流祖である高山政吉先生の事はいろいろ書いてきたが、その後に続く他先生方の事は何一つ無いことに気づき筆を持つ事にした。


戦時中に隆盛を極めた高山流であったが、終戦とともにその必要性は失われ勢いは衰えていった。

高山先生が大分県竹田市久住に隠棲したこともあり、流派を受け継いだものは極僅かに留まる。

高山の直弟子は3人。まずは高松宮宣仁親王(明治38年生·昭和62年没82歳。大正天皇の第3皇男子。海軍大佐)、それに小山勇(大正5年生·昭和62年没71歳。海軍少尉)と千原義夫(大正元年生·昭和63年没。判任官)。

三世は高山流二世の小山·高弟の千原に師事した。


二世の小山勇先生は昭和58年頃、京都府舞鶴市吾妻通り八島南にお住まいで近くの白糸浜神社境内を訓練場として三世は御指導頂いたようである。

当時先生は晩年であったから喜怒哀楽の感情を外に出すことは少なく淡々と静かに教えられたようだ。

「竹刀剣道では人は斬れない。真剣の抜刀術でなければ戦場では役に立たない」が持論であった。


経歴は新潟県柏崎市西山町出身。昭和8年志願兵として横須賀海兵団に入隊。職種は工作兵で「横須賀工機学校」を卒業後、軽巡洋艦「多摩」戦艦「陸奥」を経て昭和17年初頭、特設運送船「乾降丸」(給油船)に乗り組み、日本軍が攻略したボルネオ島パリックパパン基地(石油施設)に進出している。

終戦は上海近くの船山島定海の海軍警備隊で迎え、復員は昭和21年5月、上海から博多に入港している。最終階級は海軍少尉で、叙位は正八位が授与されている。


戦後は海軍工廠を引き継いだ日立造船に入社し定年まで勤め、その間特技を活かし、木工工作、2級建築士、救命綱の発明、ボイラー技士、潜水夫などの免状を得てフィリピンの沈没船引き揚げにも従事している。斗酒猶辞せずの酒豪であったが、三世が指導を受けていた頃は晩年と三世の事を思ってか「年金暮らしだから」と一度も誘いに応じてくれなかったという。


三世が試斬の研究から高山流の存在を知り、舞鶴市の小山勇先生に辿り着き自宅玄関の「日本剣道高山流刀法 高山拱辰館舞鶴事務局」の看板を見たときは気分が高潮したと語っていた。


昭和44年高山流を演武する小山勇二世