工場建設の予算は、93年の建設開始当初は7600億円だったが、現在は約3倍の2兆2000億円まで膨らんだ。
「核燃サイクルは、技術的問題やコストなどの課題が多すぎ、諸外国はとっくに撤退したのに、日本だけが夢物語にしがみついている。
一度決めたら変えない官僚主義のせいです。
原子力船むつ、そして新国立も一緒。
これでは、日本軍が『撤退は恥』と大勢の兵士を玉砕させた発想と、今も変わっていない」と批判する。
そして市民にもこう問い掛ける。
「国威発揚のために無謀な新国立計画を進めることは、必ず民衆にツケが回ってくる。
私たち自身、なめられたままで本当にいいのですか」

 IOC調整委員会のジョン・コーツ委員長は6月末、現行の奇抜なデザインでなければ国際公約違反かを問う毎日新聞の単独取材に、けげんそうな表情を浮かべて答えた。
「(日本)政府が決めること。IOCが象徴的な施設を求めたものではない」

 国際公約でないなら、市民はもっと声高に叫んでいいのではないか。
「この暴走、おかしい」と。

過ちては改むるにはばかる事なかれ、孔子もそう言っています。

政治家は国民の金をいい加減に扱いすぎます!

舛添都知事もはっきりノーといえば、少しは男が上がるのに、やはりまるでダメ男ですね。


そして、日本政府はこちらでも失点を重ねています。

すったもんだの世界遺産登録問題です。

強制労働」と「働かされた」 
韓日で異なる解釈=世界遺産
聯合ニュース 7月6日(月)

【ソウル聯合ニュース】戦時中に朝鮮人が強制労働させられた施設が含まれる「明治日本の産業革命遺産」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録が決まったが、強制労働をめぐる韓日両国の解釈に食い違いがあり、論争が予想される。
 日本の佐藤地ユネスコ政府代表部大使は5日、ドイツ・ボンで開かれた世界遺産委員会での英語演説で、朝鮮人の強制労働の歴史について、「against their will and forced to work」などと発言した。
これに対し、韓国政府は非公式の翻訳文(韓国語)を通じ、「本人の意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で強制され労役した」と解釈した。
韓国政府当局者は「日本による植民地時代に本人の意思に反して労働させられたことを、日本政府が事実上初めて国際社会で公式に言及したことに大きな意味がある」と高く評価した。
 だが、岸田文雄外相は産業革命遺産の登録決定後、東京都内で記者団に対し、「強制労働を意味するものではない」と説明した。
日本政府の仮翻では「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた」と解釈。
「強制労働」より低い水準の表現にとどめた。
 これに対し、韓国政府当局者は聯合ニュースに対し、「『意思に反し』『厳しい環境の下で働かされた』との表現は誰が見ても強制労働と解釈できる」と反論した。
 解釈をめぐる論争が拡大する場合、両国の関係改善にとって、悪材料になるとの懸念が出ている。
 両国は強制労働の歴史をどう反映させるかについて議論を続けて最後に歩み寄り、先月の国交正常化50周年を受けて生まれた対話ムードにつなげていくことができたとの見方が多かった。
韓国外交部の尹炳世(ユン・ビョンセ)長官は5日の記者会見で、「今回の問題が対話を通じて円満に解決されたことをきっかけに、両国が好循環の関係発展を図っていくことを期待する」と述べ、期待感を隠さなかった。
 韓国政府の一部では岸田外相の発言について、日本国内の保守的な世論を意識したものとの見解が多い。
 両国は国交正常化50周年を機に関係改善に向けた強い意思を示しており、強制労働の解釈をめぐる議論の拡大は避けるとみられる。
年内の首脳会談開催に向け多角的な模索を図っていく可能性が高い。
 外務省の杉山晋輔外務審議官が非公式でソウルを訪問し、今月1~2日に外交部の趙兌烈(チョ・テヨル)第2次官や金ホン均(キム・ホンギュン)次官補と相次いで会談したことも注目される。
来韓の主な目的は世界遺産登録問題とされるが、中国を交えた3カ国首脳会談や旧日本軍の慰安婦問題、安倍晋三首相が8月に発表する戦後70年談話などについても意見を交換したもようだ。

外務省には英語の堪能な人材はいないのか!?

日本の立場:「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた」と解釈し、「強制労働」より低い水準の表現にとどめた。

政府代表の英語表現:against their will and forced to work

意思に反して連行されることを、日本語でも「強制」といいます。

日本語でさえ伝わらない微妙なニュアンスをロジカルな英語にすれば当然上記のような英語表現になるでしょう。

少し前にも、日中共同で出した会見内容が、英語では違っていたことがありましたが、こんことからも外務省は何も学べない省庁であるようです。

こうしたお互いの言語の行き違いを防ぐためには、共通言語の英語で草案を作るしかありません。

海外に発信されるコンテンツは英語にならざるを得ないからです。

岸田外相や菅官房長官らがいくら日本国民向けに、日本語のニュアンスは違っていたなどと後からあがいても、英語でどう解釈されるかが世界標準となります。

今回も強制性がなかったにもかかわらず、またしてもオウンゴール並みの言質をとられた使えない外務省。

この件で、現在もめている元徴用工の個人請求権を認めたソウル高裁の判決へのさらなる悪影響が心配されます。

強気で正々堂々とわたり合えない外務省は、恥じずに今すぐ全面撤退しガラポンすべきです。


では最後は、明るい話題です。

ところで再生医療は、保険が利くのかな?

毛根再生で髪ふさふさ 
再生医療革命が到来〈週刊朝日〉
dot. 7月6日(月)

 ノーベル賞を受賞した山中伸弥氏が開発したiPS細胞を使って昨年、世界初の臨床研究が日本で成功。
20兆円とされる再生医療の市場に資生堂、武田、富士フイルム、ベンチャーが続々と参入し、夢の治療実現に乗り出した。
いよいよ到来した再生医療革命の実態をリポートする。

◇ 脳梗塞

 脳梗塞を起こすと、後遺症で要介護状態になることがある。
まひなどの後遺症が残ると、リハビリテーションしか有効な方法がなかったが、再生医療で脳の細胞を再生する治療薬が数年後にも登場する。

 4月に東証マザーズに上場したバイオベンチャーのサンバイオと開発パートナーの大日本住友製薬は、2020年の米国での承認取得に向け、再生医療による慢性期の脳梗塞治療の臨床試験(治験)を米国で行っている。

 2社などが開発を進めるのは、骨髄の中にある細胞を使い、脳梗塞で傷んだ脳の神経の再生をうながす「細胞医薬品」だ。

 すでに終了した少人数の治験で効果は出ている。
慢性期の脳梗塞の患者の脳に投与したところ、日常生活に目に見える変化が出るほど体の動きがよくなったという。

 脳梗塞後の後遺症に効く治療薬ができれば「北米だけで1千億円の市場がある」(大日本住友製薬の広報担当者)といい、ブロックバスター(大型新薬)になると期待されている。

◇はげ/薄毛

 皮膚も毛根も再生する――。
再生医療のドル箱になると見られているのが、実は美容業界だ。

 薄毛治療に革命!? 
資生堂は、フサフサだった髪を再生すべく、再生医療に力を入れる。

 毛根の奥にあり、毛が生えるのに重要な細胞を患者から取り出し、増やした後、再び患者の頭皮に移植する。

 毛髪再生の流れはこうだ。
この細胞をとるために、患者の毛髪のある部分から直径数ミリ角程度、毛根ごと頭皮を切る。
そこからこの細胞を分離し、数カ月かけて数十個の細胞を数百万個に増やす。
薄毛になった頭皮に注入すると、細胞が衰えた毛根の近くに拡散し、毛根を刺激して元気な髪が再び生える状態に戻していく。

 同社ライフサイエンス研究センター再生医療開発室長の岸本治郎氏はこう話す。

「個人差はありますが、男女ともに効果が期待できます。
自分の細胞を使い、既存の毛根を再活性化させるので安全面も期待できます。
さらに、細胞を少しとって増やすので、自分の毛根を頭に一本一本植え付ける植毛より体の負担が少ないと考えられます」

 植毛と比べて手術も簡単で医師の技量に左右されないうえ、育毛剤と比べて時間がかからない。

「自分の細胞を使い、大きな手術もいらない再生医療では、医師の技術の水準もほぼ等しい。
女性にも抵抗なく使っていただけるのではないかと考えています」(岸本氏)

 資生堂は、毛髪の再生医療でカナダのベンチャー企業と2013年に提携し技術協力を得た。
今年度中には毛髪再生医療の臨床研究を行い、18年の実用化を目指す。

 日本人男性で薄毛を認識している人は1260万人、気にしている人は800万人(日本医事新報04年)。
女性を含めるとそれ以上と言われる。薄毛に悩む人に新たな光となりそうだ。 (本誌・長倉克枝、平井啓子)
※週刊朝日 2015年7月10日号より抜粋

脳は未知な部分が多すぎるので、まだ時期尚早のような気がしますが、視神経や毛根、歯などは再生医療の恩恵を是非とも期待したい分野ですね。

では、7-8生まれの有名人です。

1839年ジョン・ロックフェラー (米:実業家,慈善家「石油王」)、1908年東山魁夷(日本画家)、1937年永島慎二(漫画家)、1958年ケヴィン・ベーコン (米:俳優)、1972年谷原章介(俳優)。

おめでとう!

こんなダンスをしていたのですね!?
Silver Convention - Fly Robin fly 1976
今日は残念なことが2つ、まず残念、その1。

天仰ぐなでしこ 
悪夢の滑り出し…追い上げ届かず、まさかの5失点
スポニチアネックス 7月6日(月)
 ◇サッカー女子W杯カナダ大会決勝 日本2―5米国(2015年7月5日 バンクーバー)

 思いのままに喜びを表現する米国選手を、なでしこイレブンはただただぼう然と見つめるしかなかった。
悲願の連覇まであと1つとしながら、その最後のステージでまさかの完敗。
ピッチに倒れ込み天を仰ぐ。
頂点への手応えがあったからこその悔しさ。
現実を前に、スタンドに駆け付けた日本人サポーターも顔を覆うしかなかった。

 悪夢の滑り出しだった。
前半2分、CKからいきなりMFロイドに決められ、今大会初めて先制を許すと、同4分には右FKからまたもロイドに2点目を決められ2分の間にセットプレーで2失点。
米国の波状攻撃は止まらず14分、DF岩清水のクリアミスをきっかけにMFホリデーが右足ボレー、直後の16分にはハーフウェーライン付近からロイドがロングシュートを決めて、差はあっという間に4点に広がった。

 それでも前回女王の意地だけは忘れない。
4点を追う前半27分、MF川澄のクロスを受けたFW大儀見が体を回転させて左足を振り抜きゴール左隅へ一撃。
準決勝までの6試合で1失点と鉄壁の守備を誇る米国から6試合ぶりに得点を奪うと、33分にはMF澤を投入。
前半から大黒柱をピッチに送り込み、打開を図った。

 後半7分にオウンゴールで2点差に迫ったものの、2分後に5点目を献上して流れを引き寄せられない。
15分に最後の切り札・FW岩渕を投入。
策は尽くし、選手は足がつるまで走り続けたがゴールは遠く、非情のホイッスルが鳴り響いた。

なでしこの試合立ち上がりから浮き足立ち、全体的にもどこか集中が切れているようでした。

これまでの試合内容と違っていたこの原因は、心理的なものが大きく、多分に優勝という連覇へのプレッシャーもあったとは思いますが、私にはマスコミやサッカー協会の美談つくりのため前日に現地入りさせた安藤選手の招聘に求めるのは酷でしょうか?

最終戦への緊張の糸が、戦列を離れていた安藤選手が戻ってきた安堵感から選手の緊張感が弛緩し切ってしまい、気持ちだけが空回りしてしまった気がしてなりません。

もちろん、私の思い過ごしでしょうが、もしそうだとしても安藤選手の責任ではありません。

「窮鼠(きゅうそ)猫をかむ」という追い込まれた臨戦状態を変えずに、なぜ最後まで火事場の馬鹿力頼みを期待しようとしなかったのか、それが悔やまれます。

とはいえ、今回は米チームとの実力差は明白で、なでしこは次回の優勝奪還に向けて若手中心のチーム編成へと一からやり直しです!

これで、米国との対戦成績が日本の1勝6分け24敗となっただけですから、チャレンジし甲斐があるというものです。

それでも、今回準優勝ですのでよく頑張りました、ご苦労様!

残念、その2。

ギリシャ国民投票、緊縮策に大差で「反対」=首相が勝利宣言―ユーロ離脱に現実味
時事通信 7月6日(月)

 【アテネ時事】ギリシャで5日行われた国民投票は即日開票され、欧州連合(EU)などが金融支援の条件として受け入れを求めた財政緊縮策への反対が賛成を大きく上回った。
内務省が発表した暫定集計(開票率97.34%)によると、反対61.32%、賛成38.68%。
当初は拮抗(きっこう)も予想されたが、大差となった。
これで6月末に打ち切られた支援は再開のめどが立たなくなり、ギリシャは経済・金融の混乱が拡大してユーロ圏からの離脱に追い込まれるシナリオが一気に現実味を増してきた。
 週明けの世界の金融市場は、ギリシャショックによる大きな混乱も予想される。
 「反緊縮」を呼び掛けたチプラス首相は、投票で信任された形。
首相は5日夜のテレビ演説で「(EUとの)交渉を力強く進める力を与えてくれた」と勝利宣言した。
 投票結果を受け、EUには衝撃が走った。
EUはユーロ離脱の不安をあおってギリシャ国民に緊縮策の受け入れを迫ったが、効果は限定的で、大きな誤算となった。
 AFP通信によると、ドイツのメルケル首相とフランスのオランド大統領は同日の電話会談で、投票結果は尊重されるべきだとの認識で一致。
6日にパリで会談し、今後の対応を協議する。
ユーロ圏は7日に緊急首脳会議を開く。
 ギリシャ国民の大多数はユーロ離脱に反対だが、国民投票で「反緊縮」を突き付ければEUの譲歩を引き出せると主張したチプラス首相を支持。
しかし、EU側が応じる可能性は小さい。 

ギリシャの凋落は、そもそも自分たちの責任だと認識できていない点が原因です。

もはや自助努力できない国となれば盟友であるEU諸国も助けようがなく、助けてくれるのは中ソからの悪魔の誘いのみです。

今後のギリシャはEUの目の上のたんこぶ的存在となりそうです。

最後は、少し気楽な話題で。

将棋界は、プロvsコンピュータソフトの話題で盛上がりましたが、人間同士の戦い、プロの新鋭vsアマトップもお互いのプライドをかけて白熱しています。

7月4日(土)に朝日杯将棋オープンの一次予選10局が一斉に行われました。(○がアマの勝ち)

・石井健太郎四段 対 武田浩司アマ
・三枚堂達也四段 対 稲葉聡アマ○
・増田康宏四段 対 金内辰明アマ
・竹内雄悟四段 対 太田啓介アマ
・今泉健司四段 対 森下裕也アマ○
・黒沢怜生四段 対 村上由樹アマ
・青嶋未来四段 対 古屋皓介アマ○
・梶浦宏孝四段 対 桐山隆アマ
・星野良生四段 対 坪井裕二アマ○
・宮本広志四段 対 野崎雅敬アマ

この棋戦では毎年、アマが健闘していて、プロ側が負け越した年もあったのですが、今年は6-4で一応プロが面目を保ちました。

新4段の青嶋と梶浦は1勝1敗、またアマからプロへの編入試験でプロとなった今泉4段は負けてしまいました。

一昔前なら、プロがアマに平手で負けるなんてことは決してあってはならないことでしたが、最近のアマの実力は特に1発勝負ならほとんど互角の戦いをしています。

情報化社会の恩恵で、プロが指した新手も翌日にはネットで共有できるようになり、またコンピュータソフトのレベルアップで序盤中盤でも互角以上の戦いが出来るようになったのが、アマ躍進の理由とされています。

とはいえ昔からプロ顔負けのアマ強豪は存在していました。

特に真剣師とよばれた賭け将棋で生計を立てていた連中の強さは別格でした。

例えば、最強の呼び名が高い平畑の場合。(以下の内容はすべてウイッキペディア)

平畑 善介(1908年 - 1972年)は、福岡県出身の将棋の真剣師。
第5回(1951年)アマ名人。 真剣師時代の花村元司のライバルであり、大田学や三崎巌もその実力を認め、高く評価されていた。
特に、花村は平畑を「歴代アマ名人最強者は平畑善介」と称えていた。
生立ち及び棋歴 千尋常小学校を卒業した13歳の時から約20年間船員として過ごすかたわら、真剣に勤しむ。
昭和18年(平畑は当時34歳)に一念発起し、『好きな道を歩む』ため、船員を辞めて真剣師に転身した。
当時、平畑は九州一円のアマ強豪はもちろんのこと、九州出身のプロ棋士相手にも真剣で倒しており、その後中国地方、四国地方と渡り、真剣の強豪としてその名を馳せていた。
満を持して大阪へ渡り、真剣師時代の花村元司と相まみえる。
当初は半香(平手と香落ち混じりで交互に指す。)で指していたが、香落ちでまるで刃が立たなかった。
その後、対局相手が『東海の鬼 花村』であったと判明すると、平畑も俄然本気になり、平手で真剣を戦うこととなった。
花村との真剣はまさに死闘と呼べるものであったが、結果としては花村が二番勝ち越し、花村の勝利に終わった。 しかしながら、花村も平畑の無類の強さを認めており、後に『史上最強のアマ名人』と平畑を称することとなる。
その後の平畑は真剣師としても道を歩みつつ、家庭を持つこととなるが、アマ名人等のタイトル、名声にはこだわりを見せない時期が長らく続いていた。
ところが、第5回アマ名人の予選の数日前に、子供から『一度日本一になってよ』と言われたことをきっかけに、平畑は本気でアマ名人を目指すこととなった。
破竹の勢いで勝ち進んだ平畑は見事に第5回アマ名人となったが、雑誌のインタビューを受けると『後進の指導に専念する』と潔く引退宣言し、周囲を驚かせた。
なお、その際に九州の有望な若手として加藤一二三を挙げていた。
その後は穏やかな晩年を過ごしたようである。
人物:
・座右の銘は『対局中は後悔しない』 ・好きな酒は泡盛。強い酒を好んだ。
・子煩悩のようである。
・平畑は将棋の上達法として、天野宗歩の棋譜を覚える程並べる、大道詰将棋を500問程解く、としている。
・船員時代に詰将棋をよく解いていたと語っており、その効能についてはこだわりがあるようである。
・天野宗歩の棋譜については、一局を2時間くらいかけて一生懸命並べることで、自然と本筋を覚えて強くなると語っている。

新宿の殺し屋、小池と指し分けた伝説の男、加賀の場合。

加賀 敬治(1931年 -1981年 )は、大阪府出身のアマチュア将棋指し。
賭け将棋で生計を立てる真剣師の1人。
「鬼加賀」と恐れられる実力者であり、自ら「日本一のくすぶり(真剣師)」と称する程であった。
第18回(1964年)、第33回(1979年)の2度「アマ名人戦」を制覇し、アマ名人となっている。
1979年に日本一の真剣師の座を賭け大阪府新世界の通天閣将棋道場で「新宿の殺し屋」小池重明と決戦を行い、7勝7敗と互角に渡り合った。
泥酔状態で大阪の新世界で倒れ、救急車で運ばれた病院で死去。享年49。

晩学で求道者の大田の場合。

大田 学(1914年 - 2007年2月21日)は神奈川県横須賀市生まれ。
鳥取県倉吉市余戸谷町で育ち、晩年は大阪府に在住した将棋の真剣師である。
父親は倉吉信用金庫の第四代理事長をつとめた人物。
人物:
少年時代から軍人を志し、戦中は海軍航空隊・横須賀基地に所属。
終戦後に郷里に帰り、30歳をすぎた年齢から本格的に将棋を始めたという、異例なほど晩学の将棋指し。
当時の棋力は現在のアマ初段ほどだったという。
以降修行を続け、1948年~1950年には「アマチュア将棋名人戦」の鳥取県代表。
その後は真剣師として全国を回り、「史上最強のアマ強豪」と呼ばれる平畑善介以外には、ひけを取ることがなかったという。
第1回(1977年12月)朝日アマ名人(当時63歳)であり、NHKの朝ドラ『ふたりっ子』に登場する佐伯銀蔵(銀じい)は大田をモデルにしている。
1997年9月24日にテレビ局の企画で、コンピュータ将棋プログラムの「YSS」と大阪府の通天閣にて平手で対局し、結果は大田の2戦全勝だった。
通天閣近くの将棋道場で師範をつとめ、その指導料で長年旅館暮らしをしており、三畳の和室を定宿にしていた。
旅館の女将の話では、暇さえあれば棋譜の研究に明け暮れたと言う。
また酒を嗜まず、また傍に居たら必ず不幸にさせてしまうとの理由で女性と交際しなかったと言う求道者的な面も持っていた。
2007年2月21日、大腸癌を患い大阪市にて死去。享年92。
エピソード:
真剣師だったときの胸中に残る勝負として昭和30年代に十二倍層と言う現実離れした真剣を挑まれ、それに全勝した勝負を挙げている(賭け金は一局につき一万円。「十二倍層」とは、平手で指す代わりに、大田は一回勝つと一万円、相手は一回勝つと十二万円入る真剣独特のハンデのつけ方。これを十三局繰り返す)。
相手はかなり強かったらしく、大田をして「あとから考えたら、(棋力的に)せいぜい倍層がいいとこで、三倍層は出せん相手だった」と言わしめている。本人曰く「勝つには勝ったが、そのうち四番ぐらいは負け将棋だった。それをなんとか切り抜けられたのはツキがあったからで、運が良かったとしか言いようがない」と述懐している。(岡本嗣郎「9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝」より)
その棋力から30代半ばでプロへの転向も薦められるほどだったが、年齢的にも遅く大成しないだろうと自ら断った。
プロ棋士とも付き合いがあり、特に真剣師からプロになった花村元司とは若い頃一緒の家に居候していたこともあるほど昵懇の仲であった。

桁ハズレな将棋の強さと素行の悪さで有名な小池の場合。

小池 重明(1947年12月24日 - 1992年5月1日)は、愛知県名古屋市出身の将棋アマ強豪。
アマ最強と呼ばれ、その強さは花村元司も評価。
賭け将棋で生計を立てる真剣師としても伝説的な強さだったとされる。
「新宿の殺し屋」「プロ殺し」など数多くの異名と独特の棋風で知られる。
出生:
1947年、愛知県名古屋市で生まれる。
後年出版された書籍によれば、父親は健常者でありながら傷痍軍人を装い物乞いをしては博打に明け暮れる不定職者で、母親は自宅などで客の相手をする娼婦だったという。
そして小池はある時、父親から「男なら博打の一つも憶えておけ」と言われ教わったことをきっかけに将棋に熱中する少年期を過ごした。
やがて小池はめきめきと将棋の腕を上げ、その強さは10代半ばにして地元では敵なしという程であったと伝わる。
間もなくして小池は「将棋で生計を立てたい」という一心から高校を中退し上京。
上野にある将棋センターの住み込み従業員として働きながら、プロ棋士になるために将棋の腕を磨く日々を送った。
知人の奨めにより22歳の頃にプロを目指して松田茂役に弟子入りしている。
しかし夜遊びを覚えキャバレーのホステスに入れ上げるなどしだいに素行が悪化。
やがて勤務先の将棋道場の金を着服し、道場を解雇されると同時に松田にも破門され、プロ入りの話は消滅した。
プロ入りを断念した小池は名古屋に戻り、葬祭業を営む会社にアルバイトとして勤務した。
この頃、小池は地元で知り合った女性と結婚している。
これを機に再び生活の場を東京へと移した小池は、運送会社にトラック運転手として勤務し勤勉に働いた。
だが数年後、夫人との間にもうけた子供が出産から数日で死去するという不幸に見舞われる。
実子の死という精神的ショックから抜け出せなくなった小池は数年間勤務していた会社を辞め、賭け将棋が行われている将棋道場へ連日出入りするようになっていく。
新宿の将棋道場に籍を置いた小池は賭け将棋で連戦連勝、間もなくして「新宿の殺し屋」の異名を持つ凄腕の真剣師として恐れられるようになる。
そして同時期に日本最強の真剣師と評されていた大阪の加賀敬治と日本一の真剣師を決するべく、1979年に当時大阪府新世界にあった通天閣将棋道場で対局。
ここでも小池は加賀に一歩も譲らぬ戦いを演じ、2日がかりの勝負で計7勝7敗と互角に渡り合い、加賀に「もう一度やったら勝てる自信がない」と言わしめた。
こうして強豪真剣師の座を不動のものとした小池であったが、夫人とは別居の末に離婚、憂さ晴らしに連日泥酔するまで酒を飲み歩くなど次第に荒んだ生活を送るようになる。
その有様を見かねた知人からある日「賭け将棋ではないが優勝すれば賞金が出る」と勧められた小池は、アマチュア将棋の大会に出場。
見事優勝した。
真剣師から一転、アマチュア将棋の世界に身を投じた小池は1980年から2年連続でアマ名人のタイトルを獲得し、名実ともにアマチュア将棋指しのトップに立つ。
プロ棋士を相手にも次々と勝ち星を重ね、さらに雑誌の企画での大山康晴名人との対局にも勝利した(角落ち戦での対局)。
この事がきっかけとなり、花村元司(1944年に編入)以来となるアマチュアからプロへの編入の話が持ち上がるなど将棋界に旋風を巻き起こした。
しかし脚光を浴びたがために過去の寸借詐欺騒動や浪費癖、女性関係のトラブルなど素行の悪さが表面化してしまい、プロ編入の話は日本将棋連盟により却下されてしまった(この協議の直前にも飲酒によるトラブルでバーの従業員を殴りアマ名人戦直前に警察に連行される不祥事を起こしていた)。
プロ入りを熱望していた小池は大きなショックを受け、およそ2年の間将棋界から身を退き、肉体労働などで生計を立てていたという。
将棋との決別:
その後アマチュア将棋界においても10年近く小池の名が出る事はなかった。
当時の青年向け雑誌が劇画的な「無頼派」棋士として小池を取り上げるなどしているが、一般的な知名度は低かったと言わざるを得ない。
さらに凄腕の真剣師としてあまりに有名になりすぎたが故に、賭け将棋で小池の相手をする者がいなくなってしまった事が将棋との離別に拍車をかけた。
また小池が来るとヤクザや借金取りが押しかけてくるため、彼の出入りを禁止していた会場も少なからずあったという証言がある。
復活:
晩年、作家であり将棋ファンとしても有名な団鬼六を頼り再びアマチュア将棋の世界に復帰。
当時、団は官能小説作家を引退して将棋雑誌「将棋ジャーナル」を発行していた。
団は小池の素行の悪さを充分知り及んでいたものの、彼の必死の懇願と天才的ともいえる将棋の腕を見込んで活動の後援を約束した。
その後は団の企画でアマチュアのタイトルホルダーを相手に将棋を指しては、その都度勝利を収め「新宿の殺し屋、未だ健在」と再び話題を呼ぶ。
この時小池の圧倒的な強さを団は「こと将棋に関しては小池は化け物だ」と評している。
ただしこの復帰劇には裏話があり、実際のところ団は小池を目の前で惨敗させ、二度と将棋界に立ち入れないようにするつもりだったと著書の中で述懐している。
しかし小池は同年のアマチュア名人のタイトルを獲得した田尻隆司を相手に圧勝、それまで数年間(団の著書によれば約2年)将棋を指していなかったとは思えない強さに団は驚嘆したという。
その後しばらく小池は団の専属運転手として働いていたが、小池の知人で団とも面識のある将棋愛好家が、自分の経営する焼肉店の店長にならないかと小池に持ちかけた。
小池は申し出を快諾、人当たりの良さと器用さから評判も上々であったが、わずか半年後に不倫相手の女性を連れ失踪(団の著作によればこの女性は子連れであったとされる)。
またしても音信不通、行方不明となってしまう。
この後小池は将棋をやめ、トラック運転手として運送会社に勤務するなどして生計を立てていたと伝えられている。
晩年:
しかし40代に入り、突然吐血するなど体調悪化を訴えるようになる。
入院、検査の結果重度の肝硬変と診断された。
この時期に団の元へ小池本人から連絡が入り、狼狽した様子で「先生、医者が僕はもうすぐ死ぬって言うんです。死にたくないんです。怖いんです。助けてください」と嗚咽しながら助けを求めたという。
それを聞いた団が入院先の病院に駆けつけた時、小池は80kg以上あった体重は半分まで落ちる程に痩せ衰え、「殺し屋」と呼ばれ恐れられた勝負師の面影は消え失せていた。
それでもなお将棋への想いを口にする小池に団は「相手は用意する。やってみるか」と尋ねると、小池は「是非お願いします」と答えた。
小池は病院を抜け出し、団の自宅で当時アマチュア将棋界のホープと評された天野高志との対局に臨む。
天野は当時、竜王戦予選にアマチュア枠で出場し、プロに対して3連勝中であった。
そして団の立会いの元、小池は二連勝を収め完勝。
この時小池は団にか細い声で礼を言い、病からくる苦痛に耐えながらも笑顔を見せたという。
この様子を団は「小池はこれが自らの最後の対局になる事を悟っていたようだった。死して悔い無し、というかのような笑顔だった」と著作の中で語っている。
そして天野高志との対局の数日後、病院に戻った小池は再び吐血し容態が急変。
最期は病室のベッドで体に繋がれたチューブを自ら引きちぎって死亡したといわれている。享年44。
死後:
小池の墓は、東京・清澄白河の共同墓地に作られた(日蓮宗唱行院から至近)。
戒名は、棋勝院法重信士。
なお卒塔婆は、埋葬後に何者かが持ち去ってしまったため現存しない。
湯川恵子(湯川博士の妻、元女流アマ名人)によれば、本人も死期を悟っていたのか、亡くなる数カ月前に自ら寺を訪れ住職に挨拶に来ていたという。
晩年の小池の生活の面倒を看ていた団鬼六は、小池の破滅的な生涯を『真剣師小池重明』としてまとめて1995年に発刊。
団の6年ぶりの小説家復帰作品となった。
テレビ番組では、1997年2月6日に朝日放送『驚きももの木20世紀』で「ろくでなし・真剣師小池重明」として、1998年3月26日に 日本テレビ『たけし・さんま世紀末特別番組!!世界超偉人111人伝説』で「殺し屋と呼ばれた将棋指し伝説」として取り上げられて、小池の名が広く一般に知られるようになった。
その後、団や宮崎国夫(将棋道場オーナーで、小池の盟友)が小池を題材にした書籍、棋譜集、マンガ(ビジネスジャンプ)を次々出版し、小池重明ブームとも言える活況を呈した。
スタイル:
小池は一流の棋士としては極めて特異な盤術で知られ、巧妙な防御策と速攻を駆使する戦法で相手を翻弄した。
将棋の対局には持ち時間が定められており、互いの持ち時間が無くなった後の秒読みに持ち込む事で小池の体勢は完了する。
早指し戦における小池は並外れた集中力を発揮し、相手に考える時間を与えない程に指し手のペースを上げた。
その後、ルールで定められた時間というプレッシャーで相手のミスを誘い、それを見逃さず攻勢に転じ一気に勝負を決める。
その指し手の鮮やかさが小池の「殺し屋」という異名の由来といわれている。
小池が行った対局の棋譜は多数現存している。
エピソード:
・普段の生活の中で将棋の研究などは一切行わず、そもそも自宅に将棋盤を置いていなかった。
・事前に対戦相手の対策を練る事をしない事でも知られた。ある大会に小池が出場した際、明らかに酒に酔った状態で会場入りして控え室で寝てしまい、対局直前になっても目覚めないため係員が揺り起こしたという逸話が残されている。
なお、この対局は寝起きであるにも関わらず小池の圧勝に終わった。
・加賀敬治と互角の勝負をしたことで小池の真剣師としての名声は高まったが、そのため彼に賭け将棋を挑む者が激減してしまった。
後年、縁を深めることになる団鬼六も「借金は真剣(賭け将棋)で返します」と言う小池に「小池重明と真剣で指す相手なんて日本中何処を捜してもいない」と一喝したという。
・大山康晴との対局の前夜、泥酔して暴行事件をおこし、留置所に監禁されてしまう。
知り合いの都議に連絡をとって出所し、対局に間に合わせることができた。
将棋自体は角落ちながら、中盤から小池が圧倒し、短時間で勝利した。
あまりの大差に周囲が顔色を失うほどであったという。
・大山の終生のライバルであり既に引退していた升田幸三とも角落ちで対戦している。
この一番は当初は小池の作戦勝ちだったものの、升田の玉が飛車先に躍り出る、棒銀ならぬ棒玉の妙手が出た上に、升田が▲8五歩▽8五同金と金歩交換する勝負手を繰り出し、小池が一方的に敗れた。
局後、升田は小池に、「わしはプロだよ。あんたは所詮アマだ」と声をかけ、小池も負けじと「(引退して大分たっていたので)将棋が弱くなっておられると思っていました」と言い返した。
・昭和56年当時、「元祖」居飛車穴熊の新戦法を使って最高勝率を挙げていた田中寅彦五段(当時)と対戦し、勝利している。
田中は対小池戦でも勿論居飛車穴熊であった。
・「無頼派」と呼ばれた事から豪放磊落な性格と思われがちだが、神経質な一面を持っていた。
ある対局の際、将棋界の重鎮がすぐ横に座っている事に小池は萎縮してしまい、その様子に気がついた対戦相手が観戦者に席を外すよう頼んだという逸話がある。
・羽生善治が小学生の頃、偶然に小池の対局を目撃している。
羽生はアマ名人戦の都下(東京都で特別区を除いた地域)予選で、小池の対局の記録係を担当した。
羽生はプロ入り後、小池について「生き様のように将棋自体は型破りそのもの。しかし、とにかく強かったという事を鮮明に憶えている」と語っている。
・1982年当時、棋聖のタイトルを獲得する直前の森雞二と平手で対局し勝利した。
しかし同年、当時中学1年生の村山聖には平手で負けている。
・読売新聞が主催する将棋大会において、優勝賞金100万円という話を聞きつけた借金取りが、「こんな大金が出る大会であれば優勝するのは小池以外にいない」と、会場の外に何人か待ち構えていた。
予想通り優勝を収めて100万円を手にした小池であったが、借金取りに全額持っていかれてしまい、当人の手元には1円も残らなかったという。
・団鬼六が「運転手として雇うからみんなから借りた金を返せ」と言ったところ、小池は「それは無理です」と答えた。
実は借金取りから逃げ回るうちに、免許証の更新期限を過ぎてしまいとっくに失効していたのだという。
その時小池は一文無しだったが、免許証は団が自腹を切る形で無事取得できたとのこと。
・団と小池が一緒に旅行した際、地方の旅館に一泊した翌朝に小池が「これは先生の取り分です」と団に現金を差し出した。
小池は団が眠っている間に同じ宿の博打好きの旅行者らに声をかけ、賭け将棋で片っ端から負かしたのだと言う。
それを聞いた団が「まず手持ちの金があることを示さないと相手は博打を受けないだろう。お前、そんな金を持っていたのか」と言うと小池は「ありません」と答えた。
小池は眠っている団の姿を対戦相手に見せ、「あの人が自分の雇い主で、自分が負けたらあの人が金を払う」と説明していたのである。
事情を知った団は呆れて「負けたらどうするつもりだったんだ」と尋ねたが、小池は笑いながら「素人に僕が負けるわけがないじゃないですか」と答え、「こんな田舎なら僕があの小池だとは誰も知らないし、県代表でも倍層(=賭け率2:1)なら軽い」と平然として語ったと言う。
・団はアマチュア六段で文壇でも指折りの実力者であるが、飛車落ちの手合いで小池とおよそ五十局真剣で勝負し、全敗したという。
将棋専門誌で団が語ったところによれば、対局中「よければ持ち駒を売りますよ」と小池に声を掛けられ、熱くなっていた団は言われるままに駒を買った。
それでも小池の巧みな指し手に手も足も出なかったという。
対プロ棋士戦績:
非公式戦は除く。段位・称号は対局当時のもの。
数字が示す通り、小池はプロ棋士に対しても互角以上に渡り合っていた。

通算成績:15勝11敗 勝率0.577
(平手成績:10勝8敗 勝率0.556、駒落ち成績:5勝3敗 勝率0.625)

・昭和53年11月8日 飯野健二四段 平手 159手 後手 ○ アマ・プロオープン平手戦
・昭和54年10月20日 滝誠一郎四段 平手 130手 先手 ● アマ・プロオープン平手戦
・昭和55年5月24日 鈴木輝彦四段 平手 108手 後手 ○ アマ・プロ対抗リーグ戦第1局
・昭和55年5月24日 森信雄四段 平手 167手 先手 ○ アマ・プロ対抗リーグ戦第2局
・昭和55年5月24日 脇謙二四段 平手 181手 後手 ● アマ・プロ対抗リーグ戦第3局
・昭和55年5月25日 滝誠一郎五段 平手 128手 後手 ○ アマ・プロ対抗リーグ戦第4局
・昭和55年5月25日 菊地常夫五段 平手 105手 先手 ○ アマ・プロ対抗リーグ戦第5局
・昭和55年9月29日 中原誠名人 角落 173手 下手 ● プロ・アマ名人記念対局
・昭和55年12月12日 鈴木英春奨励会三段 平手 173手 後手 ○ プロ・アマ対抗勝抜戦
・昭和56年1月12日 高橋道雄四段 平手 131手 後手 ● プロ・アマ対抗勝抜戦
・昭和56年10月 花村元司九段 平手 132手 先手 ● アマ・プロ平手戦
・昭和56年5月31日 大山康晴十五世名人 角落 86手 下手 ○ プロ・アマ角落ち戦 千
・昭和56年 田中寅彦五段 平手 141手 先手 ○
・昭和56年11月4日 中原誠名人 角落 158手 下手 ○ プロ・アマ名人記念対局
・昭和56年11月15日 中村修四段 平手 129手 先手 ○ プロ・アマお好み対局
・昭和57年2月27日 升田幸三九段 角落 101手 下手 ● プロ・アマお好み対局
・昭和57年3月3日 加藤一二三十段 角落 171手 下手 ● 加藤一二三十段の駒落道場
・昭和57年6月11日 森雞二八段 角落 178手 下手 ○ プロ・アマ指し込み三番勝負第1局
・昭和57年6月11日 森雞二八段 香落 96手 下手 ○ プロ・アマ指し込み三番勝負第2局
・昭和57年6月11日 森雞二八段 平手 165手 先手 ○ プロ・アマ指し込み三番勝負第3局
・昭和57年 米長邦雄九段 角落 100手 下手 ○ お好み対局
・昭和58年4月1日 武市三郎四段 平手 157手 後手 ● アマ・プロオープン平手戦
・平成2年4月30日 櫛田陽一四段(NHK杯) 平手 180手 後手 ○ 五番勝負第1局
・平成2年5月6日 櫛田陽一四段(NHK杯) 平手 134手 先手 ● 五番勝負第2局
・平成2年5月6日 櫛田陽一四段(NHK杯) 平手 159手 後手 ● 五番勝負第3局
・平成2年 櫛田陽一四段(NHK杯) 平手 178手 先手 ● 五番勝負第4局

小池の段位は昭和54年以前の対局時アマ五段、昭和55年からアマ六段。
また、同年9月の中原戦から昭和57年の米長戦まではアマ名人。

主なタイトル:
1980年 第34回全日本アマチュア名人戦 アマ名人 (日本将棋連盟主催)
1981年 第35回全日本アマチュア名人戦 アマ名人 (日本将棋連盟主催)
1982年 第6回読売アマ実力日本一 優勝 (読売新聞社主催)

将棋に人生をかけた男たちの姿、波乱万丈かつ十人十色で面白すぎますね。

では、7-7生まれの有名人です。

1860年グスタフ・マーラー (墺:作曲家,指揮者)、1887年マルク・シャガール (仏:画家)、1891年栗林忠道(陸軍大将,硫黄島守備隊総司令官)、1901年円谷英二(特撮映画監督『ウルトラマン』『ゴジラ』)、1907年ロバート・A.ハインライン (米:SF作家『夏への扉』)、1918年堀田善衛(小説家『廣場の孤獨』『漢奸』)、1922年ピエール・カルダン (伊・仏:服飾デザイナー)、1928年森禮子(小説家『モッキンバードのいる町』)、1937年塩野七生(歴史小説家『ローマ人の物語』)、1940年リンゴ・スター (英:ミュージシャン(ビートルズ/ドラムス))、1945年池澤夏樹(小説家『スティル・ライフ』)、1949年上田正樹(歌手)、1978年MISIA(歌手)。

おめでとう!

こちらも素敵な楽曲です。
Gloria Gaynor - Never can say goodbye
国家の命運とサッカーの試合結果を並べるのもどうかとは思いましたが、明日7-6は2大ビッグニュースの日なのです。

では、過去の栄光も虚しくいまや凋落の一途を辿るギリシャの話題です。

ギリシャ国民の選択の行方、日本との違いは何か
久保田博幸 | 金融アナリスト2015年7月5日

ギリシャの国民投票は本日、5日に実施される。
この短期間でよく国民投票の実施が準備できたと思うが、古代ギリシャのアテネでは重要決定は市民全員参加での多数決によって決定されたとされる。
このあたりの伝統も受け継がれているのであろうか。

今回のギリシャの国民投票は、EUが提案した財政緊縮策の賛否を問うかたちとなる。
つまり6月30日にいったん停止されたギリシャへの金融支援プログラムを延長するためには、ギリシャが財政改革案をのむことが大前提となる。
国民投票では年金カットなど厳しい緊縮改革案を受け入れる場合にはイエスとし、受け入れたくない場合にはノーとする二択の投票となる。

イエスが過半数を占めることになれば、緊縮改革案を受け入れることになり、金融支援プログラムが延長される可能性がある。
ただ、イエスとなればギリシャのチプラス首相、バルファキス財務相は辞任すると表明している。
そうなれば総選挙の実施も予想され、ギリシャの新政権次第ということにもなる。

ノーが過半数を占めると、やや訳がわからない事態が生じる。
チプラス首相はこの結果をもってEUとの交渉を有利にさせたいとの腹づもりなのかもしれないが、EU側はこれによって妥協するとは思えない。
EUからの支援がなければ7月20日のECBに対する約35億ユーロの返済も不可能となる。
ECBからの資金供給でかろうじて生きながらえているギリシャの銀行がこれで完全に資金繰りに窮することも予想される。
政府による年金等の支払いも不可能となってこよう。
そうなるとユーロ離脱の選択肢が浮かび上がる。

ギリシャのバルファキス財務相は2日、国内にはユーロに代わる紙幣を印刷する輪転機がなく、通貨を発券する能力はないと説明した。
ゲーム理論の専門家でもあるバルファキス財務相が仕掛けたゲームはあまりに稚拙すぎる。
輪転機があろうがなかろうが、EUから見放された場合には、そこに止まることはできなくなる。

ユーロ離脱となれば、統一通貨のユーロは使うことが出来ず、あらたな通貨を発行せざるを得ない。
その通貨の価値は下落すると予想され、ギリシャ国民の生活に非常に大きな影響を与えよう。
国民投票の賛成派は「緊縮策の受け入れ反対は、ギリシャのユーロ圏からの離脱と経済の破綻を意味する」と主張しているそうだが、決してこれは誇張ではない。
果たしてそのような選択肢をギリシャ国民は取れるのか。

一度は生活を苦しめる緊縮策に反対してチプラス政権を選択したギリシャ国民だが、フリーランチはないことをここであらためて気がついたはずである。
その結果、どちらを選択するのか。

このあたり日本も大きな教訓とすべきところであろう。
日本とギリシャの違いとしてはユーロというシステムの存在もある。
しかし、大きな債務を抱えてその返済の有無が国家的な危機を生むという状況は日本でも当然起こりうる。
それが日本で起きない理由のひとつが、日本の経済規模があまりに大きすぎて影響力がありすぎるところにある。
つまりは「Too big to fail」である。
もちろん国債への信認が維持されているからこそ、その債務残高を維持し続けることができている。

ギリシャと日本との国民性と違いなどの指摘もあるが、日本は巨額の借金ができるという環境にいればこそ、現在の生活というか経済が維持されている。
日本でも新たな借金ができなくなれば、国民性とかの問題ではなくなり、ギリシャと同様の事態が発生する。
日銀が国債を大量に買うから問題はないとの指摘もあるかもしれないが、中央銀行が大量の国債を買い入れている状況は、日本の債務リスクをむしろ増加させている懸念もある。
決してギリシャの問題は他人事ではない。

久保田博幸:
フリーの金融アナリスト。
1996年に債券市場のホームページの草分けとなった「債券ディーリングルーム」を開設。
幸田真音さんのベストセラー小説『日本国債』の登場人物のモデルともなった。
日本国債や日銀の金融政策の動向分析などが専門。
主な著書として「日本国債先物入門」パンローリング 、「債券の基本とカラクリがよーくわかる本」秀和システム、「債券と国債のしくみがわかる本」技術評論社など多数。

気になるのは、中国が財政援助を申し出てヨーロッパの橋頭堡としてギリシャを取り込もうとしていること。

ここでは、ギリシャ国民の価値観(自分たちのキリギリス生活を守るため、今まで援助してきた自由主義経済圏EUを離脱し、共産主義圏の中国に魂を売るのか)も問われています。

中国に取り込まれた香港の例を見ればわかるように、いいように使われるのがオチです。

ギリシャ国民が、EUに留まるという正気を保ち、国民自ら努力して国家再建の道へと踏み出すことを切に願っています。

では、なでしこの話題です。

決勝目前! なでしこが連覇するための3つのポイント
THE PAGE 7月5日(日)

 サッカー女子ワールドカップ(W杯)カナダ大会で日本代表「なでしこジャパン」が連覇に王手を懸けた。
相手は、前回大会決勝でも顔を合わせた米国で、その時はPK戦の末に日本が勝利。
過去、米国との対戦では1勝(90分勝利)しかしていない日本にとって圧倒的に分が悪い相手でもある。
今回は、連覇へ向けて米国戦勝利のポイントをデータから予測したい。

前半の日本、後半の米国

 日本の勝利への近道を探る上で、まずは両チームのここまでの戦いぶりを振り返ってみたい。

 両チームの時間帯別の得失点をみると両国の対照的な戦いぶりがうかがえる。
日本が前半に得点することが多いのに対し、米国は後半に集中している。
日本のここまでの戦い方は前半に奪った得点を堅守で守り抜くスタイル。
それだけに、後半におとずれると思われる米国の猛攻をしのげるかが1つポイントになりそう。

 そして、日本の課題ともいえるのが終了間際の失点。
フィジカルで勝る米国だけにビハインド状態なら終了間際のパワープレーは要注意だろう。
最後まで集中力を維持する上でも、勝った状態で澤穂希をグランドに送れる状況を作り上げたい。

攻守両面で試合を分けそうなファウル

 次は、攻守両面について詳細を見ていきたい。
攻撃に関しては、ともに9点ずつ(流れ:7点、セットプレー:2点)挙げており、全くの五分といえそう。
しかし個人のシュート精度では大きな差が出ている。

 出場時間の多い選手たちのシュート精度の差は一目瞭然。
米国選手のシュート精度が高い一方で、日本選手が軒並み低くなっている。
それぞれ12本のシュートを放っている両国エース間でも明暗が分かれていて、米国エース・ロイドが枠内50%(3得点)なのに対し、大儀見は16.7%(1得点)。
チーム枠内シュート率でも米国に大きく差をつけられており、今の日本には個人のシュートからの得点はあまり期待できそうにない。

 では守備面から米国攻略のヒントが得られた。
それがファウル数だ。
日本が58回なのに対し米国が74回で今大会中ワースト。
日本はベスト4入りしたチームでは最少、ベスト8の中でも下から3番目に少ない数字となっている。
ファウルをすると相手にFKが与えられるわけだが、両チームともに宮間、ラピノーといった名キッカーを擁するだけに、ファウルで得たFKが勝敗を分ける2つ目のポイントとなりそうだ。

普段通り規律を順守できるか

 日本守備陣が米国の攻撃を防ぐ上で必須となるのは、相手に不用意なファウルをしないこと。
いったんFKを与えてしまうとフィジカルで勝り、空中戦で圧倒的優位を誇る米国を前に「失点ゼロ」でしのげるかは分からない。
なでしこの持ち味である「規律を順守したサッカー」こそが、無駄なファウルを与えないサッカーなだけに、いかに普段通りのプレーができるか注目だ。

 一方の攻撃面では、短くテンポよくつないだパスやドリブルで相手陣内に攻め入りたい。
相手が与ファウル数ナンバーワンの米国だけに、付き入るすきはあるだろう。
そこで得たFKから得点を奪えるか。
シュート精度やサイズでは勝ち目がない分、相手のミス(ファウル)に乗じて得点することが勝利への近道といえる。
また、宮間の精度の高いFKのこぼれ球にも注意したい。
今大会の米国DF陣は、こぼれ球に対してボールウォッチャーになることが多いため、そこにどれだけ反応できるかも数少ない得点チャンスを広げる上で重要となる。

相手の弱点を突け!

 ここまで書いたように、日本は相手にセットプレーを与えないことで勝機を見出したい。
では、日本が勝つためには相手のどこを突いてファウルを誘えばいいのか。
各チームのファウル数・被ファウル数の視点でみたとき、日本の右サイドが米国攻略の3つ目のポイントとなりそう。
ファウルを多く受けている日本の右サイド有吉に対し、対峙する米国左サイドはファウルを犯しがちなラピノーとクリンゲンバーグ。

 今大会の最優秀選手候補にも選ばれた有吉の魅力は、豊富な運動量と突破力。
ベスト16で代表初ゴール、準決勝でも積極的な仕掛けから先制点となるPKを獲得するなど、今大会ノリに乗っている選手といえる。
米国に押し込まれる展開が予想されるが、相手左サイドの攻撃力を抑制する上でも、“絶好調”有吉が高い位置を取って攻撃参加することが連覇への近道となりそうだ。

もし、なでしこがここ数試合同様の布陣でスタートするなら、せめて岩渕選手と澤選手の後半出場のタイミングを早くして欲しい!

使える戦力を温存して、終わってから後悔することがないように、佐々木監督、頼みますよ~!

では、最後は数奇な人生を送ることになった今日が誕生日のこの人です。

ダライ・ラマ14世(1935年7月6日(チベット暦5月6日) - 、在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマである。
法名はテンジン・ギャツォ(チベット文字:བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་; ワイリー方式:Bstan-'dzin Rgya-mtsho)。

1935年、アムド地方(現在の青海省)の農家に生まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。
4歳の時にダライ・ラマ14世として認定され、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に就いていたが、1959年にインドへ亡命して政治難民となり、インドのダラムサラに樹立された中央チベット行政府(現「チベット人民機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元首を務めている。
亡命後は、法的には領する国土をもたない亡命政権の長という地位にありながら、世界中にちらばるチベット系民族に対して政教両面において指導的立場にある人物と目されている。
また、欧米でもチベット仏教に関心のある人や複数の著名人の支持を得、ノーベル平和賞を受賞したことでその国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされるようになった。
2011年には、自身の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の長から引退することになった。
これを承けた亡命チベット人憲章改定案では「チベット国民の守護者にして保護者であり、チベット人のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され、ダライ・ラマがチベットの政教両面の権威者の座に即くというダライ・ラマ5世以来の伝統を終わらせることになった。

世界的に著名な仏教指導者の一人であり、チベット仏教のゲルク派において最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶である。
歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な長ではなく、ゲルク派の教勢が伸長して他派との摩擦が生じた時代に事実上の最高指導者となった学僧ゲンドゥンギャムツォ、そしてその転生者に認定されたスーナムギャムツォに始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転生系譜であったが、1642年以降(ダライラマ五世の時代)、モンゴルなどを含むチベット仏教圏に影響力をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった。
一方、現在のダライ・ラマである14世は亡命後にチベット人全体の政教両面の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意見もある。
また、本人は「自分は一介の比丘にすぎない」と語ることが多い。
世俗的な称号としては、パリ名誉市民、名誉博士(ニューヨーク州立大学バッファロー校)などがある。

生い立ち:
1935年7月6日、当時の中華民国青海省内のチベット北部アムド(現在の青海省西寧市湟中県)に属するタクツェルの小さな農家にて、9番目の子供として生まれた。
なお、生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。
貴族階級でもない。
わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5〜6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2〜3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという。
生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという。

幼名はラモ・ドンドゥプ(Lha-mo Don-'grub)と名づけられた。
これは「願いを叶えてくれる女神」という意味である。
長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められていて、有名な僧院クムブムで修行をしていた。
他にも18歳年上の姉としてチェリン・ドルマなどがいた。
見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという。

3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。
お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。
他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」、続いて、青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている映像を「視た」、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家を「視た」ことだ、という。
僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。

"Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思ってクムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて3階建てであることを発見しその読みが正しかったと確信したという。
捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた。

捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。
また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという。
上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。

1939年の夏、ラサに向けてチベット政府の捜索隊らおよび両親や兄弟らとともに3ヶ月かけて移動。
ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ(宝石の庭園の意)に入った。
1940年冬、ポタラ宮殿に移動し、チベットの精神的指導者の座に正式に就任、ラサのジョカン寺で剃髪式、見習い僧の式が行われ、ダライ・ラマとしての手ほどきを受け始めた。
ロブサン・サムテン(1つ上の兄)とともに読み書きの勉強から開始。
お経の授業も開始。
さらに、精神的(宗教的な)指導者としての教育と同時に、世俗的(一般社会の)指導者としての教育も受け始めた。
そういった時間以外はその年齢の子供らしく活発に遊んで過ごした。
8歳の時には兄ロブサンは私立学校に行き、ダライ・ラマは一人で教育を受けるようになった。
姉と一緒に過ごし、ロブサンや母が時々通ってくる、という生活を送る。
毎年春先にノルブリンカに移り、半年後の冬の始まりとともにポタラ宮殿に戻る、という生活を20歳まで繰り返した。
少年時代にラサには10人ほどのヨーロッパ人が住んでいて、その中の一人ハインリッヒ・ハラーを兄ロブサンが連れてきたことで、互いに知り合うことになった。

チベット亡命政府の長として:
1950年に中華人民共和国の人民解放軍がチベットを制圧、全域を自国に併合。
1954年に全国人民代表大会でチベット人の代表として常務委員会副委員長に選ばれるも1956年に発生したチベット動乱で中華人民共和国の中国共産党政府が行った人権侵害行為に反発してインド北部ダラムサラに亡命してガンデンポタンを樹立した後は、同政府の長としてチベットの高度な自治権の存在を訴える活動を行っている。

また、ガンデンポタン(チベット亡命政府)の長としてだけでなくチベット仏教の指導者としても、アメリカ、ヨーロッパ諸国、日本を始めとする世界各地をたびたび訪れ、仏教の智慧に関する講演、宗教的な対話に関する講演も活発に行っている。

最近の取材では、高齢になったこともあり、ガンデンポタン(チベット亡命政府)の政治的な指導者から引退することを表明している。
ガンデンポタン(チベット亡命政府)のサムドン・リンポチェ首席大臣に、その政治的な指導者としての地位と権限を譲る意向を述べている。

後継者に関する論議:
ダライ・ラマ14世が高齢になったことから後継者について論議がある。
本来ならばダライ・ラマ14世が承認したパンチェン・ラマ11世が転生者を認定するのだが、中華人民共和国当局により連行されて行方不明のために、指名もしくは選挙によってゲルク派のしかるべき高位の僧に次期指導者の地位を委ねる旨を示唆している。

ダライ・ラマ14世が敢えて活仏(化身ラマ)の転生制度を放棄することを検討している背景としては、次のダライ・ラマの転生者を認定するにあたって国外での亡命生活を余儀なくされているダライ・ラマ14世とガンデンポタン(チベット亡命政府)が影響力を行使しにくいことが考えられる。
歴史的にもパンチェン・ラマは、ダライ・ラマとは政治面で対立することが多かった上に、国外(インド北部の都市ダラムサラ)に亡命したダライ・ラマ14世とは異なり中華人民共和国の認定によるパンチェン・ラマ11世は中華人民共和国チベット自治区内に留まっている。

ダライ・ラマ14世は自らは生身の一人の人間であり、そして仏教の一僧侶であって、もし或る仏の生まれ変わりかと問われれば、それに対する答えは否 ("NO") だと、CNN の Christiane Amanpourとのインタビューの中で述べている。

また、中華人民共和国国務院が2007年9月1日に転生を届出ならびに許可制とする「チベット仏教活仏転生管理弁法」を施行し、活仏の転生霊童の認定にあたっては国家宗教事務局への事前申請ならびに許可を必要とすると定めた。
すなわち、中華人民共和国国務院の許可がない活仏は違法で無効とされることも影響している。
(ウイッキペディア)

5歳で即位、すごいですね。

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997年・アメリカ)で、若き日のダライ・ラマ14世と登山家ハインリヒ・ハラー(ブラッド・ピット)との7年間の交流を描いたという自伝映画が有名ですね。

では、7-6生まれの有名人です。

1929年都筑道夫(推理小説家『なめくじ長屋捕物さわぎ』)、1935年ダライ・ラマ14世 (チベット仏教法主,チベット亡命政府指導者)、1946年シルヴェスター・スタローン (米:俳優)、1960年横山剣(ミュージシャン(クレイジーケンバンド/ヴォーカル))。

おめでとう!

これぞ古きよき時代です。
The Trammps - Hold Back The Night