まだ先の話ですが、これからタヒチ王朝、仏領ポリネシアの言語分布などについて読
んできた資料の紹介をして行きたいと考えています。その前提として、まずポリネシ
ア人がどこから来たかについて触れておく必要が有ります。
ポリネシア人の祖先はラピタ人(Lapita)であるとされています。この名前は、1952年
にニューカレドニアで発見された土器がラピタ土器と命名された事に端を発します。
この土器を作成した文化はラピタ文化とよばれ、その担い手たちがラピタ人と呼ばれ
ることになりました。 現在、紀元前1350年から紀元前750年の間に作られたとみられ
る土器がビスマルク諸島で発見されています。確実な「物証」は他になく、後は言語
やその他の考察からこのラピタ人がどこから来たかについて議論が行われているよう
です。
一つの説としては、台湾から来た人々がメラネシアで混血してラピタ人を構成したの
ではないかと言われています。例えば下の図では[1]、紀元前2000年(2000BCE)頃に
台湾を出発して、フィリピンを通過し紀元前1400年から紀元前1200年頃にメラネシア
のビスマルク諸島に到達したのではないかとされています。ニューギニアの北東の海
をビスマルク海と呼び、それを囲むようにある島嶼をビスマルク諸島と呼びます。
(8/7 追加 フィリピン方面からやって来た彼らはここで現地の人達と混血して、彼ら
のラピタ文化を作り上げていったのだろうと考えられています。)
その場所から一部が北上してミクロネシアに行き、残りが東へ進行し、ソロモン諸島
およびバヌアツに到達し、 ついでフィジー、トンガ、サモアに紀元前800年頃に入り
ます。 フィジーや、トンガ、サモアにはその痕跡となるラピタ土器が残されていま
す。ラピタ人、つまり後のポリネシア人はその後暫くこれらの地域にとどまります。
図ではその後(紀元後)800年頃に現在の仏領ポリネシアの領域に進出し、そこから
ハワイや、ラパ ヌイ(イースタ島)、アオテアロア(ニュージーランド)に移動して
いきます。ラピタ人は仏領ポリネシアに入ったころからラピタ土器の制作を止めてし
まいますが、それは土器制作に必要な粘土が手に入らなかったためだと思われます。
仏領ポリネシアに戻ります。この領域は広いのでラピタ人が同時に進出したわけでは
ありません。まず、ソサイエティ諸島に入り、900年から1200年の間にツアモツ諸島
の西側に入ります。そしてここからマルケサス諸島に入ります。ハワイにはここの
マルケサス諸島から船出し、アオテアロアにはソサイエティ諸島から船出したものと
思われます。図では1270年となっていますが、アオテアロアの伝承では1350年頃に
到達したとされています。( 8/8 クック諸島で話されるラロトンガ語はクック諸島
マオリ語とも呼ばれています。言語学の知識はないのであくまで推測ですが、アオテ
アロアへの移住はクック諸島やクック諸島との関係が深いオーストラル諸島から主に
行われたと思います。何故なら、タヒチ島付近から見れば、東方面や北東方面に沢山
の未開拓域が在るので、オーストラル諸島を超えて南方に行く理由付けが少ないだろ
うと思われるからです。逆に、クック諸島やオーストラル諸島から見れば、南方へ
出ていくのが有望に思われたでしょう。)(8/8 上でマルケサス諸島にはツアモツ諸
島から移住したように書きましたが、西ポリネシアから直接にマルケサス諸島へ行く
流れも有ったようです。)
最後にポリネシア人とノヌの関係ついて述べておきます。
この果物はポリネシアでは一般に「ノヌ(nonu)」と呼ばれていますが、世界では
様々な名前で呼ばれており、交易においては「ノニ(noni)」と呼び習わされていま
す。和名は「ヤエヤマアオキ(八重山青木)」そして学名は「morinda citrifolia」で
す。低木の常緑種で植え付けてから三年ほどで実をつけ、湿潤地でも乾燥地でも育つ
丈夫な植物です。原産地はニューギニアからオーストラリア北側にかけてであり、
北西から来た人たちが現地人と混血してラピタ人が形成された時以来、ラピタ人と共
にあったと言われています。ノヌは栄養に優れ、ラピタ人にとっては薬用にもなり、
非常食にもなり、様々に使える有用な植物でした。
ラピタ人は人類歴史上類稀な文明の持ち主であると言われています。優れた生存能力
を持った熟練した船乗りであり、その能力によって隔絶した地域にも移住することが
できました。その彼らと共に有り「カヌー植物(canoe plants)」、つまり、船旅で
常に持ち歩く植物の一つがこのノヌであったわけです。ハワイに移住したポリネシア
人も当然ノヌをハワイに持ち込んでいます。(8/7 追加 ハワイに移住した人たちは
カヌー植物として「イプ」も持ち込んでいます。サンライト カーニバルのハレアカラ
フラで叩いて、振り回した、あの瓢箪です。)
ノヌは現在サモアの特産品で、サモアの貧しい人々が貧困から脱出するための収入を
得る重要な産業がノヌ栽培です。しかし、ノヌは赤道付近であればどこでも作れると
いう特性から競合関係が多く、また、必ずしも非常に美味とは言えないために、市場
も必ずしも広いとは言えません。今後もノヌ栽培を国の産業の中心と位置づけるため
にはサモアとしては計画的な栽培、市場の開拓など十分に考えた国家戦略を立てて行
く必要があると言われています。[1]
[1] "Samoa Noni (Nonu) Market Study," Pacific Horticultural & Agricultural Market
Access Plus Program, 2020 August.