今日は、
ギロチンの日
1792年のこの日、フランスでギロチンが実用化された。
当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もの人が処刑されていた。
そこで、内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンが、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも全ての身分が同じ方法でできるような「単なる機械装置の作用」により行うよう議会で提言し、その案が採択された。
外科医のアントワヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにする等の改良を加えた。
このため当初は、ルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」とか「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前をとった「ギヨチーヌ(Guillotine)」(ドイツ語読みで「ギロチン」)という呼び名が定着した。
フランスでは1981年9月に死刑が廃止され、それとともにギロチンの使用もなくなった。
怖いですね。
最初の話題です。
えっ、勝っちゃいました。
誰にも止められない?
14歳藤井聡太が3冠羽生に勝利
日刊スポーツ 4/24(月)
将棋の最年少プロ棋士、藤井聡太4段(14)が羽生善治3冠(46)を破った。
インターネットテレビ局Abema(アベマ)TVの番組企画「藤井聡太四段 炎の七番勝負 第7局」が23日放送され、先手の藤井4段が111手で、羽生3冠との接戦を制した。
昨年10月に史上最年少でプロ入りした中学生棋士との初対戦を終えた羽生3冠も「すごい人が現れたな」と実力を認めた。
現役の実力棋士と対戦した7番勝負は6勝1敗で大きく勝ち越し。
非公式戦とはいえ、盤上の天才少年がその実力を見せつけた。
最年少棋士が、将棋界の第一人者に競り勝った。
激しい攻防となった終盤、両者持ち時間を使い切ってから5手。
羽生3冠が頭を下げた。
藤井4段は「とても楽しい時間で、あっという間でした。僕の立場で羽生先生と対局できるのはめったにない機会。ありがたいと同時に緊張もありました」と振り返った。
将棋界の頂点に君臨する羽生3冠は、藤井4段が「特別な存在」と意識し、対局を希望していた。
「羽生先生の将棋を見てここまで来た部分もありますし、勝ったのは特別な感慨があります」。
学生服姿の藤井4段は初々しく話した。
対局は2月18日に行われた。
先手の藤井4段が中盤以降にリードを奪い、一時は羽生3冠に追い上げられたものの、冷静に受け止めて勝ち切った。
藤井4段は「気負わず自然体で臨んだ。終盤、勝ちを意識した局面で読み筋にない手を指され、動揺した。終盤における羽生3冠の怖さを実感した」と話した。
羽生3冠は対局後、「非常に攻守バランスよく指されて、攻める時には攻めて、守る時には守ってと、非常にしっかりしている将棋」と評価。
藤井4段のレベルを「かなり完成されており、私がプロになり立てのところとは違うと思う」とも。
「今の時点でも非常に強いと思うが、ここからどれくらい伸びていくか。すごい人が現れたなと思いました」と認めた。
30年の時を経て現れた超新星だ。
85年12月、羽生3冠がプロデビューした際、当時のトップ棋士・中原誠16世名人は「谷川(浩司)君もそう長くはないね」と話したという。
その言葉通り、89年に初タイトルの竜王を19歳3カ月で獲得。
24歳だった94年に史上初の6冠となり、25歳の96年には谷川王将(当時)を破り前人未到の7冠を達成した。
将棋界の常識を覆し続けてきた羽生3冠が、14歳棋士との対局後に口にした「すごい人が現れた」の一言は、新時代の到来を予見させる重みがある。
公式戦でもデビュー以来無傷13連勝の日本記録を更新中と、規格外の快進撃を続ける藤井4段。
羽生3冠は「鋭い攻めの印象。新人とは思えない落ち着きを持っている。どんな棋士になるか、とても楽しみ」と期待を隠さなかった。
▼藤井4段はデビュー以来、快進撃している。
昨年の公式戦初戦では加藤一二三9段(77)を下して白星発進。
加藤9段は「うまく負かされた。大局観が素晴らしい」と評価。
今月4日には小林裕士7段(40)を破り、新記録の11連勝。
次の公式戦は26日の棋王戦予選で平藤真吾7段(53)と戦う。
まさかとは思っていましたが、羽生さん相手にあっさりと勝ち切るすごさ。
いやはや、将棋界に末恐ろしい逸材が出てきましたね!
では、次の話題です。
鉄道オタクにはたまらない(常識的?)話題かな。
鉄道ファンの支持を集める「京浜急行」の秘密
ITmedia ビジネスオンライン 4/24(月)
最近の鉄道で、車両などについて他社との共通化を図ろうとする動きがある。
それは、コスト削減や、相互乗り入れの利便性を考慮すると仕方のないことかもしれない。
しかし、いまだに独自性にこだわる鉄道会社がある。
京浜急行だ。そしてその独自性により、沿線住民のみならず、鉄道ファンの支持も集めている。
●安全へのこだわり
京浜急行といえば、まずは安全へのこだわりである。
さまざまな車両が走ることで知られる京浜急行は、その関係でホームドアを設置することが難しい。
しかしそのぶん、他の鉄道会社より駅員をホームに多く配置している。
1日13万人ほどが利用する品川のような大きな駅だけではなく、1日5万人ほどの金沢八景のような駅でも、ホーム上に駅員が立っている。
車両にも独特の工夫がある。
普通の鉄道会社では、先頭車両をモーター付きの車両にはしない。
しかし京浜急行は、モーター付きにしている。なぜか。
衝突事故の際に、安全だからである。
重い車両が先頭にあると、障害物とぶつかった際に被害が小さく押さえられるという理由だ。
また、列車の運行管理は、コンピュータではなく、人の手で行っている。
列車集中制御装置(CTC)をいち早く導入した京浜急行であっても、熟練した現場の人間がポイントや信号を操作することで、非常時に対応しやすいという論理だ。
京浜急行の快特に乗ると、走り出してからすぐに最高速度になり、その後も十分なスピードを維持していることに気付くだろう。
最高速度は、走行区間にもよるが時速120キロ。
ただ、それならば並走する東海道本線や横須賀線と同じだ。
何が違うかというと、起動加速度が違うのである。
起動加速度とは、停止している状態での動力により得られる加速度のことを表し、中・低速での列車の性能を示す指標として知られている。
一般に、短距離で停車と発車を繰り返す通勤電車は加速度が高く、特急型電車は加速度が低い。
そのぶん、特急列車は最高速度が高い。
だが、京浜急行の電車は、加速度が高く、最高速度も速い。
だからすぐにトップスピードに達することができるのだ。
なお最近では、新幹線車両も到達時間短縮のために加速度を高めている。
そして、先頭車両にモーターがあることも京浜急行の「走り」の性能を高めるために大きく貢献している。
モーター付き車両が先頭と最後尾にあることで、ポイント通過の検知を確実にできる。
そのことにより、通過したらポイントをすぐに切り替え、その次の列車を待たせずに走らせることができるのだ。
京浜急行の路線には、羽田空港方面行きを中心に多くの相互乗り入れ車両が走っている。
その車両も、先頭車両にモーターを付けるという原則を守らせている。
●座席へのこだわり
ここ数年、通勤型車両はちょっと硬めの座席が増えていて、個人的に「座り心地が悪いなあ」と感じている。
一方、京浜急行の車両はロングシートであっても、座り心地のよさが保たれている。
柔らかく、落ち着いて座れるような印象を感じさせられる。
そして京浜急行といえば、転換クロスシートの車両である。
2ドアの転換クロスシート車両が、地下鉄に乗り入れない快特用の車両として使用されている。
関東周辺で、転換クロスシートの車両が走っていることは少ない。
関西では大阪周辺を中心によく見るものの、人口が多く利用者も多い関東では、人を詰め込むにはやはりロングシートしかないという現実がある。
かつては東海道線や横須賀線ではセミクロスシートの近郊型電車も走っていたが、多くの人を運ばなくてはいけないため、ロングシートに改造され、やがては新車もロングシートになっていった。
そんな中で、京浜急行の優等列車には進行方向に向けた座席を提供している。
通勤時の座席確保列車「モーニング・ウィング号」や帰宅時の座席確保列車の「ウィング号」にも使用されている。
最近では東武鉄道や西武鉄道で座席転換型車両の導入が進んでいるものの、以前から進行方向に向けて座れるサービスを提供してきたのは、京浜急行である。
もちろん、座り心地は大変よい。
しかも、座席確保列車以外は普通運賃だけで乗れるのである。
乗客へのサービスも、京浜急行はこだわっている。
●強いアイデンティティの象徴「赤」
京浜急行といえば、赤い色の車両を思い浮かべる人も多いだろう。
最近では「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」のようなものもあるが、原則的に赤である。
最近のステンレス車両では地の色を見せ、赤い帯で済ませているものもあるが、それでも先頭部までもステンレスの地をむき出しにしたりはしない。
鮮やかな赤は、ひと目で京浜急行と分かる、アイデンティティの中核である。
色を他のものと変えることで、強い差別化を示し、そのもの自体のアイデンティティを強く誇示するということは、他でも見られる。
東京の一部の駅で販売されている新聞の中に、サーモンピンクの新聞を見たことがある人もいるだろう。
あれは『フィナンシャル・タイムズ』という英国経済紙のアジア版である。
本国でももちろん、サーモン・ピンクの紙を使っている。
他紙との差別化を図るために、あの色を使っているのだ。
いまは日本経済新聞社の傘下にあるものの、紙の色は変えていない。
もちろん、紙面は世界中から高く評価されている。
京浜急行も、それと同じことなのだ。
安全性や走りが高く評価され、そのほかとの違いを示すため、ブランドとしてのアイデンティティを示すために「赤」を使っている。
京浜急行は、今後もスタイルを変えないだろう。
その「変えない」ことが、支持の源となっている。
支持されるような確固たるアイデンティティを持つ。
難しく、場合によっては非難されるようなことでもあるが、支持を集めた場合には、強烈な支持となりうるだろう。
京浜急行は、そんな支持を集めているのだ。
私も10年近く乗っていましたので、お世話になりました。
では、次の話題です。
海外赴任者が帰国後に退職してしまう理由
ダイヤモンド・オンライン 4/20(木)
● 帰国後に退職してしまう海外赴任者は何割?
企業がグローバル人材育成を行っていく上でのゴールとは、若手や中堅を海外に送り出すところにあるのではありません。
海外赴任から戻った帰任者たちが、帰国後もその経験を活かし、グローバルリーダーとして活躍できるようにするところにあります。
グローバル人材育成とは、採用を含めた初期の育成、そして途中の実務担当者時代のフィードバックや海外赴任の準備、そして海外赴任中と帰任後のフォローまで、人事のプロセスを総動員して人を育てること。
その意味では、海外赴任者の帰任後というのも、グローバル人材育成を考えるうえでは、重要なポイントとなります。
みなさんは、海外勤務で大活躍をした方が、帰任後すぐに会社を辞めてしまった、転職してしまった、といった話を耳にしたことはありませんか?
実は帰任後すぐに会社を辞めてしまう例は、海外でもよくあることのようで、アメリカの研究者 (Lazarova and Caligiuri 2002)が調査を行っています。
では、ここで問題です。
Q.海外赴任帰任者が、帰任後2年以内に辞める割合は何%でしょうか?
(1)5%
(2)10%
(3)25%
● 海外帰任者が辞めてしまう理由とは?
正解は(3)の25%です。
海外の調査ではありますが、実に4人に1人の割合で海外赴任者が帰任後2年以内に辞めてしまっているというわけです。
日本人はそこまで高い割合ではないかと思われますが、同じような傾向は確かにあるのではないでしょうか。
実は、海外赴任の帰任後というのは、キャリア論では中立圏(ニュートラルゾーン)という時期に当たります。
中立圏とは、簡単に言うと「何かが終わる時」と「何かが始まる時」の間の「宙ぶらりんの時期」ということです。
この時期を過ぎるとまた、新しい環境への再適応ができるようになってくるわけですが、この「宙ぶらりんの時期」というのは、空虚感に包まれ、アイデンティティを喪失し、場合によっては退職の可能性が高まってしまう、人事的には極めて危険な時期なのです。
海外帰任者は、なぜ辞めてしまうのでしょうか。
先ほどの調査研究(Lazarova and Caligiuri 2002)によると、「海外に比べて挑戦性のない仕事が割り当てられた」、「海外で培った獲得したスキルが生かせなかった」、「海外に出ている間に昇進機会がなくなった」、「海外のように自立的な仕事を行うことができなくなった」「キャリアが不透明になった」「同僚、本社の人的ネットワークからの離脱」「本国文化への逆適応への失敗」といった理由が挙げられています。
また、「同僚からのやっかみ」といった理由もありました。
どれも、本国で働き続けている人からすれば、「やむをえないこと」ではあるのですが、帰任者にとっては、それがどうしても我慢ならないこととなってくるようです。
● 帰任者は「自分が小さくなった感じ」になる?
実際、ダイヤモンド社と中原研究室との共同調査によると、帰任者の60%は裁量の低下を感じ、53%は役職が低下したように感じるという調査結果が出ています。
多くの方から出る言葉は「自分が小さくなったような感じ」というもの。
「結果的に離職はしなかったものの、帰任後に『このままでいいのか』という思いが沸き上がった人も入れると、相当数が離職を考えたと思います」と言う方や、「本社に戻ったらいきなり一マネジャーに戻ってしまって、何かガクッていう感じなんだよね」と話す方もいました。
海外赴任者は、海外でのタフな仕事経験を通して、知識やスキルだけではなく、「新しい視点」を持つようになります。
そこで獲得した「新しい視点」は、これまでの慣れ親しんだ「元の職場の風景」を、まったく別の「色あせた風景」に変えてしまう可能性をはらんでいます。
海外赴任によって、「新しい視点」を身につけることは、有意義なことではありますが、それが帰任後の違和感、失望感につながってしまうこともあるのです。
また、当然のことながら、「損得勘定してみると、海外赴任をせず、国内で仕事をしていた方が早くいいポジションへ昇進ができてお得だった」という人事システムが出来上がってしまっていたとしたら、人は「合理的選択」の結果として、わざわざグローバルな舞台で活躍しようとはしません。
人事の仕事として「グローバル人材育成」を行う場合は、帰任後にどれだけ魅力的なキャリアを積めるのか、といったところまできちんと整備しておく必要があります。
そして、実際に帰任した後には、個別のキャリア面談を施すなど、丁寧なコミュニケーションを図ることが重要です。
海外赴任は、リーダーシップ開発においても、重要な職務経験の一つとなります。
海外帰任者を、将来のグローバルリーダー候補として大切にするという視点も、大事なところではないかと思います。
● 個人に甘え過ぎていた日本企業
ここまで5回にわたって、グローバル人材育成のあり方について、様々な視点でお話ししてきました。
結論として申し上げたいのは、「グローバル人材育成というのは、単に教育研修を行うことではなく、人事の全てのプロセスをかけた試みである」ということです。
「人事の全てのプロセスをかけた試みである」ということは、採用時の見極め、新人育成など初期の育成、そして中堅、実務担当者時代の育成やモチベーション維持のためのフィードバック、海外赴任前の準備、そして渡航中、帰任した後のフォロー…といった一連のプロセスを全てグローバル人材育成の観点で再構築していく、ということです。
アメリカにおいて、グローバル人材育成の観点で、人事プロセスを再構築していくことが注目されたのは、1980年代のことでした。
帰任者の退職という問題が深刻化したためです。
日本では、なぜこうした問題が大きくならなかったのでしょうか。
少し挑戦的な言い方をすると、日本企業は長らく、個人の持つ
(1)高度で勤勉な適応学習能力、
(2)会社が発動する強力な人事権への諦め、
(3)配偶者と家族の献身的な努力、といったものに甘えてきただけなのではないでしょうか。
私にはそう思えて仕方ありません。
グローバル人材育成は人事のプロセスを総動員して人を育てることに他なりません。
新たな教育研修を企画する前に、まずは一つ一つの人事プロセスを、グローバル人材育成の観点で見直すところからはじめていただきたいと思います。
(東京大学大学総合教育研究センター准教授 中原 淳、構成/井上佐保子)
帰国した社員を活かすも殺すも、その会社次第です。
最後は、この話題。
事故相次ぐプロレス界
ブレーキを踏むときか
デイリースポーツ 4/24(月)
3月3日には本間朋晃が中心性頸髄損傷、4月9日にはIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカに挑戦して38分を超える激闘の末に敗れた柴田勝頼が硬膜下血腫。
日本最大手団体での出来事ということもあって、業界に少なからぬ衝撃を与えている。
そして先日、昨年4月から世界最大の団体WWEで活躍している元新日本プロレスの中邑真輔からも、この事態を憂う言葉を聞いた。
中邑は先日に行われた日本のメディアとの合同電話インタビューで、「最近の日本のスタイルというかトレンドというか、危険な技の応酬で、立て続けに重傷者が出てきている。各レスラーが危険な技、リスクを顧みない試合の構成についてもう一度考える時期なんじゃないかと思う」と、日本のプロレス界が危険な傾向にあると指摘し、自制の必要性を唱えたのだ。
その危険な傾向を象徴するような試合が、1月4日の新日本プロレス・東京ドーム大会で王者オカダにケニー・オメガが挑戦したIWGPヘビー級選手権試合ではないだろうか。
46分を超える激闘は両者が終始エンジン全開。
大技やアクロバティックな空中殺法が飛び交い、オカダがオメガを高々と放り上げてリング下の机へ落とす、目を疑うような場面もあった。
死力を尽くした戦いには心を打たれたが、危険と隣り合わせのような激しい攻防の連続には恐怖すら感じた。
中邑の発言の後、新日本プロレスの永田裕志にも考えを聞いた。
今年でデビュー25年を迎える大ベテランも「このところ、いい試合、壮絶な試合と言われるものが、そのような傾向になりつつある。いい例が1月4日のオカダとケニー。あの試合はすばらしいと思う。ただ、あれを目指してはダメ。あの試合は世界的にも話題になっているけど、違うととらえてほしい」と語り、中邑と同意見だった。
言うまでもなく、プロレスは5秒以内の反則が許される、極めて特異で制限の少ないスポーツだ。
それ故に自由で多様な戦い方が創造され、進歩を遂げてきたが、それ故に安全対策という制限をかけにくいとも言えるだろう。
残念なことにプロレス界には過去にいくつかの事故があり、安全性が議論されることもあったが、具体的な動きはほとんどない。
中邑と永田の言葉が考え方を変えるきっかけになってくれることを願う。(デイリースポーツ・洪経人)
例えば、場外の鉄柵に選手をぶつけるという技(?)がありますが、これも受け方を間違えればあばら骨を骨折という事態もありえます。
プロレスラーが鍛えられない脇や骨はいくら筋肉で覆ってもどうしようもありません。
こんなくだらない技(失礼)で休場となるのは情けないやらもったいないやらで選手もファンもフラストレーションがたまります。
まず、プロレス団体が各プロレス技の仕訳を行います。
技としての価値が低いが危険な技という点では、鉄柵攻撃は仕訳技の最上位にリストアップされそうですね。
こうした既存の技の仕訳をプロレス界がまず行い、「禁じ手」をどんどん発表すればいい。
もちろん、「禁じ手」を行った選手は即反則負けにします。
そこで、こんなプロレスあるあるを。
トペは必ず受けてくれても、鉄柵だけは、よけてくれない。
トペ・スイシーダ(Tope Suicida)は、プロレス技の一種である。
ルチャリブレ初祥の跳び技の一種である。
「トペ」と略される事が多いが、この場合広義ではトペ・コン・ヒーロなど他の「トペ」を冠する技も範疇に含まれる。
リング上からリング場外にいる相手に向かって助走して頭部や肩口などの正面から突っ込んで体当たりする技。
通常はトップロープとセカンドロープの間をくぐり抜けて飛ぶがトップロープの上を飛び越えるトペも使用されてノータッチ・トペと呼ばれる。
体当たりの方法だがヘッドバットやショルダー・タックル気味にフライング・クロス・チョップなど使用するレスラーによって様々である。
プランチャ・スイシーダと並ぶ、場外への跳び技の代表格である。
体重の軽いジュニアヘビー級選手だけでなくヘビー級選手にも多く、使用されており、ジ・アンダーテイカー、ザ・グラジエーターのような2メートル近い巨漢レスラーまでもが使用している。
日本ではメキシコ遠征から帰国した当時、全日本プロレス所属の百田光雄が最初に公開したとされる。
同じくメキシコ遠征から帰国した当時、新日本プロレス所属の藤波辰巳(現:藤波辰爾)がドラゴン・ロケットの名称でドラゴン殺法の一つとして使用した他の日本人レスラーにも波及。
過去のプロレスは体力自慢の猛者たちが繰り広げる筋書きのあるショーという感じでしたが、猪木イズム「ストロングスタイル」というガチンコの殴り合いシバキ合いが支持されはじめるやレスラー自身も本気でマジギレし、怒りに任せた暴行もどきや場外でのテロなども散見されるようになり、そして最近では受け身を間違えると致命的な怪我もありえる危険な技の連発という歯止めの利かない状況になってしまっています。
観客はあおられれば、素直に呼応する無責任さがありますので、「危険な技」の歯止めはプロレス界とプロモーターサイドの申し入れという形で制御するしかありませんね。
では、4-25死去の有名人です。
1868年近藤勇 (新選組局長) <数え35歳>官軍に抵抗して捕えられ斬首、1978年東郷青児 (洋画家) <80歳>、1992年尾崎豊 (ロック歌手) <26歳>、2011年田中実 (俳優) <44歳>自殺。
トランペット マイルスデイビス マイルス 美人トランペット 山崎千裕
ギロチンの日
1792年のこの日、フランスでギロチンが実用化された。
当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もの人が処刑されていた。
そこで、内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンが、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも全ての身分が同じ方法でできるような「単なる機械装置の作用」により行うよう議会で提言し、その案が採択された。
外科医のアントワヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにする等の改良を加えた。
このため当初は、ルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」とか「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前をとった「ギヨチーヌ(Guillotine)」(ドイツ語読みで「ギロチン」)という呼び名が定着した。
フランスでは1981年9月に死刑が廃止され、それとともにギロチンの使用もなくなった。
怖いですね。

最初の話題です。
えっ、勝っちゃいました。

誰にも止められない?
14歳藤井聡太が3冠羽生に勝利
日刊スポーツ 4/24(月)
将棋の最年少プロ棋士、藤井聡太4段(14)が羽生善治3冠(46)を破った。
インターネットテレビ局Abema(アベマ)TVの番組企画「藤井聡太四段 炎の七番勝負 第7局」が23日放送され、先手の藤井4段が111手で、羽生3冠との接戦を制した。
昨年10月に史上最年少でプロ入りした中学生棋士との初対戦を終えた羽生3冠も「すごい人が現れたな」と実力を認めた。
現役の実力棋士と対戦した7番勝負は6勝1敗で大きく勝ち越し。
非公式戦とはいえ、盤上の天才少年がその実力を見せつけた。
最年少棋士が、将棋界の第一人者に競り勝った。
激しい攻防となった終盤、両者持ち時間を使い切ってから5手。
羽生3冠が頭を下げた。
藤井4段は「とても楽しい時間で、あっという間でした。僕の立場で羽生先生と対局できるのはめったにない機会。ありがたいと同時に緊張もありました」と振り返った。
将棋界の頂点に君臨する羽生3冠は、藤井4段が「特別な存在」と意識し、対局を希望していた。
「羽生先生の将棋を見てここまで来た部分もありますし、勝ったのは特別な感慨があります」。
学生服姿の藤井4段は初々しく話した。
対局は2月18日に行われた。
先手の藤井4段が中盤以降にリードを奪い、一時は羽生3冠に追い上げられたものの、冷静に受け止めて勝ち切った。
藤井4段は「気負わず自然体で臨んだ。終盤、勝ちを意識した局面で読み筋にない手を指され、動揺した。終盤における羽生3冠の怖さを実感した」と話した。
羽生3冠は対局後、「非常に攻守バランスよく指されて、攻める時には攻めて、守る時には守ってと、非常にしっかりしている将棋」と評価。
藤井4段のレベルを「かなり完成されており、私がプロになり立てのところとは違うと思う」とも。
「今の時点でも非常に強いと思うが、ここからどれくらい伸びていくか。すごい人が現れたなと思いました」と認めた。
30年の時を経て現れた超新星だ。
85年12月、羽生3冠がプロデビューした際、当時のトップ棋士・中原誠16世名人は「谷川(浩司)君もそう長くはないね」と話したという。
その言葉通り、89年に初タイトルの竜王を19歳3カ月で獲得。
24歳だった94年に史上初の6冠となり、25歳の96年には谷川王将(当時)を破り前人未到の7冠を達成した。
将棋界の常識を覆し続けてきた羽生3冠が、14歳棋士との対局後に口にした「すごい人が現れた」の一言は、新時代の到来を予見させる重みがある。
公式戦でもデビュー以来無傷13連勝の日本記録を更新中と、規格外の快進撃を続ける藤井4段。
羽生3冠は「鋭い攻めの印象。新人とは思えない落ち着きを持っている。どんな棋士になるか、とても楽しみ」と期待を隠さなかった。
▼藤井4段はデビュー以来、快進撃している。
昨年の公式戦初戦では加藤一二三9段(77)を下して白星発進。
加藤9段は「うまく負かされた。大局観が素晴らしい」と評価。
今月4日には小林裕士7段(40)を破り、新記録の11連勝。
次の公式戦は26日の棋王戦予選で平藤真吾7段(53)と戦う。
まさかとは思っていましたが、羽生さん相手にあっさりと勝ち切るすごさ。

いやはや、将棋界に末恐ろしい逸材が出てきましたね!

では、次の話題です。
鉄道オタクにはたまらない(常識的?)話題かな。
鉄道ファンの支持を集める「京浜急行」の秘密
ITmedia ビジネスオンライン 4/24(月)
最近の鉄道で、車両などについて他社との共通化を図ろうとする動きがある。
それは、コスト削減や、相互乗り入れの利便性を考慮すると仕方のないことかもしれない。
しかし、いまだに独自性にこだわる鉄道会社がある。
京浜急行だ。そしてその独自性により、沿線住民のみならず、鉄道ファンの支持も集めている。
●安全へのこだわり
京浜急行といえば、まずは安全へのこだわりである。
さまざまな車両が走ることで知られる京浜急行は、その関係でホームドアを設置することが難しい。
しかしそのぶん、他の鉄道会社より駅員をホームに多く配置している。
1日13万人ほどが利用する品川のような大きな駅だけではなく、1日5万人ほどの金沢八景のような駅でも、ホーム上に駅員が立っている。
車両にも独特の工夫がある。
普通の鉄道会社では、先頭車両をモーター付きの車両にはしない。
しかし京浜急行は、モーター付きにしている。なぜか。
衝突事故の際に、安全だからである。
重い車両が先頭にあると、障害物とぶつかった際に被害が小さく押さえられるという理由だ。
また、列車の運行管理は、コンピュータではなく、人の手で行っている。
列車集中制御装置(CTC)をいち早く導入した京浜急行であっても、熟練した現場の人間がポイントや信号を操作することで、非常時に対応しやすいという論理だ。
京浜急行の快特に乗ると、走り出してからすぐに最高速度になり、その後も十分なスピードを維持していることに気付くだろう。
最高速度は、走行区間にもよるが時速120キロ。
ただ、それならば並走する東海道本線や横須賀線と同じだ。
何が違うかというと、起動加速度が違うのである。
起動加速度とは、停止している状態での動力により得られる加速度のことを表し、中・低速での列車の性能を示す指標として知られている。
一般に、短距離で停車と発車を繰り返す通勤電車は加速度が高く、特急型電車は加速度が低い。
そのぶん、特急列車は最高速度が高い。
だが、京浜急行の電車は、加速度が高く、最高速度も速い。
だからすぐにトップスピードに達することができるのだ。
なお最近では、新幹線車両も到達時間短縮のために加速度を高めている。
そして、先頭車両にモーターがあることも京浜急行の「走り」の性能を高めるために大きく貢献している。
モーター付き車両が先頭と最後尾にあることで、ポイント通過の検知を確実にできる。
そのことにより、通過したらポイントをすぐに切り替え、その次の列車を待たせずに走らせることができるのだ。
京浜急行の路線には、羽田空港方面行きを中心に多くの相互乗り入れ車両が走っている。
その車両も、先頭車両にモーターを付けるという原則を守らせている。
●座席へのこだわり
ここ数年、通勤型車両はちょっと硬めの座席が増えていて、個人的に「座り心地が悪いなあ」と感じている。
一方、京浜急行の車両はロングシートであっても、座り心地のよさが保たれている。
柔らかく、落ち着いて座れるような印象を感じさせられる。
そして京浜急行といえば、転換クロスシートの車両である。
2ドアの転換クロスシート車両が、地下鉄に乗り入れない快特用の車両として使用されている。
関東周辺で、転換クロスシートの車両が走っていることは少ない。
関西では大阪周辺を中心によく見るものの、人口が多く利用者も多い関東では、人を詰め込むにはやはりロングシートしかないという現実がある。
かつては東海道線や横須賀線ではセミクロスシートの近郊型電車も走っていたが、多くの人を運ばなくてはいけないため、ロングシートに改造され、やがては新車もロングシートになっていった。
そんな中で、京浜急行の優等列車には進行方向に向けた座席を提供している。
通勤時の座席確保列車「モーニング・ウィング号」や帰宅時の座席確保列車の「ウィング号」にも使用されている。
最近では東武鉄道や西武鉄道で座席転換型車両の導入が進んでいるものの、以前から進行方向に向けて座れるサービスを提供してきたのは、京浜急行である。
もちろん、座り心地は大変よい。
しかも、座席確保列車以外は普通運賃だけで乗れるのである。
乗客へのサービスも、京浜急行はこだわっている。
●強いアイデンティティの象徴「赤」
京浜急行といえば、赤い色の車両を思い浮かべる人も多いだろう。
最近では「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」のようなものもあるが、原則的に赤である。
最近のステンレス車両では地の色を見せ、赤い帯で済ませているものもあるが、それでも先頭部までもステンレスの地をむき出しにしたりはしない。
鮮やかな赤は、ひと目で京浜急行と分かる、アイデンティティの中核である。
色を他のものと変えることで、強い差別化を示し、そのもの自体のアイデンティティを強く誇示するということは、他でも見られる。
東京の一部の駅で販売されている新聞の中に、サーモンピンクの新聞を見たことがある人もいるだろう。
あれは『フィナンシャル・タイムズ』という英国経済紙のアジア版である。
本国でももちろん、サーモン・ピンクの紙を使っている。
他紙との差別化を図るために、あの色を使っているのだ。
いまは日本経済新聞社の傘下にあるものの、紙の色は変えていない。
もちろん、紙面は世界中から高く評価されている。
京浜急行も、それと同じことなのだ。
安全性や走りが高く評価され、そのほかとの違いを示すため、ブランドとしてのアイデンティティを示すために「赤」を使っている。
京浜急行は、今後もスタイルを変えないだろう。
その「変えない」ことが、支持の源となっている。
支持されるような確固たるアイデンティティを持つ。
難しく、場合によっては非難されるようなことでもあるが、支持を集めた場合には、強烈な支持となりうるだろう。
京浜急行は、そんな支持を集めているのだ。
私も10年近く乗っていましたので、お世話になりました。

では、次の話題です。
海外赴任者が帰国後に退職してしまう理由
ダイヤモンド・オンライン 4/20(木)
● 帰国後に退職してしまう海外赴任者は何割?
企業がグローバル人材育成を行っていく上でのゴールとは、若手や中堅を海外に送り出すところにあるのではありません。
海外赴任から戻った帰任者たちが、帰国後もその経験を活かし、グローバルリーダーとして活躍できるようにするところにあります。
グローバル人材育成とは、採用を含めた初期の育成、そして途中の実務担当者時代のフィードバックや海外赴任の準備、そして海外赴任中と帰任後のフォローまで、人事のプロセスを総動員して人を育てること。
その意味では、海外赴任者の帰任後というのも、グローバル人材育成を考えるうえでは、重要なポイントとなります。
みなさんは、海外勤務で大活躍をした方が、帰任後すぐに会社を辞めてしまった、転職してしまった、といった話を耳にしたことはありませんか?
実は帰任後すぐに会社を辞めてしまう例は、海外でもよくあることのようで、アメリカの研究者 (Lazarova and Caligiuri 2002)が調査を行っています。
では、ここで問題です。
Q.海外赴任帰任者が、帰任後2年以内に辞める割合は何%でしょうか?
(1)5%
(2)10%
(3)25%
● 海外帰任者が辞めてしまう理由とは?
正解は(3)の25%です。
海外の調査ではありますが、実に4人に1人の割合で海外赴任者が帰任後2年以内に辞めてしまっているというわけです。
日本人はそこまで高い割合ではないかと思われますが、同じような傾向は確かにあるのではないでしょうか。
実は、海外赴任の帰任後というのは、キャリア論では中立圏(ニュートラルゾーン)という時期に当たります。
中立圏とは、簡単に言うと「何かが終わる時」と「何かが始まる時」の間の「宙ぶらりんの時期」ということです。
この時期を過ぎるとまた、新しい環境への再適応ができるようになってくるわけですが、この「宙ぶらりんの時期」というのは、空虚感に包まれ、アイデンティティを喪失し、場合によっては退職の可能性が高まってしまう、人事的には極めて危険な時期なのです。
海外帰任者は、なぜ辞めてしまうのでしょうか。
先ほどの調査研究(Lazarova and Caligiuri 2002)によると、「海外に比べて挑戦性のない仕事が割り当てられた」、「海外で培った獲得したスキルが生かせなかった」、「海外に出ている間に昇進機会がなくなった」、「海外のように自立的な仕事を行うことができなくなった」「キャリアが不透明になった」「同僚、本社の人的ネットワークからの離脱」「本国文化への逆適応への失敗」といった理由が挙げられています。
また、「同僚からのやっかみ」といった理由もありました。
どれも、本国で働き続けている人からすれば、「やむをえないこと」ではあるのですが、帰任者にとっては、それがどうしても我慢ならないこととなってくるようです。
● 帰任者は「自分が小さくなった感じ」になる?
実際、ダイヤモンド社と中原研究室との共同調査によると、帰任者の60%は裁量の低下を感じ、53%は役職が低下したように感じるという調査結果が出ています。
多くの方から出る言葉は「自分が小さくなったような感じ」というもの。
「結果的に離職はしなかったものの、帰任後に『このままでいいのか』という思いが沸き上がった人も入れると、相当数が離職を考えたと思います」と言う方や、「本社に戻ったらいきなり一マネジャーに戻ってしまって、何かガクッていう感じなんだよね」と話す方もいました。
海外赴任者は、海外でのタフな仕事経験を通して、知識やスキルだけではなく、「新しい視点」を持つようになります。
そこで獲得した「新しい視点」は、これまでの慣れ親しんだ「元の職場の風景」を、まったく別の「色あせた風景」に変えてしまう可能性をはらんでいます。
海外赴任によって、「新しい視点」を身につけることは、有意義なことではありますが、それが帰任後の違和感、失望感につながってしまうこともあるのです。
また、当然のことながら、「損得勘定してみると、海外赴任をせず、国内で仕事をしていた方が早くいいポジションへ昇進ができてお得だった」という人事システムが出来上がってしまっていたとしたら、人は「合理的選択」の結果として、わざわざグローバルな舞台で活躍しようとはしません。
人事の仕事として「グローバル人材育成」を行う場合は、帰任後にどれだけ魅力的なキャリアを積めるのか、といったところまできちんと整備しておく必要があります。
そして、実際に帰任した後には、個別のキャリア面談を施すなど、丁寧なコミュニケーションを図ることが重要です。
海外赴任は、リーダーシップ開発においても、重要な職務経験の一つとなります。
海外帰任者を、将来のグローバルリーダー候補として大切にするという視点も、大事なところではないかと思います。
● 個人に甘え過ぎていた日本企業
ここまで5回にわたって、グローバル人材育成のあり方について、様々な視点でお話ししてきました。
結論として申し上げたいのは、「グローバル人材育成というのは、単に教育研修を行うことではなく、人事の全てのプロセスをかけた試みである」ということです。
「人事の全てのプロセスをかけた試みである」ということは、採用時の見極め、新人育成など初期の育成、そして中堅、実務担当者時代の育成やモチベーション維持のためのフィードバック、海外赴任前の準備、そして渡航中、帰任した後のフォロー…といった一連のプロセスを全てグローバル人材育成の観点で再構築していく、ということです。
アメリカにおいて、グローバル人材育成の観点で、人事プロセスを再構築していくことが注目されたのは、1980年代のことでした。
帰任者の退職という問題が深刻化したためです。
日本では、なぜこうした問題が大きくならなかったのでしょうか。
少し挑戦的な言い方をすると、日本企業は長らく、個人の持つ
(1)高度で勤勉な適応学習能力、
(2)会社が発動する強力な人事権への諦め、
(3)配偶者と家族の献身的な努力、といったものに甘えてきただけなのではないでしょうか。
私にはそう思えて仕方ありません。
グローバル人材育成は人事のプロセスを総動員して人を育てることに他なりません。
新たな教育研修を企画する前に、まずは一つ一つの人事プロセスを、グローバル人材育成の観点で見直すところからはじめていただきたいと思います。
(東京大学大学総合教育研究センター准教授 中原 淳、構成/井上佐保子)
帰国した社員を活かすも殺すも、その会社次第です。

最後は、この話題。
事故相次ぐプロレス界
ブレーキを踏むときか
デイリースポーツ 4/24(月)
3月3日には本間朋晃が中心性頸髄損傷、4月9日にはIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカに挑戦して38分を超える激闘の末に敗れた柴田勝頼が硬膜下血腫。
日本最大手団体での出来事ということもあって、業界に少なからぬ衝撃を与えている。
そして先日、昨年4月から世界最大の団体WWEで活躍している元新日本プロレスの中邑真輔からも、この事態を憂う言葉を聞いた。
中邑は先日に行われた日本のメディアとの合同電話インタビューで、「最近の日本のスタイルというかトレンドというか、危険な技の応酬で、立て続けに重傷者が出てきている。各レスラーが危険な技、リスクを顧みない試合の構成についてもう一度考える時期なんじゃないかと思う」と、日本のプロレス界が危険な傾向にあると指摘し、自制の必要性を唱えたのだ。
その危険な傾向を象徴するような試合が、1月4日の新日本プロレス・東京ドーム大会で王者オカダにケニー・オメガが挑戦したIWGPヘビー級選手権試合ではないだろうか。
46分を超える激闘は両者が終始エンジン全開。
大技やアクロバティックな空中殺法が飛び交い、オカダがオメガを高々と放り上げてリング下の机へ落とす、目を疑うような場面もあった。
死力を尽くした戦いには心を打たれたが、危険と隣り合わせのような激しい攻防の連続には恐怖すら感じた。
中邑の発言の後、新日本プロレスの永田裕志にも考えを聞いた。
今年でデビュー25年を迎える大ベテランも「このところ、いい試合、壮絶な試合と言われるものが、そのような傾向になりつつある。いい例が1月4日のオカダとケニー。あの試合はすばらしいと思う。ただ、あれを目指してはダメ。あの試合は世界的にも話題になっているけど、違うととらえてほしい」と語り、中邑と同意見だった。
言うまでもなく、プロレスは5秒以内の反則が許される、極めて特異で制限の少ないスポーツだ。
それ故に自由で多様な戦い方が創造され、進歩を遂げてきたが、それ故に安全対策という制限をかけにくいとも言えるだろう。
残念なことにプロレス界には過去にいくつかの事故があり、安全性が議論されることもあったが、具体的な動きはほとんどない。
中邑と永田の言葉が考え方を変えるきっかけになってくれることを願う。(デイリースポーツ・洪経人)
例えば、場外の鉄柵に選手をぶつけるという技(?)がありますが、これも受け方を間違えればあばら骨を骨折という事態もありえます。
プロレスラーが鍛えられない脇や骨はいくら筋肉で覆ってもどうしようもありません。
こんなくだらない技(失礼)で休場となるのは情けないやらもったいないやらで選手もファンもフラストレーションがたまります。

まず、プロレス団体が各プロレス技の仕訳を行います。
技としての価値が低いが危険な技という点では、鉄柵攻撃は仕訳技の最上位にリストアップされそうですね。
こうした既存の技の仕訳をプロレス界がまず行い、「禁じ手」をどんどん発表すればいい。
もちろん、「禁じ手」を行った選手は即反則負けにします。
そこで、こんなプロレスあるあるを。

トペは必ず受けてくれても、鉄柵だけは、よけてくれない。

トペ・スイシーダ(Tope Suicida)は、プロレス技の一種である。
ルチャリブレ初祥の跳び技の一種である。
「トペ」と略される事が多いが、この場合広義ではトペ・コン・ヒーロなど他の「トペ」を冠する技も範疇に含まれる。
リング上からリング場外にいる相手に向かって助走して頭部や肩口などの正面から突っ込んで体当たりする技。
通常はトップロープとセカンドロープの間をくぐり抜けて飛ぶがトップロープの上を飛び越えるトペも使用されてノータッチ・トペと呼ばれる。
体当たりの方法だがヘッドバットやショルダー・タックル気味にフライング・クロス・チョップなど使用するレスラーによって様々である。
プランチャ・スイシーダと並ぶ、場外への跳び技の代表格である。
体重の軽いジュニアヘビー級選手だけでなくヘビー級選手にも多く、使用されており、ジ・アンダーテイカー、ザ・グラジエーターのような2メートル近い巨漢レスラーまでもが使用している。
日本ではメキシコ遠征から帰国した当時、全日本プロレス所属の百田光雄が最初に公開したとされる。
同じくメキシコ遠征から帰国した当時、新日本プロレス所属の藤波辰巳(現:藤波辰爾)がドラゴン・ロケットの名称でドラゴン殺法の一つとして使用した他の日本人レスラーにも波及。
過去のプロレスは体力自慢の猛者たちが繰り広げる筋書きのあるショーという感じでしたが、猪木イズム「ストロングスタイル」というガチンコの殴り合いシバキ合いが支持されはじめるやレスラー自身も本気でマジギレし、怒りに任せた暴行もどきや場外でのテロなども散見されるようになり、そして最近では受け身を間違えると致命的な怪我もありえる危険な技の連発という歯止めの利かない状況になってしまっています。

観客はあおられれば、素直に呼応する無責任さがありますので、「危険な技」の歯止めはプロレス界とプロモーターサイドの申し入れという形で制御するしかありませんね。

では、4-25死去の有名人です。
1868年近藤勇 (新選組局長) <数え35歳>官軍に抵抗して捕えられ斬首、1978年東郷青児 (洋画家) <80歳>、1992年尾崎豊 (ロック歌手) <26歳>、2011年田中実 (俳優) <44歳>自殺。
トランペット マイルスデイビス マイルス 美人トランペット 山崎千裕








