ハパ ハオレ ソングというジャンルがあります。ここではハパ ハオレ ソングの生い
立ちをブログ記事「ハパ・ハオレ・ソング」 (「Aloha Programm トップ/ ハワイを
学ぶ/ 講座で学ぶ/ ハパ・ハオレ」より)を元に紹介し、第二回ハワイ文化復興運動
との関連を前項の目黒氏の論を借りて概説します。


1.ハパ ハオレ ソング
 ハワイ音楽の中でハパ ハオレ ソングは、簡単に言うなら、「ハワイ音楽の
スタイルをとった英語の詞で歌われる楽曲」です。一般的には1900年代から1960年代
までの間に書かれた英語の詞を持つ楽曲を指します。

ハパ ハオレ ソングを生み出していたのは、ハワイから遠く離れたニューヨークの
音楽シーンで活躍するアーティストたちだったそうです。ハワイがまだ上流階級の
"バカンス地"だった時代に、楽園を夢見るアメリカ人が南の島への憧れのイメージを
歌にし、そこにハワイ・ローカルのアーティストも作曲家、ミュージシャンとして
関わり、遠い故郷の島への郷愁を歌に込めたのだそうです。

ハパ ハオレ ソングに合わせて踊った当時のフラダンサーの衣装にも特徴があり
ます。キリスト教などの宗教上の戒律が厳しく言われた時代に、セロファンや
ラフィアでできたスカートから太ももを覗かせ、ビキニ・トップやココナッツ 
ブラをつけただけの上半身というセックス・アピールいっぱいの姿で踊る姿が
当時では南国ロマンスの象徴となり、それをメディアがさらに助長しました。

現在のハワイアンズで考えると「それがどうしたのか」と言う話ですが、当時の
休日には家族総出で教会のミサに出席するのが有るべき姿であったアメリカでの
話です。当時はヨーロッパでも同様に教会が卓越していました。


2.ハパ・ハオレ・ソング流行の一つの側面 
さて、ここからは前項の目黒氏の論文を元に話を進めます。

ハワイ王国転覆以降のフラの歴史を追跡したアドリア・イマダ(Adria L. Imada)
の研究があります。この研究では、アメリカの影響力の膨張とともにフラが大衆
娯楽化していかに変容していったかを論じているそうです。イマダは、ハワイ王国
転覆以降のアメリカでフラが流通・消費されたことでハワイが官能的で女性的な空間
と位置づけられ、ひいてはアメリカのハワイ支配が正当化されたと指摘していると
目黒氏は論を進めます。ここで注目すべきは、文化という枠組みと覇権主義という
政治的枠組みでフラを捉えた点です。イマダは、1893年のハワイ王国転覆後に
アメリカで披露されたフラは、官能的で楽園的なハワイのイメージを創出する役割
を果たし、結果的にフラはアメリカによる併合を正当化するための触媒として機能
したと述べていると目黒氏は結論しています。

この dancingflowers はイマダの論文を読んではいませんが、目黒氏の論の進め
方としてはその通りかと思います。


3.ハワイ文化復興運動
第二回目のハワイ文化復興運動は以上のようなアメリカ支配の正当性のための
フラの流通・消費に対する反対の運動として始まったと見ることができるという
見方を目黒氏はしています。この主張は前項の第一回ハワイ文化復興運動における
カラカウア王の試みに対する総括と反省からすれば、その通りかも知れません。

ハワイ文化の第二回復興運動は1970年代に始まりました。これはハワイ音楽への
関心に始まり、ハワイ語、ハワイ・ピジン、フラ、ラウハラやカパなどのハワイ
工芸品(Hawaiian art)、ハワイ研究(Hawaiian studies)など広い分野に
広がっているそうです。

「メリー・モナーク・フェスティバル」が1964年に始まった、カラカウア王を
顕彰するお祭りであったものが、1970年代にはフラを中心とする催し物として
再出発し、現在では世界最大のフラの祭典となってます。これは上記の見直し
の観点からすれば納得できるものです。こうしたハワイ文化復興の運動は、
時にはハワイ先住民のハワイ復権運動とも関係しながら、現在も続いている
そうです。