やばいです!

これは本当にすごいこと!

本当に感謝の気持ちで一杯です!

以下転記


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 4月26日、日本文学研究のパイオニアとして知られるドナルド・キーン米コロンビア大学名誉教授(88)が、約10人の大学院生などを前に最後の授業を行い、56年に及ぶ教師生活にピリオドを打った。日本国籍を取得し、余生を「日本人」として過ごすためだ。

 約35人の報道陣が見守るなか、キーン名誉教授は、ゆったりとした穏やかな口調ながらも、「19年前の公式な引退後も教壇に立ってきたが、日本では、88歳(米寿)は重要な年。わたしも人生をチェンジすべきときだと考え、日本で残りの人生を全うすることにした」と、英語で決意を語った。帰化は、長い間、驚くほどの親切さで接してくれた日本人への「せめてもの恩返し」だという。

 キーン氏は、いったい日本のどこに魅了されたのか。日本人の最大の短所は何か。東日本大震災で大きな転換点に立つ日本には、何が求められているのか――。最後の授業の翌週、ニューヨーク市内の同大学で、日本文化を極めたキーン名誉教授に日本語で話を聞いた。


――今年になって日本永住を考え始めたとうかがっています。


キーン氏 1月、日本で3週間入院した際、あとどのくらい生きるか分からないと考え、残りの人生をどこで過ごすか、まじめに考えるようになった。そして、達したのが、いちばん住みやすい所は日本、という結論だった。かねてから日本の友人などに恵まれたことに対し、感謝の気持ちを伝えたいと思っていたところ、大震災が起こった。テレビで、ものすごい津波の映像を見て、日本の国籍を取ろうという気持ちが固まった。わたしの決断が日本の人たちに勇気を与えると言ってくれた日本人もいる。日本を離れる野球選手なども多いなかで、一人だけ日本に向かうのだから、驚く人もいたが、反対する人はいなかった。わたしを知っている人は、みんな、「なるほど(当然)」と。


 今、何十年もかけて集めた文学書や美術書など何千冊をどう処分しようか、考えているところだ。今まで1冊も捨てたことがない。東京には、35年前に買った家がある。これまでも、1年の3分の2を日本で過ごしてきた。日本でも教えたことはあるが、日本の習慣では、70歳になると仕事がないので(笑)、講演活動などを行ってきた。北海道から九州まで、すべての都道府県を回った。

――56年間の教師生活を振り返って、最も心に残る思い出は何でしょう?

キーン氏 1968年、コロンビア大学で、学生のストライキがあった(注:映画『いちご白書』の下敷きにもなった有名な学園紛争)。わたしの教え子たちは参加していなかったが、(学内が騒然としていたので)私の家で授業をした。わたしは、学生が政治活動にかかわってもかまわないと考えていたが、1つだけ大事なことがあった。日本文学を愛していること、だ。あのころの学生は、心底、日本文学に「惚れて」いた。だから、授業もうまくいった。教え子には本当に恵まれた。

――教授は、日本という「女性」と結婚したようなものだと発言されています。その女性のどこにいちばんひかれたのでしょう?

キーン氏 日本にいると、いちばん落ち着く。米国が嫌いなわけではないが、ニューヨークに帰ってくるとショックを受ける。物を買っても、ありがとうとも言われない。今日も医者に診察してもらったが、「ワイシャツを脱げ」といった調子だ(笑)。それに比べて、日本のお医者さんの丁寧なことといったら。人間と動物のいちばんの違いは「礼儀」である。わたし自身、自然に日本の礼儀を守るようになった。もちろん、知らないこともあったが、いったん覚えると、それを実践してきた。

 31歳のころ、日本に留学し、下宿したのが、京都にある国宝級の家の離れだった。いろりや茶室もあり、なんともいえない眺めだった。縁側に立つと、人家が一軒もなく、見えるのは、お寺だけ。だが、ひと月ほどたつと、母屋に米国帰りの京大の助教授が入ってきた。それを聞き、大変がっかりした。きっと英語の練習をさせられると思ったからだ。彼の部屋の前を通るときは、横を向いて視線を合わせないようにした。

 ところが、ある夜、夕食を共にすることになり、以来、親友になった。のちに文部大臣となった永井道雄氏(故人)である。素晴らしい人だった。彼に出会ってから、現代の日本も知らねばだめだと思い、選挙演説を聴きに行ったりした。当時、『夕鶴』(戯曲)が大人気だった木下順二とも知り合った。人の紹介で三島由紀夫とも親しくなり、作品の一部を訳したこともある。素晴らしい日本人の友人を持って、本当に幸せだった。

――日本人と米国人の最大の違いは何だと思われますか。

キーン氏 家族に不幸があっても、泣いたりせず、自分の本当の気持ちを隠して人に接するのが日本人。一方、米国人は、ワーッと話す(笑)。以前、ハワイ出身の力士が負けたとき、とても悲しそうな顔をしたが、日本の力士は、表情を見せない。外国人が日本で暮らすと、日本人は、なぜ悲しいのに笑うのかと驚く。

 今回の震災でも、米国人は、日本人の落ち着きぶりに驚いた。素晴らしい、と。今ほど親日感情が高まっているときはない。わたしの友人で、特に日本に関心がない人でも、大震災の話をする。(いろいろな話が出るが)誰からも、一度も日本の悪口を聞いたことがない。

――逆に、日本の最大の欠点は何でしょう?

キーン氏 極端から極端に走るところ、だろうか。バブルのころは、ロックフェラーセンターからドイツのお城まで、(日系企業が)ほうぼうで土地などを買ったが、もうちょっと遠慮してもよかったのではないか。

 だが、(バブルがはじけると)今度は逆に、「もう日本はだめだ。外国は、みんな中国に興味がある」となってしまう。もう日本語を勉強したがる外国人はいないと言うが、うそだ。今年は、(コロンビア大学の日本文学のクラスには)去年の倍の学生が集まった。日本では、ジャパン・バッシングからジャパン・パッシング(日本外し)など、誰かが言い出すと、みんなそれにならってしまう。

 今日、ニュースで知ったが、(2013年以降)ニューヨークのタクシーが日産車に統一されるという。日本製品はいいということを、みんな知っている。風評被害で日本の食べ物を敬遠する米国人もいるという話があるが、わたしの周りでは聞いたこともない。

――今、日本は、サプライチェーンの混乱など、戦後最大の危機に直面しています。

キーン氏 日本製品は高品質で信用できるという評価は、揺るぎないものだ。以前は、日本は物まねが上手だと言われたが、今は、日本が新製品を出し、他国がまねる時代だ。日本の美術も人気がある。音楽も、毎年、ニューヨーク・フィルハーモニックが武満徹の曲を演奏するようになり、広く知られるようになった。経済力が、世界2位から3位になったことに意味はない。中国は人口が多い分、(国内総生産が高くなって)当たり前だ。日本が悲観することは何もない。

――震災以降、エネルギー不足や停電の恐れなどにより、昔のレベルの生活にダウンシフトすべきといった声も出ています。

キーン氏 たとえば、機関車を例にとろう。懐かしさや(レトロの)美しさへのあこがれから、乗ってみたいという声があるのは分かる。だが、私の記憶では、本当にひどいものだった。トンネルに入ると慌てて窓を閉めたが、ほこりが口に入って、嫌な味がいつまでも残る。持ち物は汚くなるし、ちっともロマンチックではない。

――震災の危機管理や原発対策で、日本政府を批判する声が目立ちますが。

キーン氏 昔から、日本政府は透明性を欠いていた。たとえば、公人に不幸があったときも、原因などが詳しく報道されない。日本では、個人的なこととして扱われるのだろう。米国などでは詳しく報道されるが、日本政府は、はっきりした情報を出すのを避ける。ごまかしているなどとは思わないが、米国とは事情が違う。

――日本に行ったら、真っ先にやりたいことは何ですか。

キーン氏 ささやかなことだが……。家の近くの小道の両側に店が並んでいるのだが、まず、そこを歩いて、「帰ってきました!」と、みんなにあいさつしたい。

――日本の読者にメッセージをお願いします。

キーン氏 日本は大丈夫。必ず復興する、と信じている。


(ウオールストリートジャーナル日本版2011/05/19(木)http://jp.wsj.com/Japan/node_235776


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ドナルド・ローレンス・キーンDonald Lawrence Keene, 1922年 6月18日 - )は、アメリカ日本文学 研究者、文芸評論家勲等勲二等 。2008年に文化勲章 受章。コロンビア大学 名誉教授日本文化欧米 へ紹介して数多くの業績を残した。称号東京都 北区 名誉区民ケンブリッジ大学東北大学 ほかから名誉博士賞歴 には全米文芸評論家賞受賞など。


来歴・人物 [編集 ]

ニューヨーク市 ブルックリン で貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパ を旅行し、このことがきっかけでフランス語 など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級 を繰り返し、1938年 、16歳でコロンビア大学 文学部 に入学。同校でマーク・ヴァン・ドーレンライオネル・トリリング の薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語 特に漢字 の学習に惹かれるに至る。

1940年 、厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントで購入したアーサー・ウェイリー 訳『源氏物語 』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作 のもとで日本思想史を学び、日本研究 の道に入る。コロンビア大学 にて、1942年 に学士号を取得。日米開戦に伴って米海軍 日本語学校に入学し、日本語の訓練を積んだのち情報士官 として海軍に勤務し、太平洋戦線日本語 の通訳官を務めた。通訳時代の友人にオーティス・ケーリ (のち同志社大学 名誉教授 )がいる。

復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年 に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学 に転じ、セルゲイ・エリセーエフ の講義を受ける。1948年 から5年間ケンブリッジ大学 に学び、同時に講師 を務める。同校ではバートランド・ラッセル に気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターアーサー・ウェイリー とも交際。この間、1949年 にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。

1953年 京都大学 大学院 に留学。京都市 東山区 今熊野 の下宿にて永井道雄 と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二 とも生涯の友となった。1955年 からコロンビア大学助教授 、のちに教授 を経て、同大学名誉教授 となった。

1982年 から1992年 まで朝日新聞 社客員編集委員。1986年 には「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立した。1999年 から「ドナルド・キーン財団」理事長。2006年 11月1日源氏物語千年紀 のよびかけ人となる。

日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語 のものもおよそ25点ほど出版されている。近松門左衛門松尾芭蕉三島由紀夫 など古典 から現代文学 まで研究対象の幅は広く、主に英語圏 への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。英語版の万葉集19世紀 日本文学、中国文学アンソロジー の編纂にも関わった。

1976年 には、日本語版、英語版それぞれの『日本文学史』の刊行が開始された。近世近代現代古代中世 の三部に大きく分かれる。

2011年3月11日発生の東日本大震災 を契機に、コロンビア大学を退職した後、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した[1]

クラシック音楽、特にオペラ の熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。

友人であった安部公房 は、キーンが明治天皇 について書くことを告げると、書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告した。何年後かに実際書いてみるとどこからも脅迫されず、キーンは逆に意気消沈したという。

主に交流のある作家は三島由紀夫谷崎潤一郎川端康成吉田健一石川淳安部公房 など。かつて大江健三郎 とも親しかったが、大江の態度の変化によって疎遠になった。大江から避けられるようになったことについて『私と20世紀のクロニクル』p.223-224では原因不明としている。ただ、大江の縁があって、安部と終生の親友になれた。井上靖文化賞 授賞式の際にキーンが出席出来なかった代わりに大江がスピーチに参加した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%B3


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