「タヒチの歴史」:このシリーズのあらましのまとめ

 

【はじめに】

 

フェイピの戦いの結果、キリスト教者としての ポマレ 2世が タヒチの王として君臨することを妨げるものは実質的にはなくなり、事態は、彼の王としての資質についての不安を如何に払拭するかということにかかってきました。何故なら、ポマレには負のイメージしかなかったからです。その結果、強欲の権化ともみなされる ポマレの妥協により、タヒチと モオレアの貴い血脈を次ぐ マラマと、タヒチの有力な一族であり続けた テヴァの後継者である タティの息子との婚姻が決まり、その結果として、タヒチと モオレアの偉大な名跡のほとんどすべてを受け継ぐ アリイ タイマイの誕生へと事態は動いていくことへなります。その前に、本項では、マラマの一族が如何に モオレアを統一してきたのかを語る伝説を紹介します。アリイ タイマイの回想録 [1] の第 16章です。以降、アリイ タイマイの語る文体を意識して書きます。

 

 

 

【フェイピ (Fei Pi) の戦いの後始末】

 

オプハラ (Opuhara) の死後、タティ (Tati) がテヴァ (Teva) の大首長となり、その後の 40年間、自らの死まで、島で最も強い影響力を持ちました。彼の大いなる役割は平和の維持です。彼の全ての能力と知恵をもってしても、彼の両手は常に一杯でした。ポマレの一族や、敵対する地区たち、イギリス人宣教師、そしてフランス艦隊の間で、彼は考えなしに居ることは決してありませんでした。

宣教師も住民も、ポマレ (Pomare) が以前のやり方に戻ることを許すつもりはありませんでした。彼らは、ポマレにフェイピの戦いの後の虐殺や復讐を控えさせました。パパラ (Papara) の人たちは自分たちの姉妹や兄弟を殺した男とは決して親しくはなれませんでしたが、弱かったり不正義だったりしたら事態を悪化させるだけだった所を、タティは切り抜けました。彼は、島でよくあるやり方として、ポマレと可能な限り強い絆で結びつくところから始めました。タヒチでは首長の系譜が急速に消滅してきたため、エイメオ (Eimeo) 島、つまり モオレア (Moorea) 島の大首長が両島の偉大な名跡や財産のほとんどを相続していました。しかし、その エイメオ島の大首長であるマラマ (Marama) には、相続人が一人しかいませんでした。マラマ アリイ マニヒニヒ (Marama Arii Manihinihi) という女性で、ポマレの従姉妹、あるいは島流儀で言うところの姉妹にあたります。タティ自身がテヴァの首長としての名跡を回復して直に、二つの島の三つか四つの聖なる系譜のほぼ最後の生き残りであるこの偉大な相続人が、ポマレによって、タティの息子に嫁ぐことになりました。

注:「マニヒニヒ」は「ポマレ以前のタヒチ社会(6)」に既出.


ポマレに息子がいたら、これほどの栄誉をライバルに譲ることはまずなかったでしょうし、テリト (Terito) や、ポマレ ヴァヒネ (Pomare vahine)、ボラボラ (Bora Bora) や ライアテア (Raiatea) の首長たち、宣教師、そしてタティ自身によって、ポマレの評価がどれほどに下げられていたかも分からなかったでしょう。これは、彼が捨て去ってしまったものの一部を取り戻すためにせよ、貪欲さで最も良く知られた男の払った犠牲です。

 

注:ボラボラは「Bora Bora」と書かれることが多いが, ソサイエティ (Society) 諸島で

  の正しい発声は「Porapora」に近い. [2]


自分自身を護るため、そして、パパラが再び彼に背を向ける危険に対してできる事として、彼はこのような場合によくあることをしました。マラマがその結婚で得た最初の子供は自分の子であると主張した上で、他の子供はポマレの一族と結婚するという契約を結んだのでした。ですから、私は、生まれたときから ポマレの養子でした。そして、同時に、テヴァ、マラマ、そしてポマレという名跡を次ぐ、生まれながらにして優れて重要な人物であったのです。私は、キリスト教が確立され、マラエが放棄されて以降に生まれました。でも私の母、 おそらく 1800年ころの生まれのマラマ アリイ マニヒニヒは、島の古い習慣に従い、生まれたときに一族の全ての マラエに連れて行かれました。そのうちの 13 は モオレアと タヒチにありました。彼女は、モーレア島 ハアピティ (Haapiti) のマラマでした。彼女は、ファアアの テリイ ヴァエトゥア (Terii Vaetua) でした。パパラの アロマイテライ (Aromaiterai) でした。ヴァイアリ (Vaiari) においては、マラエ タヒチ (Tahiti) の テリイヌイ (Teriinui) であり、マラエ ファレプア (Farepua) の マヘアヌウ (Maheanuu) でした。彼女は、ヒティアア (Hitiaa) のマラエ テライ (Terai) における テリイトゥア テリイオウル マオナ (Teriitua Teriiouru maona) でした。ハアパペ (Haapape) においては、マラエ ファレロイ (Fareroi) の テトゥアラエヌイ アフリ タウア オ テ マウウイ (Tetuaraenui Ahuri Taua o te Mauui) でした。そして、それぞれの名跡ごとに付属する土地を持ちました。

 

【タヒチの主要な地区と地域】

 

 

 

【マラマの 一族の物語】

 

パパラ (Papara) の一族の物語を語ったように、今度は エイメオ (Eimeo) 島に伝わる伝説から、マラマ (Marama) の一族の物語を語ります。いつものように、物語は家系図から始まります。なぜなら、私達には家系図を離れた歴史はないからです。物語は約30世代前の プナアウイア (Punaauia) から始まります。一族はその時の ヌウ (Nuu) から始まりました。そして、10世代下って テリイ マナ (Terii Mana) の世代に至ります。テリイ マナは、「マラエ ヌウルア (Nuurua) と ファレヒア (Farehia) の ピハリイ (Piharii) 」という名の少女を、エイメオから妻に迎えました。彼らには二人の子供がいました。息子 プヌア テライトゥア (Punua Teraitua) は、エイメオ島の北岸にある  ヌウルア (Nuurua) の首長になりました。娘 テフェアウ (Tefeau) は、島の南西岸 ハアピティ (Haapiti) の首長 マラマ (Marama) の息子、トゥプオロオ (Tupuoroo) と結婚しました。

 

注:エイメオ島は モオレア (Moorea) 島とも呼ばれる.  本項ではエイメオに統一.

 

注:英文では「Piharii of Maraes Nuurua and Farehia」, 直訳は「マラエ ヌウルアと 

  ファレヒアの ピハリイ」で, これら二つの マラエを掌握する家の「ピハリイ」と

  いう意味であろう.  ただし, 「ポマレ以前のタヒチ社会(9)」の付録にあるよう

  に, エイメオには「Nuurua」というマラエはある.  しかし, 「Farehia」というマラ

  エはなく, 代わりに「Fareia」がある. 幸いにして, 「付録 A 」にあるように, 

  アリイ タイマイ以外にも「Fareia」をあげている文献が有るので, 「Fareia」が

  正しく, しかも ハアピティに有ることがわかる.

 

注:「ヌウルア (Nuurua)」は現在では「ヴァラリ (Varari)」と呼ばれるが, 原文では

  「ヌウルア」が主に使われるので, それに合わせる.

 

 

【モオレア (エイメオ) の主要な地区と大タヒチの北西部】

 


4世代後、ヌウルアの首長は プヌア テライトゥアと呼ばれました。ハアピティの首長は マラマ (Marama)、もしくは正式には テリイ オ マラマ イ テ タウオ オ テ ライ (Terii o Marama i te Tauo o te Rai) と呼ばれ、彼の 山 (Moua) は タフアラ (Tahuara)、彼の 岬 (Outu) は エイメオ (Eimeo)、彼の マラエ (Marae)は マラエ テ ファノ (Marae te Fano) でした。

注:「ポマレ以前のタヒチ社会(1)」にあるように, タヒチは完全な貴族社会であっ

  た. そして, 政治と信仰が一体化しており, 一人の首長がいれば, 彼(女)は祭祀を主宰

  する マラエを持ち, その マラエにおける職名としての名前を持つことになる. そし

  て、その聖なる首長を表象するものとして、山岳部には一つの山, 海岸部には一つ

  の岬が選ばれる. 同様に, 一つの地域があれば, その地域の祭祀を行うマラエが存在

  し, そこを表象する存在として, 一つの山と一つの岬が選ばれる.

 

注:「ハアピティ」の沿岸部に「エイメオ岬」がある.

 


その世代の時、プナアウイア (Punaauia) の中のある小さな地区はアティロオ (Atiroo) と呼ばれる一族に占められていました。彼らの首長は、4世代前の テリイ マナを通じて プヌア テライトゥアと マラマの従兄弟にあたりました。親族関係が認められれば、その関係の程度は問題ではありませんでした。アティロオのー族は、ヌウルアや ハアピティの従兄弟たちと親交を持つ権利を持ち、彼らの中には プナアウイアから ヌウルアへ 6隻のカヌーで渡ってきた者もおり、親切に迎えられました。

 

【Atirooの一族と Marama、Punua Teraitua の関係】

 


こうした訪問は重大な事でした。なぜなら、そのような客は何世代にもわたって滞在する可能性があり、もてなしの儀礼として、彼らが留まることを選んだ場合には、居住用の土地を与えることが求められたからです。アティロオの人たちは プヌア テライトゥアのもとに留まりました。しかし、彼は彼らに土地を与えませんでした。彼らのもう一人の従兄弟である マラマはより寛大で、彼らを ハアピティに招き、自分の区域の南東の半分を彼らの居住地として分け与えました。彼らは マラマの客としてそこに定住し、その後4世代の間に東海岸の ヴァイエレ (Vaiere)に広がり、島中に点在する多くの領域を所有するようになりました。

 

注:「ヴァイエレ (Vaiere)」は現在の「ヴァイアレ (Vaiare)」であろう. 筆記文字の

  「are」を「ere」と見誤ったのではないか.

 


すると、彼らの首長は自らの力が強大であると確信し、自らの マラエ「 テ ヌウ ファアタウイラ (Tenuu Faatauira)」を設立し、以前は マラマのマラエである テファノ (Tefano) に送られていた人身御供をそこに送ることで独立を宣言しました。これは、彼らが受入れ主に対して示すことのできる最大の侮辱であっただけでなく、一種の宣戦布告でもありました。なぜなら、彼らは貢物も承認もなしに、彼の領土の半分を奪ったからです。


当時の マラマは テトゥプア イウラ オ テ ライ (Tetupua iura o te rai) という女性で、彼女もその民もこのように侮辱されることは好みませんでしたが、これほど強力な隣人と争いを始める気にはなれなかったのです。彼女は報復の機会をうかがい、そして、アティロオは彼女にチャンスを与えてやっても良いと感じていました。彼らはすでに ハアピティの半分を所有しており、残りの半分も欲しかったのです。それで、次の侮辱で血の抗争が起きたのです。

凧揚げが私達のお気に入りの娯楽の一つであったことは既に述べました。若者たちは、競い合って競争する巨大な凧を作りました。そして、強い南東の貿易風が凧を遠くまで運んで行きました。アティロオは凧揚げを交えた盛大な宴を開くことになっていましたが、マラマの 4人の少年たち、テ アロ ポアナア (Te Aro Poanaa)の息子たちが、招待されていなかったにもかかわらず、いたずら心から凧揚げ競争に参加しようと企んだのです。彼らは アティロオの占めていた地域に属していて、彼らの横暴な扱いに苦しめられてきたあまり、他の国の少年たちと同じように、喧嘩を売ろうとしたのです。特に、凧揚げにおいては自分たちが優れていることを知っていましたから。祭りの日が来て、アティロオの人々が凧を飛ばせ、どの凧が一番よく飛ぶか熱心に見守っている時に、隣の丘から四つの凧が飛び立ちました。アティロオの凧よりも美しく、ずっと速かったのです。四つの凧はアティロオの凧の上を飛び、追いついては、素早く追い越していきましたので、見物人の群衆は、どこから奇妙な凧が来れたのか分からずとも、畏怖の念に打たれました。

注:「ポマレ以前のタヒチ社会(4)」に, タイアラプの二人の首長, タウティラの タ

  ヴィと テアフポオの ヴェヒアトゥアが戦って タウティラが テアフポオに併合さ

  れた際に, 争いの原因であったタヴイの息子 タヴィハウロアが, 凧揚げが原因で亡

  くなった話がある.


畏怖はたちまち怒りに変わりました。そして、アティロオは侮辱に激怒し、誰が犯人なのかを突き止めようと躍起になりました。大人たちは若者たちに、凧が落ちるまで追いかけ、持ち主を待ち伏せし、現れたら殺すように命じました。凧は高く遠くまで飛びました。若者たちはそれらを追って山々を越えてタアウア イタタ ヌウルア (Taaua Itata Nuurua) の領地に入りました。彼は プヌア テライトゥア (Punua Teraitua) の子孫です。そしてついに、凧はヌウルアのマラエの近くに落ちました。アティロオたちが最初にその場所に着き、4人の少年たちが凧を追ってその場所にたどり着いた時に、残虐な手段によって皆殺しにしました。我々の争いにおいては、これは、軽蔑、憎悪、そして反抗を最大限に表現するために意図的に行われます。こうしてアティロオたちは、冒涜を含むありとあらゆる暴虐を犯したのでした。

少年たちの母親、テ アロ ポアナアは、何かがあったに違いないと分かるまで帰りを待ち、それから後を追いました。もちろん、このような出来事は近所の人々にすぐに知れ渡ります。母親はすぐに息子たちのバラバラになった遺体を発見しました。そして、おそらく大勢の人々が見守る中、最も神聖な慣習に倣って、彼らの血で体を洗い、復讐を誓ったのです。

彼女自身は首長ではありませんでした。ですから、何れかの首長が彼女の争いを引き受けない限り、何もできません。最も近い首長は、彼の地区で、そして彼のマラエの近くで冒涜が行われたタアウア イタタ ヌウルア (Taaua Itata Nuurua) でした。彼女はまず彼のところへ行き、しかるべき作法で援助を求めました。しかし、彼は拒否しました。彼女は、次に、ファアトアイ (Faatoai) の首長 タウラアトゥア (Tauraatua) のところへ行きましたが、またも拒否されました。彼女は、次に、モオルウ (Mooruu) の首長 トゥウティニ (Tuutini)のところへ行行きましたが、三度目も拒否されました。四番目の首長は アファレアイトゥ (Afareaitu) の首長テパウ アリイ ウマレア (Tepau Arii Umarea) でしたが、彼もまた拒否しました。

 

注:「ファアトアイ」とは「パペトアイ (Papetoai)」の別名. [4]

 

注:「モオルウ」とは「モルウ (Moruu)」の別名. 博士論文 [3] の 137ページの図を下

  に示す. アティロオの名が有るので、大体同じ頃の様子である. アファレアイトゥ

  以外は現場付近の首長に依頼したことがわかる. (9/13)

 

【古い時代のエイメオ島 [3, p. 137] 】

 


エイメオ (モーレア) 島は、周囲30マイルほどの小さな島です。そして、タヒチほど高くはないものの、より印象的な容姿の山々を超して行く峠道が、いくつかの場所にあります。少年たちが殺められた場所、島の中心的な広大な谷で、山々に囲まれた二つの広い入り江がある場所は、しばしば南洋で最も美しい谷と呼ばれてきました。今では辺鄙で寂しい、ハーマン メルヴィル (Herman Melville) やキャプテン クック (Cook)のような職業旅行家以外にはほとんど訪れることのない場所ですが、そこは、かつては数千人の住民で賑わい、そこに対抗するためには、クックが ファアアで目撃した一万人の軍隊と艦隊が必要であった地区でした。島の首長たちは強力で数も多かったのです。しかし、アティロオ戦争が起こったとき、おそらく250年前ですが、どの首長も他の首長たちに対する大きな優位性を持っていませんでした。テ アロ ポアナア (Te Aro Poanaa) は 4人の首長の所に次々と行きました。そして、敢えて彼女の復讐を取り上げるものは誰も居ませんでした。彼女は、それぞれの所で、サメの歯で頭を切り、首長との類縁関係に訴え、既に広く知れ渡っていた話をしました。でも、拒絶されるばかりでした。

 

注:少年たちに対する事件が オプノフで起きたような書き方であるが, 凧揚げの行われ

  た場所は ハアピティの中央付近だと思われ, そこから貿易風に乗ると, 山並みに

  沿って ヌウルアの山間部に至ると思われる.  また, 少年たちが捕らえられた場所で

  事件が起きたとも限らず、見せしめのために, ヌウルアの マラエの近くまで移動し

  たのかも知れない. そうすると, ヌウルアと オプノフの堺付近の広い範囲で事件が

  起きたのであろう. 博士論文 [3] には, この付近には多くの アティロオが住んでい

  たことを示す図もある.  (9/13 上に掲載.)


すべてが公の場であるこのような社会では、スキャンダルは甚大なものだったに違いありません。ですから、テ アロ ポアナアが夜帰宅した時には、アティロオと争おうとする首長が一人も居なかったことが島中に知れ渡っていたに違いありません。だからこそ、ハアピティの マラマが、他の首長たちが拒否したことを敢えて行うかどうか、皆が注目したに違いありません。テ アロ ポアナアが家に着くとすぐに、夫は彼女に成功したかどうか尋ね、彼女は「いいえ」と答えました。それから夫がテトゥプア イウラ オ テ ライ (Tetupua iura o te rai)、つまり マラマをまだ訪ねていないかと尋ねますと、彼女は悲しみに暮れて通り過ぎてしまったと答えました。夫はすぐに行くようにと言いました。

彼女は行き、そして同じ場面が 5度目に演じられました。彼女は頭を切り、自分の身の上を語り、そして助けを求めたのです。マラマは答えました。

「なぜここを通り過ぎ、また通り過ぎたのですか。なぜ私を呼ばなかったのですか?あなたはここに来る前に他の首長たちのところへ行きました。それでも私はあなたの訴えを引き受けましょう。」

それからマラマは配下に、その女をヴァイピウラ (Vaipiura) の流れ、マラマにとって神聖で、ゆえに他の者には禁忌とされていた流れに連れて行き、そこで血を洗い流す様に指示しました。太鼓が マラエ テファノ (Marae te-fano) で 鳴らされ、全ての人々が集まりました。マラマは 石座 ポウロトナトオファ(Pourotonatoofa, 「ノトゥーファの中心柱」)に座り、語りました。

注:「ポウロトナトオファ」は「ノトゥーファの中心柱」と言う意味とされ, 更に, そ

  れが「the Hiva district」であると アリイ タイマイは書いている. これが何を意味

  するかは不明.

「今、この時が来た。長く待った時だ。今日、我らが民の一人、テ アロ ポアナアが、息子たちの殺害への復讐を求めてやって来た。私は彼女の訴えを引き受けた。ヴァイピウラの聖なる浴場で血を洗い流したのだ。今、お前たちを私の兵士として招集する。テ アロ ポアナアの四人の息子たちの死と、我がマラエ テファノへの侮辱への復讐を果たすために。」

 

人々は立ち上がって叫びました。「御心は果たされる。アティロオへ死を、モオレアに居る者たち、タヒチに居る者たち、誰一人生き残らせない!」

マラマの人々を アティロオと隔てる丘陵地帯には、マラマの戦士である タプホテ (Tapuhote) と テトゥナニア (Tetunania)、双子の兄弟が住んでいました。二人はスポーツで名を馳せていました。彼らの一人が集会に出席し、帰宅後、もう一人と攻撃を指揮する手はずを考えました。

彼らはまず森で数百本の棒を切り出し、オーティス (英語:autis)、つまり ティ (ti) の葉を括り付け、そして夜に、アティロオ地区との境界の丘の麓にそれらの枝を戦士に見せかけて立てました。彼らは彼らの家の2本の主柱を取り出し、それを戦闘用の槍(オマレ, omare)にしました。これは彼らが戦いに身を投じ、二度と家には戻る積りがないことを意味していました。

注:「omare」を「戦闘用の槍」とするが, 辞書には類似の言葉は見つけられない.

  (9/14  タヒチ語としては古い言葉と考え, 辺境の パウモトゥ語の辞書[2] と, 古い 

  タヒチ語を留める マオリ語の辞書[6] を用いることにして, 「oma + re」と考える

  と,  「早く動く (oma) 」と「飛ぶ (re) 」を合わせて, 「速く飛ぶもの (oma re) 」

  と解釈できる.  これは投げ槍を意味すると言える.  実際  投げて アティロウの首長

  を倒している.  )

 

アティロオの者たちは何が来るか分かっていました。彼らの行った少年たちの殺害は挑戦でした。母親は衆目の中、あちらこちらと島中を歩き回っていました。血を浴びて、復讐を叫びながらです。そして、マラエ テファノの太鼓が武器を取ろうと呼びかけていました。さらなる挑発として、アティロオの者たちは、早朝、海岸に集まりました。しかも、自分たちの地区の北端に。そして、待っている間に水に入り、魚捕りを、しかも マラマの漁場で、始めました。彼らは、魚を仕留めながら互いに呼びかけ合った。「マタトゥイア! お前の魚を マラエ テヌウ ファアタウイラのために紐に通せ!」これは、捕らえた魚を1匹ごとに、マラマの男を1人、自分たちのマラエのために殺すという意味でした。

注:「matatui」は「最初の獲物」. 「matatuia」は「matatui + a」で感嘆詞「 a 」が

  付いたと考えるべきか.

注:人身御供は紐一本を通して並べて吊るしておくことから.


すると双子のアイト (aito, 戦士)たちが、軍隊のように見える棒の間から丘を下りてきて、人目につくところに立って叫んだのです。「お前たちは間違っている!お前たちの魚を マラエ テファノのために吊るせ!」アティロオの首長は叫び返しました。「誰がマラエ テファノのために生贄を命じるというのか?」「私だ!」と タプホテも叫びかえしました。「私が、この私の槍 ハヴィヴォライ (Havivorai, 天を振る者) で!お前の首を振り回し、自らをアティロオの首長と呼ぶお前を。そして、お前を マラマの前に連れて行き、そして、お前は マラエ テファノの生贄として捧げられるのだ。」

 

注:(9/14) 槍の名前「havivorai」は言葉の感じから「ha + vivo + rai」と分割される. 

  「天 (rai)」は明らかであるが,「ha」も「vivo」も妥当な意味は語彙の豊富な辞書

  [5] にもない. 相当に古い言葉のようなので, 古い言葉は辺境に残されることから,  

  辞書[2] を見てみると, 「聖なる物 (hā)」と「克服すること (vivo)」という意味が

  あり, 合わせて「ha + vivo + rai」は「聖なる 天の 克服するもの」もしくは「聖な

  る 天を 克服するもの」となり, それらしい意味が伺える. 

 


そう言って、彼は槍を投げつけ、アティロオのー族の首長を倒したのです。そして、 首長の死に続く混乱に乗じて アティロオに入り込んだ マラマの戦士たちは、テトゥナニアに率いられて彼らを滅ぼしました。首長の家族全員の遺体は繋ぎ合わされ、マラエ テファノへ送られました。庶民の遺体も繋ぎ合わされ、ヌウルアのマラエに侮辱として送られました。その首長が最初に争いに応じるのを拒否したからです。ヌウルアの首長は使者を通して、彼は普通の魚、パホロ (pahoro, オウム魚) は供物として受け取らない、自分のマラエでは最高級の魚、ウルア (urua, ムナグロ鯵) しか供えないと告げました。双子は言葉を返し、ウルアは マラエ テファノのためだけのものであり、もし パホロで満足しないなら、ハヴィヴォライを拝むべきだと伝えました。ヌウルアの酋長は挑戦を受ける冒険はせず、パホロを受け入れるしかありませんでした。

それから双子は戦士を集め、山を越えて北岸のオプノフに行き、アティロオを全て滅ぼし、その地域をマラマのために占領し、トゥパ ウルル (Tupa Ururu) と アメヒティ (Amehiti)という二つの新しい地区を作りました。

注:「トゥパ ウルル (Tupa Ururu)」は, 現在の「トゥパウルウル (Tupauru'uru)」のこ

  とであろう.


それから彼らは次の湾にある パオパオ (Paopao) へと渡った。しかし、彼らの戦士のいくらかが先回りしていて、彼らは道の途中で、双子の兄弟たちが倒してバラバラにした アティロオの遺体を発見しました。それらの遺体を過ごして後を追うのを恥じた戦士たちは、山を越えて アファレ アイトゥ (Afare aitu) へと方向転換しました。しかし、そこは廃墟と化していたのです。ポイヴァイ (Poivai) という名高い美女が出てきて彼らを迎え、何の用かと尋ねました。「アティロオを倒すために来た」と彼らは答えた。「滅ぼしてやる一族だ。女と戦うために来たのではない。」そこで、彼らは アファレ アイトゥを占領することなく去り、ヴァイエレ (Vaiere) のアロア (Aroa) へと向かった。そこで彼らは戦い、占領して テアヴァロ (Teavaro) と名付けました。こうして、マラマはモーレア島の3分の2の支配者となったのです。

 

注:段落の最初のところが原文では「But some of their warriors had gone ahead of 

  them, and they found on their road the bodies of twins whom the warriors had 

  killed and mutilated. 」となっていた.  これだと双子の戦士はここで亡くなってい

  ることになるが, 後半でも彼らは大活躍するので, これは「But some of their 

  warriors had gone ahead of them, and they found on their road the bodies of 

  Atiroos  whom the twins had killed and mutilated. 」の誤りと考えられる. 

 

注:「ヴァイエレ (Vaiere)」は現在の「ヴァイアレ (Vaiare)」のことと思われる. 

  「are」の筆記文字を「ere」と見誤ったのではないか.

アティロオの一族は皆殺しにされるか、隠れるしかなく、その後、島で彼らの名前が聞かれることはありませんでした。しかし、双子は戦闘カヌーを集めてタヒチに渡り、ファアアに上陸してプナアウイア (Punaauia) のアティロオの拠点を攻撃しました。そこでも勝利を収め、タラバオ (Taravao) 地峡を横切ってタイアラプに進軍し、そこで彼らは、頭蓋骨でマラエを建てるのに十分な数のアティロオを倒しました。それで、その地域は今日まで テアフポオ (Teahupoo) と呼ばれています。テアフ (teahu) は「積み上がり」、ウポオ (upoo) は「頭」を意味するのです。

 

注:正確には「ahu」は「石を積み上げる」と言う動詞で, 定冠詞「te」が付いて名詞

  化し,「teahu」で「積み上げ」となる.


マラマの征服に関するこの伝説は、女性をめぐる争いではない戦争の物語であるという点で特異です。しかし、サムソン (Samson) には常に ペリシテ人 (Philistines) の中にデリラ (Delilah) が居たに違いなく、しかも、モーレアの双子の サムソンは タイアラプのペリシテ人の間で暮らしていました。しかし、このよくある伝説のバリエーションが興味深いのです。タイアラプの人々は、双子を戦いで倒すことができないので、一人の美しい女性を彼らのもとに送り込みました。彼らは彼女と恋に落ち、同じ女性と、そして, 彼女の策略によって徐々に互いに離反し、嫉妬のあまりに別れて住むようになりました。彼女は彼らに宴会をもうけ、彼らが意識を失うまでカヴァ (kava) を飲ませました。そして、彼女側の人々民を呼び寄せて彼らを殺すべき時、彼女は躊躇しました。足元に佇む彼らの壮麗な姿を眺めるうちに、彼女は彼らに恋をしていることに気づいたのです。しかし、彼女は誓いを守りました。おそらく、彼女にはどうしようもなかったのでしょう。しかし、双子が死に至らしめられた時、彼女は同じ槍で自らを殺したのです。

注:上の話は旧約聖書「士師記」にあるイスラエル人の勇者 サムソン (Samson) とイ

  スラエル人を苦しめているペリシテ人の一人である愛人 デリラ (Delilah) の話か

  ら, どんな勇者 (サムソン) にも敵対勢力の中に愛人 (デリラ) が居るに違いないと

  いう考え方が基になっている.

 

Gerard van Honthorst: Samson and Delilah

 

 

マラマは、新たな領土での地位を確立するために ハアピティ (Haapiti) からアメヒティ(Amehiti) へ渡り、そこにマラエを建設しました。そして、次のマラマ、男性である、は、次の権力継承時にそこに住んでいました。次の物語は、神話的な要素を一切含まない、最もポリネシア的な物語です。この伝承の目的は、マラマが ヌウルア (Nuurua) と アファレアイトゥ (Afareaitu)を除く島のほぼ全域を手に入れた後、どのようにしてこの二つの地域も手に入れることができたのか、そして、それを自らの意志に反して成し遂げたことを説明することです。

アファレアイトゥ (Afareaitu) の二人の副首長、トゥヘイ (Tuhei) とマタファアヒラ (Matafaahira) は、ホロラ (Horora) という名を冠するマラエを建設しました。彼らはマラエに威厳を与え、高位の族長のマラエと同等の地位を与えたいと考え、マラエ ヌウルア の首長をその優位性を認める人物として選びました。なぜなら、誰であれ、マラエに登った首長は、マラエを自らに献じられたものとし、事実上、彼ら一族の長となり、彼らの力の支配者となったからです。これは、封建領主が臣下であることを求める者の主人となったのと似ています。ただし、タヒチの首長は、精神的、世俗的、そして家父長的な長を兼ねていました。そして、ヌウルアの首長は、最も温厚で攻撃性が低い大首長と見なされていたようです。

トゥヘイと マタファアヒラは首長に会うために ヌウルアへ行きました。首長の正式名称は、常にプヌア テライトゥア (Punua Teraitua) でした。それは、祖先がアティロオに土地を与えずに受け入れた時と、テ アロ ポアナアを迎えても復讐に応じなかった時と、そして、マラマの双子の戦士の挑戦に応じずパホロを受け入れた時と同じでした。テライトゥアは モーレアの人々の風刺の的となっていたようです。というのも、物語によれば、トゥヘイと マタファアヒラが来ると聞いたとき、彼らに会なくとも済むように身を隠したという。訪問者たちはそのように追い払われるべきではなく、彼らがどうしても彼に会いたがったため彼は彼らを迎え入れざるを得ませんでした。それも、最終的に、大祭司 テ モオ イアピティア (Te moo iapitia) の面前で行われました。しかし、彼らに敬意を払うどころか、彼は、彼らの要求に全く無関心を示し、明確な答えを出すことを拒否し、その件について検討すると言いました。

彼が示せた最低限の礼儀は、いつもの客人用の豚を与えることで、豚を処分し調理するよう命じました。その宴の準備が進む中、トゥヘイと マタファアヒラに事前に派遣され、道中に留まっていた使者たちが到着しました。大祭司 テ モオが驚いたことには、使者たちは主人たちよりも丁重に迎えられたのでした。さらに驚いたことに、宴では豚の一番良い部分が使者に与えられ、内臓が主人たちに渡されました。そこで テ モオは二人の副族長に言いました。「テライトゥアがあなたたちの要求を嘲笑し、豚の内臓を与えることで軽蔑を示したことはご承知の通りだ。それ以上何を望むというのだ?国に帰って、あなた達の ホロラのマラエには自分たちで登るがよい。」彼らは言いました。「いいえ! 皆は待っています。準備はすべて整っています。私たちは決心し、皆に宣言しました。ホロラの マラエは、私たちよりも高位の者によって登られると。」「では、なぜ マラマに頼まないのですか?」と大祭司は言いました。「彼はあなたたちをより丁重に迎え、より軽蔑せずに扱うだろう。」

そこでトゥヘイ (Tuhei) とマタファアヒラ (Matafaahira) はヌウルアからアメヒティ (Amehiti) へと旅を続けました。そして、丁度、飲んだカヴァのためにマラマが眠りについた後に到着しました。地元の人々は今でも、マラマが カヴァ (kava) を飲み、どんな音も、鶏の鳴き声さえも、彼の睡眠を妨げないように許されなかった洞窟を見せてくれます。カヴァの影響下にある首長の身は神聖なものであり、彼を邪魔しようとすれば命の危険にさらされることになります。二人の副族長は、マラエでの儀式を急いで済ませようとしていたので、待ちきれず、司祭に助言を求めました。司祭は、眠っているマラマを背負って、連れ出し、その結果がどうなるか試してみよと言いました。二人は助言に従い、それぞれマラマの足を一本ずつ取って連れ出そうとしました。その時、マラマは目を覚まし、二人は誰で、何の用なのかと尋ねたのです。

「私たちはトゥヘイとマタファヒラです」と彼らは答えました。

「それでは、アメヒティへようこそ」とマラマは言いました。

「私たちはその歓迎を必要としています。お願い事をしに来たのです。アファレイトゥへご一緒し、ホロラの マラエに登ってください。」

「あなたの願いは、私の地域を呼び出せるまで待ってくれ。アティトゥハウイ (Atituhaui) と ファナウアラア (Fanauaraa)。アティタネイ (Atitanei) とテファナアウタイタヒ (Tefanaautaitahi)。ロトゥ (Rotu) とテファレリイ (Tefarerii)。アメヒティ (Amehiti)、トゥパウルル (Tupaururu)にポロトナ長官 (Porotona toofa) だ。マラマは、彼の2つのカヌーなくして一人では行けない。」

注:「トゥパウルル」については前出の注参照.

注:既に オプノフ (Opunohu) が二つの領域 アメヒティと トゥパウルルに分けられた

  ことが述べられている. これから類推し, マラマの他の領地ハアピティ (Haapiti), 

  テアハロア (Teaharoa), テアヴァロ (Teavaro) も同様に二つずつの領域に分けられ

  ているとすれば, 辻褄が合う。「toofa」は 首長 (arii) の下の位なので, 長官とした.

注:「ポマレ以前のタヒチ社会(1)」で述べられているように, 首長は自分の足で歩

  き回らず, 人の背に乗って運ばれる. この運び手を「カヌー (vaa)」と言い, それを

  サポートする集団と組になっているようである. 首長の移動の時に, 二つのカヌー

  が用意されるのが通常なのであろう.

「私たちがあなたの カヌーになります」と彼らは答えました。「どうぞ、手近な アメヒティと トゥパウルルとで満足して下さい。」

マラマはついに同意し、山を越えて アファレアイトゥへと運ばれ、ホロラのマラエに登りました。この儀式には参加していなかったアファレアイトゥの三番目の副首長 テパウアリイ (Tepauarii) は、太鼓の音を聞き、その意味を尋ねました。説明を聞くと、彼はこう言いました。「そうです! マラマはふさわしい方です。私も彼に頭を下げます。」

 

こうして、マラマは アファレアイトゥの族長に選ばれ、その地区の首長となっただけでなく、彼が受け継いだ地域や征服した地域の首長にもなりました。一方、ヌウルアの テライトゥアは自分の過ちに気づき、領地の者たちに アファレアイトゥへ連れて行くよう命じましたが、途中で自分の場所が既に取られていることを知り、彼もまたその選択に頭を下げました。

マラマの覇権の最後のステップは、 彼の息子と テライトゥアの娘の結婚でした。これによりヌウルアが一族に加わり、マラマの一族は島のほぼ全てを支配下に置いたのです。

 

 

 

【おわりに】

 

さて、アリイ タイマイ誕生に至る経緯が紹介され、マラマの一族の話も終わりました。次からは、アリイ タイマイが見た タヒチ社会の様相が語られていくことになります。

 

 

 

 

 

【付録 A :エイメオ島の地区と主要なマラエ 】

 

タヒチ島に比べ、エイメオ島 (モオレア島) についてはあまり知られていません。タヒチでは、ハアパペとパレ、アルエをまとめて ポリオヌウ地区と呼び、プナアウイアと パエアをまとめて アテフル地区などと呼びますが、モオレア島については地区の構成はよく分かりません。博士論文[3] の 110 ページに モーレア島の地区や主な マラエについてまとめた表がありましたので、表の少し前の文章から以下に示します。

 

Outre la.tradition exprimée par les généalogies et les récits, les sources concernant le Moorea ancien sont constituées par les vestiges lithiques, essentiellement, les places de culte appelées communément marae et accompagnées ou non d'autres éléments qui existent aussi à l'état isolé : emplacements ou pavages d'entrée de maisons (souvent la maison du prêtre à proximité du  arae), plate-formes de tir à l'arc, terrasses construites, murs, pavages ou gradins isolés. Un échantillon de ces "structures" lithiques  sera donné dans 2'études particulières à Moorea ; il suffit ici de répérer les principales en regard de leur signification quant à la consistance du peuplement et de l'habitat dans le Moorea ancien. Il existe trois listes de marae de l'île : l'une exposée par Teuira Henry dans la nomenclature des districts et de leurs particularités qui vient notamrnent de Pornare II (1), une autre, établie par Arii Taimai (2), la dernière, enfin, le recensement de K.P. Emory qui date de 1925-1930 (3).

(系図や物語を通して伝えられる伝承に加え、古代モーレア島に関する史料は、石造遺跡、主にマラエと呼ばれる礼拝所から成り、これらには、家屋の入口跡や舗装(多くの場合、マラエの近くに司祭の家があった)、弓矢の台、造られたテラス、壁、舗装、あるいは孤立した階段など、孤立した状態で存在する他の要素が伴う場合と伴わない場合がある。これらの石造「構造物」の例は、モーレア島に関する2つの具体的な研究で紹介される。ここでは、古代モーレア島における集落と居住地の一貫性に関する重要性の観点から、主要なものを特定すれば十分である。島のマラエに関するリストは3つ存在>する。1つは、テウイラ・ヘンリーが地区名とその特徴の命名法として提示したもので、特にポマレ2世(a)に由来する。もう1つはアリイ・タイマイ(b)によって作成されたもので、そして最後に、1925年から1930年にかけて行われたK.P.エモリーの国勢調査(c)である。)


23. Liste cornparée des marae de Moorea (モーレア島のマラエの比較リスト)

                                      
Mata'eira'a et site   Teuira Henry (a)  Arii Taimai (b)  Emory (c)

 地区   地域                              

Afareaitu   (Maatea)   Nuupure               Nuupure

     (Haumi)    Taero         Natoofa      Tetii
     (Afareaitu)  Umarea        Umarea       Umarea
                      Matairea     Horora (Matiti)
                                Teroro (Tearataha)

                                      

Haapiti    (Varari)     Nuurua         Nuurua        Nuurua

                                (Poairoa)
                                (Tahie)

     (Moruu)    Vaiotaha      Vaiotaha
     (Haapiti)     Maraetehoro     Marae Tefano

                      Fareia        Fareia (Tetauaru)
                                 (Tepo)

     (Oio ?)    Oio

                                      

Teavaro  (Vaiare)     Maraetefano

     (Teavaro)     Paetou                (Ofaipapa)
                                 (Tauteata)

     (Temae)    Tiaia

                                      

Papetoai    (Opunohu)  Maraeteuta             Titiroa
                                Afareaito

     (Urufara)     Urufara

     (Papetoai)   Taputapuatea            Taputapuatea

                                      

Paopao   (Maharepa)    Ahuare                Apootaatea

                                      
Non identifiés :               Punuatoofa (d)
                      Fanautaitahi (d)

                                      

 

 

 

 

 

[1] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai E. Paris,
  1901.

 

[2] J. Frank Stimson and Donald Stanley Marshall, A Dictionary of Some 

  Tuamotuan Dialects of the Polynesian Language.  The Peabody Museum 

  of Salem, Massachusetts, 1964.

 

[3] Claude Robineau,Tradition et Modernite aux Iles de La Societe : 

  Une interprétation anthropologique (ソシエテ諸島における伝統と近代性:

  人類学的解釈). These Pour Le Doctorat D'etat Es':"Lettres et Sciences 

  Humaines," Uniiversite Paris V, Rene Descartes, Sciences humaines - 

  Sorbonne (国家博士号論文 :「文学と人文科学」, パリ第5大学, ルネ デカルト,

  人文科学  ソルボンヌ), 1981. (9/29)

 

[4] "Eastern Pacific lands ; Tahiti and the Marquesas islands . of fresh adventures, 

  and sued in formapauperis for native hospitality in the bay of Pape-toai, alias 

  Faatoai,"  alamy.

 

[5] H. J. Davies, A Tahitian and English Dictionary: With Introductory Remarks on 

  the Polynesian Language, and a Short Grammar of the Tahitian Dialect, 

  London Missionary Society's Press, 1851.  (Classic Reprint).

 

[6] Edward Tregear, Maori-Polynesian Comparative Dictionary. Lyon and Blair, 

  Wellington, 1891. (PDF版 )