2月11日は建国記念日である。神武天皇が即位し日本国が建国した日だ。戦前は紀元節と言われ今の80代~90代は紀元節の歌を歌える人が多い。それだけ当時の学校教育でも重宝された祝日でもあった。


しかし、高山流を学ぶ者にすれば2月11日は別のめでたい日でもある。

それは、高山流が創立された日でもあるからだ。 高山先生が昭和13:年2月11日に南京城内蒋介石官邸で12月から執筆していた『起草案 近代戦用白兵抜刀術 』を成稿した日である。

その為、高山流では昭和13年2月11日を流派の創立された日と指定している。


丁度、令和5年で85年となる。高山流が世に出てから85年経つも、戦前は海軍を中心に隆盛を誇ったが、戦後は久住の山中に潜んでいたので高山流が本当の意味で世に認知され始めたのはここ数年である。

その意味では三世が中興の祖と言っても過言ではない。


以前から従軍し実戦研究をと考えていた高山は、昭和12年9月23日に支那事変に従軍願いをだし陸軍は許可したが、海軍は認めず取り消しとなった経緯がある。

その後内命を受けて、同年11月13日に出陣した上海派遣軍の増援部隊として中島今朝吾中将率いる第16師団に12月に追い付き従軍が叶うこととなる。


その後も、中島中将には戸山学校に白兵抜刀術の資料を紹介して貰ったり、新聞社や雑誌記者の公演会にも司会の労を取ってくれたので、高山は終生恩義を感じていたようである。


中島自身は、後に日露戦争にて第一軍司令官になった薩摩の黒木為楨が大分県宇佐にて軍事演習の視察に訪れた際に、当時12,歳だった中島を見いだして東京に出てくるように勧められた経緯がある。

後に東京に出て黒木の書生になり、陸軍士官学校を出て帝国陸軍の軍人となった事から,, 17歳も離れている高山に若かりし頃の自分が受けたように世話をやいていたのかもしれない。


兎にも角にも従軍できた高山は、12月13日正午に16師団が南京城陥落の後警備に着いた後に入城した。

中島中将の客分という扱いであったので、蒋介石官邸の一室を与えられ草稿に着手している。


中島中将の昭和12年12月13日の日記によれば

本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ 時 恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり」

と記載がある。


まさしく入城した直後に捕虜を試斬している。藩政時代は試斬りと言えば、「様斬」といわれ罪人を斬るのが常であったが、流石に昭和ではその様な事は行えず高山自身も木材から始まり、犬や豚を斬ってはいるものの、人を斬ったのはこれが初めてであったと思われる。


捕虜を試斬りしたと言えば、現代の感覚で言えば「如何なものか」となるだろうが、これには理由があった。

当時兵士の身柄を確保し捕虜にした際に、「田舎に戻るか原隊に戻るか」二者択一の選択肢を日本軍は求めたが大半が原隊に戻ると答えていた。

日本軍としては、原隊に戻るという捕虜を解放する訳にはいかないという理由も一つにあった。


まだ硝煙残る南京城外で、その時に白兵抜刀術の写真を八十数枚撮り技法解説を加え写真集として終生大事にしていた。現在は三世が保管している。


その後も高山は第16師団と行動を共にし、昭和13年5月徐州作戦に従軍、同年10月には武漢三鎮作戦に従軍している。漢口攻撃時には尖兵小隊と行動を共にし前線にも立ち弾丸の飛び交う中軍刀を振るった事を記している。ちなみに、5月の春・10月の秋に行われた為「春秋作戦」と言われる。


昭和13年12月に第16師団は第11軍に編入される。昭和14年5月1日に第11軍は襄東作戦、5月9日には南昌作戦に参加しており、それらにも従軍したとされる。

昭和13年11月上海方面の第3艦隊司令長官の長谷川清中将の命により、上海海軍陸戦隊本部において抜刀術研究整備を完了するとあるも、経歴書の中には、これら襄東作戦・南昌作戦にも従軍し実戦研究が完了としているので、長谷川清中将の命の後も実戦研究という名の元に従軍していたのかもしれない。


因みに第16師団は師団長が昭和13年7月15日をもって、中島今朝吾中将から藤江恵輔中将に交代している。

昭和43年に発刊された『日本武道大系』では、従軍師団として第16師団・第13師団・第6師団・第106師団・第7師団とあるが、第7師団を除いては全て第11軍の師団である。(第7師団は中支に投入されて居ないので、第3師団の間違いではないだろうか?)

世話になった中島中将が居なくなり、第11軍に編入された事から、他の師団にて従軍したのではないかと推測される。


昭和14年9月24日大陸命362号に基づき第11軍の中支那派遣軍は廃止となり、北支那派遣軍と統合され支那派遣軍となる。

又、明治34年に東郷平八郎を初代鎮守府長官に任命しながらも大正12年にワシントン海軍軍縮条約にて要港部と格下げになった舞鶴鎮守府が、昭和14年の11月に再び鎮守府として昇格される。

これらの事柄を機に高山は、昭和14年末頃に帰国の途についたと思われる。


南京入城式
先頭は不明なれど、第10軍柳川平助司令官か?
後方には、長谷川清第3艦隊司令官。

中島今朝吾中将
非常に豪気な人で、松井軍司令官ももて余したようだ。
高山と近い大分県宇佐市の出身。明治14年生まれ。陸士第15期。昭和20年没64歳。

南京攻略戦

徐州戦


武漢三鎮攻略戦