昭和5年3月15日に京都府舞鶴町五條海岸通りに高山拱辰館剣道修練道場を開く。

二世である小山先生によると、舞鶴市内の篤志家から借地として提供されていたものであった。


武専を出た後、大正15年に舞鶴中学校に剣道教師として赴任して以来待望の道場開設であった。

尤も、昭和5年の8月には武徳会から剣道五段位を授与されており、昭和12年の高山流の創設から以前の話であり高山流の教授ではなく、剣道の教授であったと推測できる。


道場名である「拱辰」であるが、高山の剣道師範である内藤高治範士が北辰一刀流であり、流名の由来が吉田唯一神道による北辰(北斗七星)の信仰を神格化した所から来ている事からつけれれたと言われる。


具体的には、「拱」めぐる「辰」十二支の五位、星・日・月とあるので太陽や月を廻る主であると解釈できるかと考えられる。

 

道場の広さは不明だが、写真を見ると相当の広さであったことが伺い知る。

昭和43年8月に大分県竹田市久住山麓に建設した戦後の拱辰館道場は、建坪100坪総工費600万円であった。


昭和15年戸山学校の剣術科長である森永清中佐と教官ら3名は校長の命で高山流の実戦刀法を見学に訪れている。

又、高山先生の弟である次男の惣次郎(剣道・銃剣術錬士)も戸山学校にいた頃に拱辰館にきた事があったと、高山流の高弟であり三世の剣師の千原先生がいっておられたと言う。


戦後高山先生が久住山の麓に拱辰館を再建するまでは、昭和42年頃から二世である小山勇先生が舞鶴の自宅に「日本剣道高山流刀法 高山拱辰館舞鶴事務局」の看板を挙げていた。 


現在、拱辰館の道場の名称は岐阜県の木曽路にて唯一高山流三世が引き継いでいる。

昭和17年・18年の頃と思われる。

筆跡は高山筆