「水無月」の謎
早いもので、もう6月も終わりですね。
この時期になると、いつも僕が首をひねってしまうのが、6月の古い呼び名「水無-月(みなづき)」です。
ご存知の通り、「水」が「無い」月と書くのに、現実は梅雨真っただ中。
この矛盾について、よく言われる「なるほど!」な説がありますよね。
それは、**「『無』は無いという意味じゃなくて、『~の』という意味の助詞『な』に漢字を当てただけ。だから、本当は『水の月』という意味なんだよ」**というもの。
確かに、田んぼに水を引く時期だし、雨も多いし、「水の月」と言われれば、スッキリします。
でも、この説を素直に受け入れる前に、少し立ち止まって考えてしまうのです。
本当に、それだけなのでしょうか?
もし、単に「の」という音に「無」を当てただけなら、少し不自然な点が残ります。
考えてみてください。
「水の上」と書いて「水上(みなかみ)」、「水の底」と書いて「水底(みなそこ)」。
ここでも、確かに「水(み)」と「上(かみ)」や「底(そこ)」を繋ぐ、「の」の意味の「な」が隠れています。
でも、僕たちは「水無上」とか「水無底」なんて書かないですよね?
なぜ、「水無月」だけが、わざわざ「無」なんていう、紛らわしい字を当てられているんでしょうか?
もう一つ、不思議なことがあります。
睦月、如月、弥生…と、月の名前はだいたい漢字二文字なのに、なぜか6月の「水無月」と、10月の「神無月」だけが三文字で、しかも両方とも、あの「無」の字を使っている。
なんだか、この「無」には、特別な意味が込められているような気がしてなりませんか?
こうなってくると、最初の素朴な疑問に立ち返りますたくなります。
**「やっぱり文字通り、水が無くなる月だったんじゃないの?」**と。
昔は今みたいに、蛇口をひねれば水が出るわけじゃない。水は、命をつなぐ、ものすごく貴重なものでした。
そんな時代に、梅雨が明けて、これから一年で最も水が涸れる夏が始まるぞ、という時期に、「これから水が無くなるぞ」という戒めや、あるいは「水が無くなりませんように」という祈りにも似た、切実な思いが、この「水無月」という名前に込められていたとしても、不思議じゃない。
僕には、そっちの説の方が、なんだか昔の人の息づかいが聞こえてくるようで、ずっと魅力的に思えるのです。
もちろん、本当のところは誰にも分かりません。(たぶん定説の方がただしいのでしょう)
でも、こうやっていろいろ考えてみるだけならいいですよね
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