映画「オッペンハイマー」 | 1人暮らしログ

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ダンスとダイビングのハッピーな日々。

難しい映画だった。

アカデミー賞作品賞を取らなかったら、観なかったかもしれない。

原子爆弾を作ってしまった人物を擁護したくはないんだけど、

たぶん、彼は純粋に学者だっただけ。

学者としての興味、人間の英知の限界に挑戦したかっただけ。

この原爆でヒトラーの暴挙を止めることには魅力を感じたようだけど、

ヒトラーの自害後には、日本の降伏を促すためという目的には、躊躇があった。

明らかな敗戦で既に”死に体”となっていた日本の一般人に爆弾を投下することには、

疑問を持ちつつも、学者としてその爆弾の成功を見たいという誘惑もあったと思う。

だからといって、こんな悪魔の兵器を作り出したことを許す気にはなれないけど。

映画の中で、ドイツの次に「Japan」という言葉が出てきた瞬間、劇場内に緊張が走った。

世界中で上映されるこの映画を、日本ほど複雑な思いで鑑賞する国は他にないでしょうね。

何しろオッペンハイマーの唯一の犠牲国なのだから。

 

そして、終戦後。

政治的な複雑な駆け引きはさらに難しく、

アメリカ原子力委員会委員長の個人的な恨みから、

オッペンハイマーはソ連のスパイに仕立てられそうになるという驚くべき展開。

しかし、彼は強く抗議するでもなく、

まるで日本の悲劇に対する責任を負うように、

まるで原爆を作ってしまった自分を罰したいように、口をつぐんでしまう。

こちらのほうがドラマチックで1本の映画ができそうだ。

 

原子爆弾は、アメリカにとっては戦争を終えるために必要だったわけで、

オッペンハイマーが英雄になるのもうなづける。

日本人としては、もう少し早く戦争をやめていれば、

もっと早く降伏をしていれば、

広島と長崎の悲劇はなかったはずなのに、

終戦の1か月前にフィリピンで亡くなった叔父も死なずに済んだのに、と思わざるをえない。

 

日本の降伏に関しては、忘れられないテレビ画面がある。

昭和天皇が亡くなった翌日の日本TVの生放送の特別番組で、徳光氏が司会で、

天皇のご学友として、何度かテレビに出ていた人が、いろんな天皇の思い出話の中で、

「イギリスの立憲君主制にこだわって、戦争をやめることができなかった」と

天皇の言葉として紹介していた。

つまり、戦争を終わらせることができた唯一の人間が、個人的な思惑にこだわって戦争を終わらせることができなかったと言う。

生放送でなかったら、この言葉はカットされていただろうと思う。

権利のある人間がその権利を正しく行使しなかったために、日本は原爆に見舞われたということだ。

しかも、そもそもこの戦争の開戦時の大義名分は、「天皇の為の」戦争だったし。

にもかかわらず、その天皇は戦争責任を負っていない。