respect Seiko Matsuda and 80s pops -24ページ目

respect Seiko Matsuda and 80s pops

旅行、音楽、最近は松田聖子を尊敬するブログ

 昭和後期にデビューした女性歌手の多くが
引退していきました..........

 

 

 

 

 ただひとり38年間、毎年、音楽活動を続け、

この11月に「新しい音楽の扉を開けた」ひとが
聖子さんでした。 どんなときも前だけを向いて、

倒れても倒れても立ち上がって、進み続けて

こられました。

 妥協をよしとせず、完璧主義ともいわれる

聖子さんですが、ここに到るまで積み

重ねてきた努力は凡人には想像が

つかないものであったとうかがって

おります。

 その努力が実り大きな花を咲かせることができた
ことを昭和を生きた人間として心からお祝いいたします。

 来月で御尊父が他界されてから20年となりますが
聖子さんの新しい出発を、天国からお祝いしてくださって
いるものと確信しました。ここを読んで頂いた方の

多くは蒲池孜さんの久留米弁を覚えていらっしゃる

かと思います「のりこちゃん ♥ よかったね」

 

 

Seiko Jazz 東京公演 はじめてのJAZZコンサートですが無事終了したとのことで、新しい世界が開けた記念すべき日であったと多くのひとがおっしゃっていました。

 

そして聖子さんのラジオ番組で気になったひとがいるのですが、 聖子さんに曲を提供されたこの方です。


【インタビュー】大江千里 ポップスターの座を捨てジャズを追求し続け8年 花開く”大江JAZZ”

 

 先月の番組中ですが、

ビリージョエルのピアノマン→ ピアノの話

→ 大江さんのRAIN → 聖子さんが歌うJAZZ

がながれました。いま米国にいる大江さんはJAZZを

演奏されています。

 

 最近の聖子さんの選曲には絶妙なものがあり、これが謎かけで、将来の大江さんと聖子さんの競演を暗示させるものだたとしたら、

すばらしいだろうなと勝手におもってしまいました。

 

 47歳ですべてを捨てて渡米した大江さんと、五十代で新しい世界を確立させつつある聖子さん。それぞれのJAZZで楽しめる

幸せな秋です。

 

 わたしが尊敬している聖子さんの御地元
訪問を機に聖子さんのご先祖様の歴史について
調べてみました。
 中川右介さんは新著 「阿久悠と松本隆」 
のなかで、「松本隆と松田聖子が組まなかったら
日本の歴史は別のものになった」
と書いたそうです。わたしも全く同じ認識でした。

 

映画「ラーメン・テー」完成報告会の聖子さん


 いつも自然体で前向きに人生を切り開く聖子さん。
まわりから傷つけられても、いわれなき攻撃にも反論せず、
それでいて他人のことを決して悪く言わない
その生き様は、義を貫いたまま滅び去った戦国の武将と
重なってします。 結論的にいうとは聖子さんは

もはや歴史的存在で、にほんの歴史の一部では

ないかと感じました。

 

 多くの人におおきな感動と生きる勇気を与えて
くださったその功績は、後世の人々から
必ず正当に評価をしてもらえるもの
と信じています。

 

 

 

 

 福岡県の大江天満神社の重要無形民俗文化財 
幸若舞についてです。  (幸若舞 wiki)

 信長や家康もこの幸若舞を愛好したと
いわれています。織田信長が好んだ 敦盛 は
みなさんもドラマで見たことがあるかと思います。

 発祥は越前でむかしは各地にあった文化ですが
今残っているのは日本全国で唯一この筑後瀬高だけだ
ということです。
 戦国期に蒲池氏が京都から舞の名手を招聘し、
家臣に舞を習わせ広まったといわれます。

 

 


(みやま市のホームページ)

 柳川城主であった蒲池鎮漣は舞の
名手だったといわれます。その命はみじか
かったかも知れませんが、室町~平成まで文化
がとだえることなく継承されつづけ
ているということに驚きます。

 

 

***************

 

 聖子さんの実父の蒲池孜さんも芸術を愛し
才能に長けていたと聖子さんが過去の番組で
おっしゃっていました。
 聖子さんのご先祖様は文化を大切に
されたのですが、文化を継承し続けてきた
筑後の瀬高町のひとびとの心意気を知り
胸が熱くなります。
 たとえその身は滅びても文化と
いうものは永遠のものだ と教えて

くれる聖子さんのご先祖様の

遺徳だとおもいました。

 

 

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 熊本県宇城市三角町郡浦にある神社の紹介です。

読者の方の多くはもうひとりの かまちひめ を
想像されたかもしれませんが、あながち間違いとも

いえません。

 

熊本県観光連盟 の解説

 

 先の熊本地震で熊本城の被害が大きく

報道されましたが、肥後の一宮である

阿蘇神社も大変な被害をうけていました。

震災での風評被害は大きく、

道路が復旧しても観光客がへったままと

いう店の人もいました。

 

(昨年の阿蘇神社の被害)

 

本題の 郡浦神社 (こうのうらじんじゃ)ですが

甲佐神社、郡浦神社、健軍神社が阿蘇三社で、
阿蘇神社とあわせて 阿蘇四社ともいわれるそうです、

鳥居はむかしの名残で三宮となっています。

蒲智比咩命、健磐龍命、速瓶玉命、

神倭伊禮毘古命をおまつりしています。

主祭神が女性で かまちひめ と
いう響きが素敵なのですが、
げんざいの神職も女性の方がつとめて
いらっしゃるそうです。
 海の女神 というところにも魅かれます。
参拝したあとでプールで泳いだのですが、
泳ぎがうまくなったような気がします。

 

 かまちひめ は漢字では、 蒲智比咩 

蒲池比咩 蒲池媛  蒲池姫 といくつか
の書き方があるようです。

 

この神社の由緒では蒲池となっていたので気になりました

が 蒲池氏ルーツ にもあるように、多数の説のなかの

ひとつが、この神社とも関係していると知り、ますます

この神社を崇拝するようになりました。

 




 聖子さんと共通の祖先をもつ一族の

宇都宮鎮房(城井鎮房)について新しい本

が出ていました。  城井鎮房 wiki





 宇都宮というのは栃木県の県庁所在地と同じで

下野の宇都宮氏と祖先が共通です。

 豊前宇都宮氏ともいわれますが、

鎌倉初期から数百年九州北部を拠点と

していたのですが残念ながら、天正16年

(1588)一族が非業の死をとげ、豊前宇都宮氏は

大名としての終焉を迎えます。

 



(天徳寺のホームページ)

 

 鎮房の子の朝房も黒田、加藤により肥後にて

滅ぼされましたが、朝房の妻が脱出できたため

朝房の子孫は幕末まで越前松平氏に仕えた

とのことです。

 滅ぼした側の黒田如水、黒田長政は

某局のドラマでも放映されましたので

ご存知の方も多いかと思います。

ふしぎなのは、関が原の後、黒田氏が

筑前へ転封、そして嗣子が次々に

早世して幕末まで養子の当主が

何代も続くことがあったとのことです。




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 秀吉は文禄の出陣の際に、縁起をかついで、

艾蓬の射法で吉凶を占おうとしましたが、

その技は宇都宮氏一子相伝の秘法であるため、

占いもうまくいかなかったとのことです。

 秀吉は宇都宮氏を滅ぼしたことを

悔やんだといわれます。

「後悔先にたたず」とはまさにこの

ことかもしれません。

 


 
鳶の笛 黒田官兵衛と宇都宮一族との戦い/梓書院

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 聖子さんの御地元を訪問したのがきっかけでその歴史にふれ、
蒲池氏の歴史を勉強しました。

 

 蒲池鑑盛 かまちあきもり

 

勉強すうるちに大友氏、島津氏、小弐氏、龍造寺氏、

大内氏、毛利氏...登場する人物の地理的広がりと、

その前後の時間軸の関係が入っていないと本

を読んでもついていけなくなることがあり、結局は

九州三国志?を勉強することになりました。
崇久寺
 蒲池鑑盛(宗雪)は筑後十五城二十四人の旗頭、

筑後筆頭大名と呼ばれ、「義心鉄の如し」と

評されるように情深い人でした。

鑑盛は同盟関係にない龍造寺氏が肥前を追放された

際に二度にわたって一木(大川市)に保護し、

二度とも東肥奪還に協力しました。

「武士は 相身互い身である」

「今はひとの身、明日はわが身」

と情けをかけました。結局は

恩を仇で返されることになるのですが

心広く情深い性格が戦国では裏目に

出たのでしょうか?

鑑盛の石碑

 天正6年(1578) 日向の耳川で戦死。偉大なる筑後の雄の

最期でしたが時を同じくして、主家大友氏の衰亡、島津氏の北上、

秀吉の下向と時は流れるわけですが、その直前に、肥前龍造寺が

筑後に進攻し滅亡の危機に巻き込まれます。

 鑑盛が築いた城は 「柳川三年、肥後三日、肥前筑前...」と
いわれる難攻不落の要塞でしたが、鑑盛亡きあと、
鎮漣の代に助けた龍造寺に計略でおびき出され、
一族が滅亡の危機に瀕することとなりました。

 

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 尊敬する聖子さんのご先祖様について知れば知るほど、身近な存在に思えてなりません。性格が良すぎたというか、心の広さ、情の深さにつけ込まれて追い詰められてしまったと言うことでしょうか。

 それでも高潔な生き方を最期まで貫いた蒲池氏代々の足跡は

後世の人に必ず評価されると信じています。

 

 

 


 福岡県柳川市の公営駐車場付近に二宮神社があります。松田聖子さんの祖先がこの神社に関係しているとのことでしらべてみました。

 

 本能寺の変の数年前ですが、耳川の戦いで島津と大友が激突、

大友方の蒲池鑑盛が戦死、当主蒲池鎮漣が柳川城主となって

いましたが、大友氏はそのころには衰退、対照的に
勢いをつけた肥前の龍造寺は筑後に攻め入ります。

 鑑盛の時代に二度にわたって保護された龍造寺は、
鑑盛が生きている間はさすがに遠慮していたようです。

 

 大恩ある蒲池にどのような感情を抱いていたのか疑問ですが
柳川の篭城戦で勝てなかった龍造寺は計略にて蒲池鎮漣を
肥前におびきだし謀殺してしまいます。

(鎮漣の異母兄)鎮久も同時に討たれました。柳川方は(鎮漣の弟)統安、統春、(蒲池統安の子)鎮貞をはじめ一族ことごとく討たれました。

 

 

その非道ぶりに龍造寺家臣の百武賢兼は此度の成敗
お家の滅亡につながると出陣を拒否したといわれます。
 予言どおり天正12年に隆信が沖田畷にて戦死し龍造寺の
衰亡がはじまり、藩政時代には鍋島氏に権限が委譲される
こととなりました。

 本能寺の変がおきた天正年間、一族が次々に戦乱にまきこまれ
大名家としての蒲池氏は衰退することになります。
  天正9年(1581)当主の蒲池鎮漣(34)が肥前にて謀殺される。
  天正16年(1588)同族の宇都宮鎮房(52)も豊前にて謀殺される。
  天正20年(1592)残った分家の蒲池鎮運(31)も釜山にて病没。

 

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 不幸にも一族滅亡の危機に瀕しましたが、かろうじて

生き残った、鑑盛の孫や、上蒲池の子孫が命脈を保っています。

鑑盛の孫である応誉の子孫が蒲池孜さんで、初代久直から

数えて四十三代目。昭和30年代に聖子さんが誕生された

ということです。

 

 

二宮神社の鳥居は平成29年改築されていました。ここに蒲池鎮漣と、聖子さんの直接の祖先にあたる蒲池統安がまつられています。

 

聖子さんに興味がある方には
お参りをおすすめしたいです。

 

 

 

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 今回の訪問は、松田聖子さんの作品に当初から携わっておられた
大村雅朗さんの没後20周年で、追悼する本が出版されたのがきっかけです。(写真は大村さんの墓所である福岡市の聖福寺)

聖子さんの実父が他界されたのも20年前で、聖子さんが母校の中学校の門を寄贈されたのもおなじ年でした。この年聖子さんと娘さんも改姓されており、久留米を訪問して、不幸がかさなった20年前の聖子さんの心中をお察しすると、涙がとまりません。
 また、10年前は、NHKで女性の時代というテーマで聖子さんの特集があった年ですが、同じ年に、中川右介さんが聖子さんに関する著書をだされ、初版を読んでいたのですが、その後の文庫本で加筆された内容があるとしってあらためて読みました。

初版が出された10年前と変わらずに「聖子さんは未来を志向し」歌い続けていることに驚いたりしました。今年は娘さんもご結婚され、ご自身もJAZZアルバム、JAZZコンサートと新たな一歩を踏み出されました。聖子さんの益々のご活躍を心から祈っております。

 聖子さんの実家近くの中学校周辺は閑静な住宅街で、
セミの鳴き声が校庭にひびきわたっていましたが、聖子さんも
子供のころおなじようにセミの鳴き声をきいたのかなと

思ったりしました。

 むかし聖子さんが歩いていたのと同じ道を、
たどってみて、聖子さんも同じ風景を見ていたのか
と思うとそれだけで胸がいっぱいになりました。

 今回訪問したのは九州一の大河と周辺の肥沃な平野をもつ筑後と呼ばれる地域です。(写真は福岡県のホームページの分類)

 このすばらしい筑後で育った聖子さんだからこそ、尋常でない心の広さをもっているのかなと感じたりしました。聖子さんの歌が好きな方には一度おとずれてほしい地域です。

JR久留米駅

西鉄久留米駅

荒木駅

 

恋木神社 聖子さんの地元で大人気の神社

 

 こんかい時間の都合、情報不足で訪問できていなかったスポットが沢山ありますので、来年の夏に再チャレンジしたいと思いました。
 

柳川を訪問した際の関連の城、神社、寺院について

 

 

塩塚城  柳川城の支城で蒲池統安、蒲池鎮定がまもっていました。周囲は田園に囲まれて海抜はたかくありません。建設会社の敷地隣に石碑が残っていて、会社敷地に天守の模型がありました。旧大和町にあります。

 

皿垣城  柳川城の支城で蒲池統春がまもっていました。公立小学校の近くの説明文があります。塩塚城と同じように海抜が低いようです。旧大和町にあります。

来迎寺 蒲池鑑盛の孫が この寺の第四世住職をつとめられてのちに柳川で良清寺を開いたそうです。旧薩摩街道にあるのですが道が狭いためか静かなため、昼間でも和やかな空気に包まれ時間が止まったような感覚になります。旧瀬高町にあります。


高伝寺  龍造寺氏、鍋島氏の菩提寺で蒲池鎮漣を討った龍造寺隆信もやがて島津氏に破れ龍造寺の時代も長くは続かなかったそうです。佐賀県佐賀市にあります。


与賀神社  蒲池鎮漣一行は早暁にこのあたりで謀殺され
堀はあかくそまったと言われています。佐賀県佐賀市にあります。

西行寺 蒲池鎮漣一行の受難の石碑が境内にありました。
ここには明治元勲の墓、肥前藩重臣の墓もありました。佐賀県佐賀市にあります。


西念寺 蒲池氏分家の菩提寺ですが
ここには戦災にあっていない貴重な中世の資料も
残っているとのこと。広川町にあります。

山下城の麓 山城ですが登山口をみつけるのに苦労し日没で時間切れのため山麓にある神社を訪問して登山は断念しました。神社から筑後平野をながめると、戦国時代のひとの気持ちに近づけるような気がしました。 八女市にあります。


福島城 山下城の支城としていまの八女中心部に築かれ、筑紫氏、田中氏の居城となったそうです。公園内に跡が残っています。八女市にあります。

 

 

立花城の麓 立花宗茂、戸次道雪の居城で有名ですが、
登山の時間がとれず山麓にある菩提寺を訪問しました。
新宮市側からのぼれます。

梅岳寺 戸次道雪の菩提寺

 

宮永様居館跡 柳川に転封後はこの辺に夫人は別居したとのことで
今も昔も夫婦の間は同じ悩みがあったのか、安心しました

 

風浪宮 蒲池氏で最も有名な蒲池宗雪が戦国時代に再建した神社です。蒲池氏の史跡は徹底的に破壊され殆ど残っていないのですが貴重な旧国宝指定の重要文化財です。大川栄策さん、陣内孝則さんで有名な大川市にありますが神社の狛犬には陣内さんの御名前がきざまれています。

 

 

善導寺  浄土宗大本山で鎌倉時代に鎮西聖光上人が創建、とにかく敷地が広く歩くだけで気持ちがよくなります、久留米訪問の際は拝観をおすすめしたいです。最近になって立花宗茂の妻の誾千代の墓が寺院内にあったことがわかったそうです。久留米市東部にあります。

 

少し離れたところですが鉄道の駅もありました。

 


歴史については素人なので文がおかしい点があるかと思いますが、その辺はご容赦願います。